変身
追いかければ逃げるとわかっていたけれど、私は思わず駆けだした。その黒い影は猫の形をしていて、雑踏のすきまを縫って軽やかに走って行く。見覚えのあるその姿は、クロのものだった。いつのまに、こんなに家から離れたところまで来ていたのだろう。
往来を走りながらなんども人にぶつかりそうになり、そしてその度に謝る。するとクロは人混みを離れ、ビルとビルのすきまに飛びこんだ。私もその後を追う。けれど、路地を曲がったところで見失ってしまった。もっと奥に進んでいこうと思ったけれど、止めた。こんな狭い場所で、人間が猫と追いかけっこをして勝てるはずがない。
私は思わず息を吐いた。今は、加納くんと会うことが大切だ。私は急いで元来た道を戻ることにした。慌てて走って汗をかいたからか、なんだか服と鞄が重たくて歩きにくい気がしていた。
路地から出て、大通りに戻ったところでクマのぬいぐるみに出くわした。丸っこくデフォルメされたデザインだ。けれど衣装にしては、なんだか古ぼけた感じがする。ところどころ糸がほつれているし、まるで今さっき倉庫から引っ張り出してきたような代物だ。手に風船の束を握っている。遊園地なんかにいそうな、ベタな風貌だ。
「わ」
と言ったのは私ではなくてそのクマのほうだ。
「その衣装、凄く似合ってますね」
クマは女性の声をしていた。
「はあ」
私はクマが何を言っているのか良くわからなかった。クマの背後で、ネコとネズミが立ってこちらに手を振っていた。
「一枚、一緒に写真を撮りませんか」
「え」
私はネコとネズミがいるように引っ張って行かれた。クマはどこからかスマートフォンを取り出して、ネコに手渡した。クマが隣でポーズを決める。なんとか笑おうと努力している最中でシャッターが切られた。皆、きぐるみを着ているにしてはずいぶん器用だ。
「ありがとう、私もその映画好きだったよ」
クマたちはきぐるみとは思えないほど軽やかな足取りで歩いていく。可愛い? 衣装? その映画? あのクマは、一体何の事を言っているのだろう。
クマから赤外線通信で送ってもらった写真を開こうとしたところで、私のかたわらを小さな男の子が通り過ぎた。片手に風船を、もう片手でウサギのぬいぐるみの手を握っている。子どものほうが、私の方を見て言う、
「魔女さんだ」
母親の表情を伺うことはできなかったが、きっとすまなそうな、それでも我が子が可愛くて仕方がないような顔をしていることだろう。母親は私に小さく会釈をした。ウサギの耳がだらんと垂れる。男の子は構わず母親に話しかけ続けている。
「魔女さんはほうきで空を飛べるんだよね」
私は写真の画面を開いた。クマのきぐるみがいるはずのところには、二十代くらいの女の人がこちらに向けてピースサインをしている。その横では、無理やり笑おうとしてぎこちない表情をしている私がいた。しかし、そこにいる私は奇妙な格好をしていた。黒いローブを着て、髪には赤いリボンを結んでいる。そして左手には、もうどんな場所でも使われることがないような古いタイプの竹ぼうき。
私はそばにあった家電量販店のショーウィンドウに駆け寄った。ショーウィンドウのそばには、きぐるみが一匹いた。イヌをデフォルメしたものだ。
ショーウィンドウの中を覗き込む。私はもう一度、路地裏に飛び込んで隠れていたい気分になった。目の前に映っていたのは、黒いローブを身にまとい、赤いリボンを見につけ、驚きのため目を見開いている小さな魔女の姿だった。彼女は、しばらく固まったあと、片手に持ったほうきを地面に落とした。からんからんと、竹ぼうきの柄がアスファルトとぶつかって音を立てた。
そのショーウィンドウの中では、男の人が何事かと私の様子を伺っていた。けれど私の目に直接映る彼は、古ぼけたイヌのぬいぐるみに見えた。




