楽園が生んだ最後の悪女
よろしくお願いします。
暗い話が苦手な方はご注意下さい。
ラピスは十四歳のとき、祖国を失った。
大陸南に位置するオルルチア王国は、豊かな土壌と穏やかな気候に恵まれていた。
国には年中花々が咲き乱れ、果実の甘い匂いが漂い、地上の楽園と呼ばれるほど美しい国であった。
国王は文武に長けた英傑で、即位と同時に歴代最高の王と称された。
王妃は社交界でオルルチアの宝石と謳われた貴族の令嬢である。
二人の婚姻には国中が涙を流して祝福した。天までも恵みの雨を降らせ、その年の穀物の生産高が例年の二倍にまで跳ね上がったという逸話まである。
王と妃に間には三人の王女が生まれた。
生まれた順にリリー、スカーレット、ラピスという。
王女たちは、女神の生まれ変わりのごとき輝きを持っていた。
国王は日ごと美しくなる娘たちを守るために森の離宮に閉じ込め、人目に触れる機会を減らした。
それでも噂は大陸中に広がり、求婚の手紙が一日と絶えることなく王城に届く。
三人の王女は国にとっても民にとっても宝であった。
オルルチア。
飢えも、凍えも、戦禍もない、幸福を約束された奇跡の王国。
美しい王女の住まう土地。
国民の誰もが幸せな笑みを浮かべる楽園。
一晩で地図から消えた儚き名前。
「離しなさい! 無礼者!」
兵に腕を取られ、第二王女のスカーレットが泣き叫んだ。
ラピスは姉の隣で呆然と膝をつき、うなだれる。ここに来るまでの間に涙は枯れ尽くしていた。
なぜ、とひたすら自身に問う。
二日前の深夜、侍女の悲鳴で目を覚まし、ラピスは森の向こうに火の海を見た。それは王国全土を焼き尽くす炎だった。
父も母も臣下たちもみんな死んでしまった。国民もほとんど助からなかったという。
二人の王女はオルルチアの離宮で敵兵に捕えられ、敵国の砦に連行された。ラピスがスカーレットと対面したのはつい先ほどのことだ。
国の惨状は移動中に兵士たちの会話を盗み聞いて把握した。誰も彼も、こんな楽な戦争は初めてだと笑っていてラピスは奥歯を噛み締めた。
オルルチア王国を滅ぼしたのは、北に面するセレスタイド帝国だ。
北の国境線は険しい山脈である。兵団の山越えは難しく、ゆえに侵略の心配はないはずだった。少なくともラピスはそう教わっている。
オルルチアは小さく、閉じた王国だった。
山に囲まれ、他国との交易は限られていたが、それでも民を飢えさせることなく国は潤っていた。
一方、セレスタイド帝国は大陸の覇者と呼ばれる大国だ。
初代皇帝の代から侵略戦争を繰り返し、欲しいものはどんな手を使ってでも奪いとる。強欲で傲慢、人を人として扱わない野蛮な国だと教わった。
そして今、血濡れの玉座を継いだ者の前で、ラピスは膝を折っている。
「耳障りな姫君だ。どういう教育を受けていたのやら」
現皇帝の名はジェライド。
まだ二十六の若者である。先代皇帝の突然の病死に伴い、昨年帝位を継いだばかりだった。
屈強な大男で鬼のような形相の男と聞いていたものの、気の強そうな目鼻以外は噂とまるで違った。体の線はどちらかと言えば細い。顔立ちも端正で気品がある。今着ている灰色の軍服などより、華美な礼服の方がよほど似合いそうだ。
「黙らせろ」
ジェライドは冷たく言い放った。
兵士がスカーレットを床に倒し、背を圧迫する。
姉の苦しげな息が漏れた。
「おやめ下さい! どうか!」
ラピスが懇願すると、ジェライドは酷薄な笑みを浮かべた。
「耳障りな姫がもう一人」
ラピスが息を飲んで黙ると、ジェライドは兵士に合図を送った。自分も同じ目に遭うと身構えたが、その合図はスカーレットの拘束を緩めるものだった。
スカーレットが咳き込む声と、ジェライドの笑い声が謁見の間に響く。
「オルルチアの女神か。確かに二人とも美しいが……まだ子どもだな。どうせなら第一王女を見たかった」
「くっ、リリーお姉様はどちらに……っ?」
第一王女のリリーはこの場にいなかった。同じ離宮にいたはずだが、ここに来るまでラピスはもう一人の姉の姿を一度も見かけていない。噂も聞かなかった。
ジェライドは玉座にふんぞり返り、ラピスとスカーレットを見下ろした。
「報告では一人の騎士に連れられ、からくも逃げ果せたらしい。何と言ったかな……十三のときに巨大獅子を退治したという英雄」
「シリウス様だわ!」
スカーレットは歓喜の声を上げた。
それはリリーの婚約者の名前だった。オルルチア王国一の剣の使い手だ。強く賢く優しい、次期国王にふさわしい男である。
ラピスも彼には全幅の信頼を寄せていた。
「シリウス様とご一緒なら、お姉様はご無事に違いないわ。きっとわたくしたちを助けに来て下さる。国の仇もとって下さるでしょう。我が祖国への蛮行、死を以て償うがいいわ!」
スカーレットの苛烈な言葉に、ジェライドはくつくつと肩を揺らす。
「私が放った追っ手から逃れられればいいがな。しばし英雄殿のお手並み拝見といこうか」
「シリウス様は誰にも負けないわ!」
そうよね、と視線を寄越すスカーレットに、ラピスは曖昧に頷いた。
ラピスは痛感していた。
険しい山道をものともしない馬、一糸乱れぬ動きで役目を全うする兵士、オルルチアの王城よりも巨大な砦、離宮では嗅いだことのなかった――火薬のにおい。
離宮で隔離されて育ったとはいえ、これだけ見せつけられれば理解する。
セレスタイドとオルルチアの国力の差は歴然だ。
たとえシリウスが世界一の剣士だとしても、たとえ万民を率いる圧倒的な求心力を持っていたとしても、この帝国と肩を並べる力をつけるには何十年もかかるだろう。
助けは来ない。むしろ来ないでほしい。
ラピスは切実に祈った。こうなってしまった以上、姉のリリーを守り、生き延びてくれるのが一番だ。
二人の訃報など聞きたくない。もうこれ以上、誰にも死んでほしくない。
「まぁ、いない者の話などどうでもいいことだ。……フィニよ。嫁にするならどちらの姫がいい?」
その言葉にラピスとスカーレットは身を強張らせた。それは、恐れていたことの一つだった。
ジェライドの傍らに立っていた青年――皇帝の弟に当たるフィニはもじもじと俯いた。美麗な兄とは似ても似つかない、そばかす混じりの地味な青年だった。
「あ、兄上。そんなおおっぴらに……」
「第二王女は十八歳で、第三王女は十四歳だったな。年齢を考えると第二王女か」
ジェライドの言葉に対し、フィニは口ごもる。
「ふん、第三王女の方が好みか? 意外だな。お前、気の強い女が好きだろう」
「遊びたい子と、お嫁さんにしたい子は違います……」
「それもそうか。なんなら二人とも娶らせてもいいぞ。面白いことになりそうだ。なぁ?」
皇帝の問いかけに、謁見の間に忍び笑いが広がる。文官も兵士も、下卑た目で亡国の王女を見下していた。
あまりの羞恥にラピスは頬がひりひりするのを感じた。スカーレットなどは怒りに震えている。
「オルルチアの姫君、そういうわけだ。態度次第ではフィニの妻として我が一族に迎えよう。悪い話ではないだろう? もはや貴殿らに政治的価値はない。観賞用としては上等だから、大人しくいていれば丁重に扱おう。ただの慰みものになりたくなければ、籠の鳥になることだ」
首筋がひやりとした。絶望を突きつけられている。ラピスは再びうなだれた。
その後、ラピスとスカーレットは話す間もなく、別々の部屋に軟禁された。ベッドと洗面台があるだけの、牢屋よりは少しだけマシな部屋だ。
異国の侍女が着替えの世話をしてくれようとしたが、一人でできると告げて部屋から出ていってもらった。
なぜ、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
枯れつくしたと思った涙が一筋、ラピスの頬を伝った。
父と母の姿が瞼に浮かぶ。
最近の父は重い病に臥せっていて、王城に見舞うことも許されなかった。最後に交わした言葉すら思い出せないなんて、とラピスは歯噛みする。
次に思い出されたのは、優しく聡明な一番上の姉の笑顔。
助けに来ないでと願う心は本当だが、もう二度とリリーに会えないのだと思うと、胸が痛んだ。リリーとシリウスの結婚式に着るドレスを、随分前から侍女と相談していて、色ももう決めてあった。
次々と祖国の思い出が甦る。
何一つ残っていないだろう風景を思い、体の芯から震えた。
白く荘厳な王城も、見事な花々に彩られた庭園も、大地の恵みを濃縮した畑や果樹園も、民の笑顔が溢れていた町並みも、全て焼き崩れてしまった。
離宮の侍女たちはどうなったのだろう。
みんな働き者で明るい女性ばかりだった。オルルチアに生まれて良かった、ラピス様に仕えられて幸せだ、といつも耳心地よい言葉をくれた。
彼女たちの献身に報いるようなことは、何一つできなかった。
生のままでは甘すぎて苦手だったオルチネの実も、もう二度と食べられない。お酒になると全く違う味になるんですよ、と教えてくれたのも侍女たちだった。いつかこっそり厨房に忍び込んで飲もうと思っていたのに、その機会は永遠に訪れないだろう。
読みかけの本の結末だって気になる。病弱な姫と敵国の王子の恋物語だった。初恋の味を知らないラピスは、二人の恋の行方に胸を高鳴らせていたものだ。自分だったらどうするか、人を好きになったらどうなるか、そんなことを考えて眠る夜は心地よかった。
数日前まで手に届く場所にあった未来は、彼方へ消えた。
夢が泡のように弾けてしまった。
いっそ死んでしまいたい。
シーツを破れば首をくくる縄くらいなら作れる。なんなら舌を噛み切ってもいい。
「いいえ……それはできない」
自分が死んだ後のことを思い、ラピスは自殺を思いとどまった。
その日の夜、スカーレットが舌を噛み切って自害した。
壁には血文字が残されていたという。
――辱めを受けるくらいならば死を。セレスタイドよ、滅びよ。
翌朝、ラピスはジェライドに呼び出され、姉の最期を知った。
砦の見張り台からの眺めは圧巻だった。
地平線の彼方まで畑が広がっている。
この国の姿を見せつけられた気分だった。
「寒くないか、姫」
ジェライドはもうラピスのことを第三王女とは呼ばなかった。区別する相手がいなくなったからだろう。
ラピスの心中では嵐が吹き荒れていたが、表面上は落ち着いていられた。この男の前では絶対に涙を流さない。なけなしの誇りがラピスを支えていた。
「いいえ、大丈夫です」
ただの強がりだった。温暖なオルルチアと比べ、セレスタイドは寒い。高さと風のせいで、与えられた質素なドレスでは凍えてしまいそうだった。
「虚勢を張ってもろくなことにならんぞ」
「虚勢を張っていないと、折れてしまいそうなのです」
「さっさと折れてしまえ。楽になれる」
ジェライドが自らの軍服のマントをラピスに羽織らせた。ぞわりと悪寒が走ったが、拒絶はしなかった。
ラピスはどうしてもジェライドに聞きたいことがあったのだ。
「ジェライド陛下、どうか教えて下さい。なぜオルルチアを滅ぼしたのですか? 属国にして支配するでもなく、人々を農奴として徴集するでもなく、焼き尽くしたのはなぜですか? セレスタイドが、オルルチアのような小国を焼いて滅ぼすことに何の利点があるのです?」
もしも食糧生産のために肥えた土地が欲しいのだとしても、畑や果樹園ごと焼いてしまう理由はない。
何の交渉もなく、一方的に滅ぼされる落ち度がオルルチアにあったというのなら、知らなければならない。
「ほう」
祖国の仇は目を細めた。
「なかなかの慧眼だ。この状況で冷静に頭を巡らせる余裕があるとは、見どころがある。昨日子ども扱いしたことは謝罪しよう」
ジェライドは肩をすくめた。そして近くにいた護衛の兵士に下がるように命じる。
人払いされ、見張り台に二人きりになった。
ジェライドの腰から剣を奪い、その胸に突き立ててやれたらどんなに良いだろう。ラピスは愚かな想像を頭から打ち消し、彼の言葉を待った。
「あの国は、毒されていた」
ジェライドの顔から笑みが消えた。
何の例えだろうとラピスは考えたが、それは比喩ではなかった。
「オルチネの実。貴殿の国の名産品だ。王族から平民にいたるまで、古くから日常的に食していた果実。あれには、麻薬成分が含まれている」
「……嘘。そんな」
ジェライドは語る。
オルチネの実は快楽という毒を持っていた。
近年になって突然変異でもしたらしく、微弱な中毒性を帯び始め、瞬く間に国を蝕んでいった。
その実を食べている間は幸福感に満たされ、麻薬成分が切れると深い喪失感に襲われる。人々は常にオルチネの実ばかりを求めるようになり、他のものを食べることを拒絶、やがて栄養失調で死に至るのだ。
何かがおかしいと思っていても、昔から食べていたものを疑うことは難しい。
気づいたときには全てが手遅れだ。
ラピスは病に臥せっていた父のことを思い出す。
幸せそうな侍女の顔もだ。
みんな、オルチネの中毒に陥っていたのだとしたら。
簡単には信じられなかった。しかし、それならば全て腑に落ちる。
「わずかだが、我が国にもオルチネの実や酒が流通し、中毒者が出始めていた。調べさせてみたら貴国はひどい有様だった。どの家の庭にもオルチネの樹が植えられ、中毒者が昼間から徘徊していたそうだ。それだけではない。鳥や虫が運んだ種が王国周辺のあらゆる場所から芽を出していた。このままでは、我が国に広がるのも時間の問題だった」
知らなかった。
離宮に隔離されていたから、と言い訳することは許されない。ラピスは頭を抱えた。
ジェライドが行った非情な攻撃を強く責めることもできない。
帝国にとっては何も告げず、全てを焼き尽くすことが最善の解決法だった。
オルルチア国内の中毒者を助ける義理など帝国にはないのだ。
ラピスはオルチネの実を好んで食べなかった。だから中毒症状はない。姉たちもそうだろう。今思えば、離宮の食卓にオルチネの実が並ぶことが年々減っていったような気がする。
オルルチアの国内でも、異変に気づいた者がいたのだ。
ジェライドは淡々と言葉を紡ぐ。
「部下に王城の様子を探らせている折、貴国の英雄から密書が届いた。シリウス殿はいち早く国に見切りをつけ、我らと内通していたのだ。城に火を放ち、貴殿の両親を手にかけたのはあの男だ」
衝撃の事実にラピスはよろめく。
「そ、そんな、シリウス様が……どうして父と母を」
「オルルチア国王夫妻は、果実の中毒性に気づいていた。気づいていて娘たち以外を救おうとはしなかった。特に国王は余命幾ばくもないことを悟っていたのだろうな。生きているうちに醜聞が広がるのを恐れた。そして次期国王となるシリウス殿に全て押し付けるつもりだったのだ。歴代最高の王が聞いて呆れる」
祖国の英雄の裏切り。英傑と名高い父の怠惰。
ラピスが愕然としていると、ジェライドは鼻を鳴らした。
「シリウス殿は言っていた。一介の騎士にできることなど限られるが、愛する女を守るためなら何でもする、と。あの男とリリー王女は今頃海の上だろう。協力の見返りとして、隣の大陸への渡し状を要求されたからな。もう二度とこの大陸に戻ることはあるまい。妹姫二人も連れて行けと言ったのだが、養う義理はないそうだ。奴は私の好きにしていいと、騎士らしからぬ言葉を吐いて去って行った」
気づくと、弱々しい笑いが口から漏れていた。
「裏切り者の身の安全を願っていたなんて……」
姉も義理の兄となるはずの男も、国を裏切り、妹を見捨て逃げた。
ラピスは自分の胸に湧き上がる憎悪を押さえきれなかった。
誰も彼もが憎い。
「スカーレットお姉様も……!」
「あれは浅はかな女だったな。何のために脅して、別々に軟禁したと思っているのだ。残される妹の身を思えば、死を選ぶなど普通はあり得ん」
ラピスは考えた。
自分が死を選んだらスカーレット一人に辛い役目を押し付けることになる。生き残ったわずかな国民も絶望するだろう。だからどうしても死ぬわけにはいかなかった。
あんな挑発的な血文字を残して死ぬなんて。
もしもジェライドが激昂すれば、残されたラピスがどんな目に遭うか想像しなかったのだろうか。
お前も私の後を追って死ねばいい、とスカーレットは思っていたのかもしれない。
無理な話だ。
同じ轍を踏まないため、残された王女はより厳重に見張られるに決まっている。
「みんな、自分のことばっかり……」
全身が焦がれるように熱い。
初恋よりも先に殺意を覚える王女なんてそうそうない。
何がオルルチアの女神だ。国の宝だ。
馬鹿馬鹿しい。全て茶番だ。
「今、分かりました。地上に楽園など存在しません! わたくしの祖国は腐ったドブ沼です……!」
ついにこらえきれず、ラピスは顔を覆って涙を流した。
憎い、憎い、憎い。
みんな汚い。
自分の身まで汚らわしく思えてきて、熱と悪寒で気が狂いそうだった。
ジェライドは抑揚のない声で問うた。
「ラピス王女、貴殿はこれからどうしたい? 籠の鳥になるか、他の大陸で身寄りもなく生きるか、いっそ潔く死ぬか。オルルチアの者らしく好き勝手に選ぶがいい」
ラピスが顔を上げると、ジェライドが嘲るような笑みを浮かべていた。
ひどい侮辱を受けている。そのときラピスの胸の中である感情が弾けた。
ラピスは急いで涙を拭く。
「……わたくしはオルルチア王国最後の王女です。父母の怠惰も姉たちの非情も、全てわたくしが背負いましょう。わたくしだけは祖国と民を裏切らず、王族として役目を全ういたします。たとえ真実の姿がドブ沼でも、最後まで守りきってみせましょう」
「滅んだ国をどうやって守る?」
あくまでも気丈にラピスは微笑む。上手く笑えている自信はなかった。
「楽園としての祖国を後世に残したいのです。どうかオルチネの実のこと、オルルチア王国滅亡の真実を広めないで下さい。生き残ったわたくしの民に救いの手を差し伸べて下さいませ。そのためなら何でもいたします。どんな辱めも甘んじて受け入れましょう。わたくし自身がどうなっても構いません」
これはラピスの意地だった。
父母のように、姉たちのようになりたくない。
この身が汚れてしまっても、心根だけは清く正しく美しくありたい。自分で自分を陥れたくない。
ジェライドは口の端を歪めた。そしてラピスに向かって手を差しのべる。
ラピスが恐る恐る手を重ねると、手の甲にそっと唇を寄せた。
「……弟にやるには惜しくなった。その言葉、後悔するなよ」
二年後、ラピスは十六歳の誕生日を迎えると同時に、ジェライドの側室となった。
帝国によるオルルチア王国への攻撃は、ジェライド皇帝が美しい王女三姉妹を我が物にするために行われたものである、と後世に伝えられる。
オルルチア最後の国王夫妻は娘のために大国に抗った勇敢な王族として、長くその死を嘆かれた。
騎士シリウスと第一王女リリーは追っ手から逃れる途中で心中、悲恋の代名詞となる。
第二王女スカーレットは、誇りのために死を選んだ高潔な乙女として語り継がれた。
そして、自分の身可愛さに祖国の仇の愛を受け入れたとして、第三王女ラピスは裏切り者の悪姫として名を広めることになる。
誰も知らない。記録にも残らない。
ラピスが生涯ジェライドの傍らにかしずき、残されたオルルチアの民への救済を働きかけていたことを。
オルチネの実とともに、真実は歴史の闇に葬られた。
お読みいただきありがとうございました。