約束
母から聞いた話だが、まだ田舎に住んでいたころ、僕は神隠しに逢ったらしい。
夏祭りに遊びに出たきり戻らず、一週間たったあとに神社の拝殿に倒れているのが神主に見つかったのだそうだ。
ぼんやりとしか覚えていないが、それらしい記憶はある。
夏祭の赤い灯火にいつもの遊び仲間たちとはしゃぎまわって、太鼓の音が鳴り響く中、神社の境内で隠れ鬼をして遊んでいた。
そのころいた場所は長野県の奥の奥で、神社も昔から受け継がれて来たものだった。小さな境内が一つと、朱塗りの鳥居と一組の狛犬がいるだけの小さな神社だったが、曲がりくねった参道を数分歩いて杉の林を抜けないとたどり着けない、ちょっとした秘所だった。子供の僕らには、鎮守の森なんてただの遊び場に過ぎなかったのだけれど、それでもそこに漂うひんやりとした空気は、進んで一人になろうとは思えない、何か不気味な色を持っていた。
そう、度胸試しのようなものだったのだろうと思う。いつも昼間にやっている隠れ鬼を、祭りで漏れてくるかすかな明りに乗じて夜中の林で行う。それは小さな子供にとって多少のスリルを味わうまたとない好機だったのだろう。
僕は隠れ鬼が得意だった、というのは隠れるのが得意だったし、見つけるのも得意だったから、いつも遊び仲間が敬遠して、僕が鬼になることはなかった。例によって、この日も僕は隠れる側に回り、じゃあ、という簡単な掛け声で仲間たちは一人を六畳ほどの窪地に残して思い思いの隠れ場所に駆け出した。
祭りで人がいるとはいえ、あまり境内から離れて林の奥に入っては夜だしさすがに危ない、ということで(誰に言われたわけでもない。大抵子供たちというのは越えてはならない一線をわきまえている。ただその基準が往々にして大人のそれとは異なるだけだ。)境内の光の届かないところには隠れない、という暗黙の了解があったから、神社の敷地自体そこまで広くはないし、この遊びはすぐに終わりになるはずだった。
仲間たちが蜘蛛の子を散らすようにかけていくのを横目に見つつ、僕は周りを見回したのを覚えている。
鬼になるのは面倒なので仲間には教えなかったが、隠れ鬼には見つからない場所の鉄則というものがある。それが何かは、忘れてしまったけれど、そういうものを持っていた当時の僕にとって、そこ以外に隠れるに値する場所はないように思えたのだ。少しためらいはしたけれど、そのころの僕には神様なんて遠く離れすぎた希薄な存在でしかなかったから、僕は賽銭箱越しに見える、あの、障子で仕切られた密室の中へ、足音もなく入っていった。
――それが僕の稀有な体験の始まりとは知らずに。
本当はそれ以降の記憶は正確ではない。とうよりほとんど消えてしまったというほうが正しい。拝殿に隠れた僕は、隙間から仲間の動向を探ろうと障子をずらし、その前に座りこんだ。そこから急に僕の記憶には孔が出来る。一週間分という、大きすぎるほどの孔が。
今でも時々、なんだか忘れてはいけないものをその記憶の孔に落としてきてしまったような気がすることがある。それが何かはまったくわからないのだけれども、とにかく思い出さなければならない気持ちになる。
僕はいったい何を、思い出そうとしているのだろう。
「もしもし? 大丈夫ですか、お客さん」
野太い声でわれに帰る。
目の前には黒く日焼けした頑健そうな大男の宅配業者。どうやら荷物を受け取るときにぼんやりしてしまったらしい。
天候じとじとしたしつこい小雨。灰色の空を背景に立つ配達員の制服は、胸から上が水分を含んで濃く変色している。
「ん、ああ。すみません。判子ですね、たしかここらに……」
照れ隠しに玄関脇の作り付けの棚をごそごそとかき回す。配達員は手持ち無沙汰に、荷物を抱えていない左腕をほぐしながら話しかけて来る。
「しかし参っちゃいますよねぇ、ここんとこ雨ばっかりで。こうじめじめしっ放しだと、気分まで暗くなってきますよ、全く」
「そうですね」
と冷たく突き放すのは僕。
確かに梅雨入りにはまだ早すぎるような気がするのは否めないし、世間話も嫌いではないが、かといって好きというわけでもない。第一、雨を悪く言う人間は嫌いだ。
それでも、よほどの話し好きなのだろう、めげずに大男は話し続ける。
「そうそう、昨日聞いたんですけどね、そこの踏み切り、例の開かずのですけど、出るって話らしいですよ。この前そこで事故でなくなった高校生の女の子。何でも相当の美人だったのにもったいなかったって松田書店のご主人が」
「へぇ」
「こうね、踏み切り待ちしてるとね、見えるって話なんですよ。遮断機の向こうにね、ぶつぶつと俯き加減で呟いて……」
「ありました」
さえぎるように僕は判子を押しやる。
突然話をさえぎられて少し不快感が顔に出そうになったがそこはそれ、何とか抑えて営業スマイルにもどる。
そうそう、それが一番付き合いやすい。
「あ、ありがとうございます。じゃ、ここへお願いしますね」
言われるとおり年季もののシャチハタを受領証へ押し付ける。
大男はめくるようにして用紙を確認し、少し眉を上げて視線を僕に戻す。
「じゃ、これお荷物になります。はい、ありがとうございましたー」
僕は軽く会釈して、ドアを閉ざす。
公団住宅の画一的で重い鉄のドアは、力なんか込めないのに大きな音を立てて閉まった。まるで早く消えてくれといわんばかりに。
届いた荷物は母の仕事関連のものだったので、両親の寝室の前に置いておく。一瞬だけ帰宅後に手渡すことも考えたが、どうせまた深夜に酔っ払って戻ってきて手間がかかるだけなのでやはり自分で気づいてもらうことにする。毎週土曜にかならず飲み会がある、というのはいったいどういう会社なのだろうか、経営形態が不審に思えてきた。独立するまでの資金が揺らがなければそれでいいのだけれど。
廊下を通り過ぎてリビングルームに入る。湿ったというよりむしろ淀んだといったほうが近い空気が部屋の床付近に停滞して歩くたびに足首に絡み付いて鬱陶しい。明りをつければある程度このじめじめ感も解消されるのだろうが如何せん明るいのは苦手だ。とりあえず宅配業者の訪問で唐突に中断された至福のひと時を再開することにする。我が家唯一のソファに腰掛け、貰い始めて以来貯め通しだったお年玉のほとんどを消費して購入したオーディオプレイヤの一時停止をリモコンで解除する。途端に荘厳な弦楽器の重奏が聞こえてくる。曲目はかの有名なベートーベン交響曲第五番第一楽章。力を抜いて目を閉じる。「扉を叩く音」が果たしてこんな音になりうるだろうかという野暮な疑問はさておき、扉を叩く、という行為にはすこし他人とは違った思い入れがあり、この曲は何となく訴えてくるものがあるように感じる。
そう、あのときも扉をどんどんと叩く音で目が覚めたのだった。
人が一般に「神隠し」と呼ぶ怪奇現象。人一人が突如として消えてしまう。原因といわれる妖怪怪異は数あれど、世界中に頒布する「消失譚」。科学技術も未発達だったころのことを考えれば行方不明者に対する体のいい捜索打ち切りの言い訳、ともとれるこの手の現象には、「帰ってくる」という落ちがつくことが多い。果たしてそれが自らの安心を得るために後付けされた虚構であるのか、あるいは実際にあった事例を誇張しているだけなのかはわからないが、とにかく帰ってくるのだ。
しかも消えている間の記憶を失って。
話によっては記憶をなくしていないものもあるし、限定的に失っていることや、時間的関係からしてありえない期間の記憶を持っている(この場合はタイムスリップの範疇だろうが)というのもあるが、基本は忘れているのである。
どこで何をしていたのか。
どうして消えてしまったのか。
誰が、連れて行ったのか。
実に滑稽な話だと思う。大笑いだ。誰がそんなばかげた話を信じるというのか。嘘をつくならもう少しましな嘘をつけ。おおかた大人なら愛人の家にでも、子供なら遊び疲れてどこかで寝こけていたのを、民間伝承にかこつけて言い訳をしているだけに違いない。周囲の人々は「不思議なこともあるものだ」としばらくは首を傾げはするけれど、当の本人は影でそれを見ては嘲笑っているのだ。は、まったくご苦労なこと。こういったお話が世界中にあるというのだから人間にもあきれたものだ、たとえ山越え谷越え海越えても人の考えることは同じということか。きっとそうに違いない。そんな非科学的な現象なんて存在しない。
「……だろうさ」
だからきっと僕の記憶はどこかにあるのだ。失くしてなんていない、過去の自分が意図的に思い出すのを拒否しているのだろう。相当思い出したくないことが失われた記憶の上で起こっているに違いない。だれだって思い出したくない記憶の一つや二つはあるものだ。人に言われるまで思い出さない記憶なんてざらにあるし、人に言われても思い出せない記憶の大半は自分に不利なもの、記憶の欠落だなんて、珍しいことでもなんでもない。
だから、僕は、普通だ。
……なんて見苦しい。自分に弁解している。自分に嘘をつくとはよく言うが、騙しきれてさえいない。たとえどんなに理屈で心を塗り固めても、内側にある感覚に、もやもやとした記憶ですらない願望に打ち勝てない。普通? 普通って何だ? 普通でいることがそんなに大切なのかい? それとも僕はただ単にかまってほしいだけなのだろうか?
やめよう。深く考えるのは苦手だったはずだ。僕はそう、薄暗い部屋でクラシックでも聞いているのがお似合いだ。それに、やかましいポピュラーミュージック(確かJ-POPとかいった)よりはこっちの方が好みだし。僕は再び音楽の世界へと舞い戻る。
と、ベートーベンがおわり、曲目が次へと移行する。ホルンの心地よい響きが小さく入る、そして、割れんばかりのファンファーレ。チャイコフスキーの「1812年」、フランス国歌のラ・マルセイエーズとして親しまれている曲だ。序盤のゆっくりと落ち着いた雰囲気のなかで余韻を残すように響くシンバルのしゃーんという音が心地よい。
しゃーん。
しゃーん。
しゃーん。
しゃかしゃかしゃか。
……ん?
しゃかしゃか? おかしいぞ、そんなスコアではなかったはず。
僕の疑惑どおり、その音は曲調とはまったく無関係に延々と続いた。どうやらキッチンのほうから聞こえるらしい。つまり、公団住宅の間取りからして南に向かって座っている僕の真後ろというわけだ。
僕は顔をしかめて目を開ける。せっかくいい気持ちで聞いていたところだというのに。しかしこれで泥棒か何かだった暁には笑えない。「前から変わってるとは思ってたけど、401号のお子さん、自分と同じ部屋に泥棒がいたのに音楽聴いてて気づかなかったんですって。やあねぇ」なんて奥様ネットに噂されかねない。それだけは勘弁だ、毎朝学校に行くのにフードをかぶる必要が生じてしまう。僕は自分の人権を守るべくソファから立ち上がった。
が、しかし、というか当然のことながら、泥棒はおろか、猫の子一匹鼠一匹ゴキブリ(常連)すらキッチンには見つからなかった。音を出した原因はおそらく台所のどん詰まりに引っ掛けてある平箒だとはわかったものの、なぜそれがあのような音を発したのかは不明だった。
「おかしいな」
そういって僕はキッチンを見回す。まずいぞ、楽しくなってきてしまった。
確かに世の中にはいわゆる「怪奇現象」なんてないのだろうし、それは僕も了解済みのことであるけれど、しかし必ずしも人の趣味が常識の範疇内のものしか対象にしてはいけないという法はないわけで、つまるところ僕は俗に言うなんというのか、「オカルト」的な事物一切を採集することが趣味なのだ。要するにアブナイ子な訳であるが、従ってあわよくばそういった現象存在に遭遇せんと目論むのも僕にとっては趣味というか個人的な楽しみの一環な訳である。
さて、今一度キッチンを見回してみる。築十数年にしては汚れの少ない白壁や調理台に張り付くようにいろいろな物が立ち並ぶ。三段に分かれた灰色の冷蔵庫にくすんだ茶の食器棚、はたまた昨日の残りのカレーが入った鉄鍋や、流し台の向こう、出窓の狭いスペースにちんまりと据えつけられた電子レンジ。しかし、そのどれを見ても異常な部分はない。炊飯器の蓋を開けてみたりもしたけれど、案の定これまた残飯の白飯が「早く食えよ」と恨めしげに見上げかえしてきただけだった。カレーにすると必ずといっていい程米を炊きすぎる。これは万国共通の法則ではないだろうか。
結局のところいつものとおり、というか予想通りの(期待通りでは全くない)現実を見せつけられただけだった。そう、世の中には宇宙人も地底人もネッシーもチュパカブラも、勿論座敷童も存在しないのだった。ビバ、常識!
そうなのだ。僕は心のどこかで自分が神隠しに遭ったことを信じているのかもしれない。そこにそれがあったことを証明したくてこんな趣味を持ってしまったのかもしれない。もう一度、神隠しに遭いたくて?
いや、神隠しに逢いたくて。
だから僕はなにかおかしなことがあると、こう言うことにしている。捨て台詞みたいだろうけれど、帰ってくるはずのない返答を期待するのだ。どこかにいるはずの、僕の隠し神に。
「僕を攫おうってのかい?」
「ちょうど、どうしようか考えていたところだよ」
……あれ?
「それにしてもぱっとしないな。なんだか牛の糞を踏んづけた牛飼いみたいな目をしている」
「……中国山地では牛糞を踏むと背が伸びるとも言うよ」
と言いつつ周囲を再確認。リアルで誰かいるのか? 女? いったい誰が?
「じゃあ坊は街道の脇に牛糞を見つけたら喜んで踏みにいくのだな? 変わった奴」
くすくすと、笑い声は、若い。が、いったいどこから聞こえてくるのかわからない。キッチンではないのか? ていうか坊って言うな。
僕は廊下に出る。
「……誰」
「おや、坊が散々待っていたものだぞ、もう少し歓迎してくれてもいいと思うのだが?」
母の部屋を空ける。カーテンが閉まっていて暗いが、誰もいない。
「……何処にいる。出て来い」
「おお怖い。ひどい扱いようだな。まあいいか、許してやろう。きっと気が小さいのだな。『弱い犬ほどよくほえる』」
あははっという軽快な笑い声が癇に障る。
二つ三つと部屋のドアを開けてついに玄関まで来てしまった。いずれも見たものの心にリフォーム願望を強く喚起する空間ではあったが、これといって不可思議なものは無い。ホラー映画ならもう少し引っ張りたいところだが、悲しいかな、3DKの狭さは、困惑する僕の目の前でたった今証明されてしまった。
どこにも、いない?
「探している? 探しているのか? 簡単なことなのに、坊がそう望めば良いだけなのに。もう望むことすら出来なくなってしまった。純粋さを失ってしまった。可哀想に」
がたり、と背後から物音がする。
ばっと、振り向いた。
が、誰もいない。
そしてすぐ耳元から声。
うなじに息が当たる。
「私は、ここにいたのに」
再度振り返る。
至近距離に顔があった。
いつのまにか、音楽が止んでいる。
それどころか、何も音がしない。
「う、うわっ」
思わず飛びのくようにニ三歩さがる。
地味で統一した我が家の調度品には似合わない、真っ赤な和服。
パッチリとした目に、ボブカットの黒髪が印象的な丸顔の女の子が、無口な鉄の扉を背に立っていた。
女の子は首をかしげる。
「久方ぶりだな、坊」
そしてにぃっとばかりに、悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
* *
正確には人攫い、なのだそうだ。
「別に攫ってどうこうってわけでもないのだけれどもね」
と人攫いは言う。
「売り飛ばすわけでもなし、鬼じゃないのだから食ってしまうでもなし。別段そこまで性質の悪いもんじゃないとおもうのだけれど」
自称人畜無害な人攫いは神社の屋根の端に腰掛けて、そのきれいな両足をぶらぶらと揺らしている。ビルとビルの谷間にあるこぢんまりとした神社。今では神主も何もいなくなり、ただそこにあったからという理由だけで存在を許されている天神様。その貧相でひび割れが目立つ瓦葺の屋根についた、赤い着物の袖から伸びる色白な両腕が、どうにも目を引く。和服も決して高級品というわけではないらしく、むしろ比較的経済力のない、言い換えれば四畳一間三人暮らしといったような、つまるところ貧乏な人々の身につけるような継ぎだらけの、ちらほらとほつれが見える、使い古した一品だった。
「それにしても、」
と屋根の上から彼女は声をかけてくる。
「かわいくなったな、坊」
……傷ついた。
辺りは雨である。ざーざー降りだ。いやむしろざぶざぶ降りだと言っていい。事実歩道を歩くだけでざぶざぶとはいかないもののかなり景気良く水音が立つ。そんな雨にもかかわらず、彼女は傘も差さずに座っている。それも、よりによって神社の屋根の上から、僕を見下ろす形で。
その余裕で御祭神にけんかを売っている彼女は、自身のことをただ「人攫い」とだけ名乗った。
「どうした? 狐に包まれたみたいな顔して」
ぼーっとしてそれはつままれただ、と突っ込むことが出来なかった。
そんな僕を、彼女はまたあの胡桃の様な眼で注視するのだった。
あのあとのこと、つまり昨日の大騒動についてだが、僕は進んで語りたいとは思わない。どこに自分の恐れおののき逃げ惑う姿を描写されたい人間がいるだろうか。あれからのことについてはただ一言、僕の精神に世界恐慌と第三次世界大戦と自民党総裁選挙が同時に起こったとだけ言えば事足りる。足りるのだ。
……そんなことはどうでもいい。大切なのは彼女が去り際に放った一言、悲しそうな、忘れてしまったのかという一言だ。その後彼女は部屋中の家具や家財をさんざんちらかしたことに謝りもせずに(暴れて散らかしたのは主に僕だが。そこはご愛嬌)気になるのだったら明日最寄の神社に来いというある意味一方的とも取れる言葉をのこして、僕の部屋から消え去った。
文字通り、すべてが幻だったかのように、消え去っていた。
それが幻だなどという儚い希望は、たったいま僕の感覚器官が完全に否定してしまっているのだけれど。
「黙っていては何もわからないぞ、坊」
そして今僕はここにいる。
彼女が「忘れてしまったのか」などと口にした、その理由を確かめるために。
いや、むしろ、あの場面が僕の作り出した幻想などではないことを証明するために。
ただ、今の所ここに来てわかったのは、この少女がいやに饒舌だということだけだ。
「ふむ? 確かに沈黙は金というが、それなら饒舌は銀という言葉もあるのを忘れてはいないか? 私なら一粒の金よりは両腕いっぱいの銀塊を選ぶがね」
そしてまた昨日と同じように首をかしげる。癖なのか?
「まあ、」と僕は口を開く。「君の言いたいことはわかったけれど」
「おやおやこれは光栄だね。坊が自らここへたずねてきてくれただけで恐悦至極だというのに、いやはや私の突拍子のない言い分まで信じてくれるとは。この人攫い、寡聞にして坊のような存在は知らないが、まるで仏の様とはお前のことを言うんだろう」
しかも、とんでもない勘違い野郎だった。
「……わかったとは言ったけれど、それは理解したということであって、信じるとは一言も言ってない」
「ほう?」今度はさも意外だといわんばかりに眉を上げる。くるくると、実に表情の変化の忙しい奴だ。「てっきり私の真摯な説明で思い出したのかと」そして斜めに向いていた体を正面へ向ける。そしてまたあの意地悪な笑み。ひょっとしてこいつ僕をいじめて楽しんでいるんではなかろうか。
「では」と言って顔の前で雨粒を受け止めるように手のひらを上に向ける。「昨日のことはどう説明するのだね、坊。かたくなになるのはかまわないが、いい加減自分の目で見たものを信じないと、そろそろ私も困るぞ」
とこぼしてやれやれという風に首を振る。
しかし、こんなものにはいくらでも説明がつくのだ。
「君がどこで僕の過去を知ったのかは知らないけれど」と、反駁を始める。そう、よく言うオカルト現象にはかならず孔が存在する。矛盾がない超常現象はありえないし、むしろ理路整然と説明できる現象は既に超常現象ではない。たとえば今回の話なら、僕は基本的に家にいるときは戸の鍵を掛けないから侵入することは不可能ではないし、あるはずのない返答を返すことで僕の意識、とくに注意力に隙を生じさせることなど難しくもなんともない。さらには動転していた僕は探したつもりで今考えればろくに彼女の捜索などしていないし、消える時だってそういう用途の薬品さえ手に入れば「気がついたら消えていた」という演出など簡単なものだ。現に、家具類の散らかり具合は惨状というにためらわないほどだった。最近は妙な詐欺なんかもはやっているし、噂の変わり者である僕なら引っ掛けやすいとでも踏んだのかどうなのか。
「つまり、あんなものに証拠能力なんてないし、確かに無理のある反論ではあるけれど、かの高名なシャーロックホームズも言っているじゃないか、『それがどんなにありえないように思えたとしても、ありえない可能性をすべて除いていった結果なら、それが真実だ』って。悪いけれど、あの程度の体験では君が超常的な存在である、なんてことには同意しかねるね。それに、そもそも僕は神隠しになんて、いや君の言い分にあわせれば人攫いになんて遭っていない。どうやら僕の故郷ではそういうことになっているらしいけれど、そしてそういう話がまことしやかに語られているのは事実だけれど、この現代世界において物理現象を覆すような物事なんて、存在するはずがないんだよ」と、一気に畳みかけた。行方不明になったことがある、というのならわかるけれどもね、と。
しかし彼女は、ふーんと感嘆なのか失望なのか良くわからない音をだすだけで、「坊の話は長い割りに要領をえないな」とあっさり流したのだった。
「だがまあ問題は見えたぞ。つまり坊はこういいたいのだな、信じるに足る証拠を見せろと」
……いやそんなことは一言も言ってないのだけれど?
雨が傘を叩く。
「そしてその『信じるに足る』基準が坊にとっては『物理現象を覆し』たことに反論が出来ないような現象なのだな」
ふむふむ、と指の長い手を顎に当てて考える。
「だとすればそれは」
ついさっきの考え込んでいた顔は何処へやら、またもとの意地悪な笑顔に戻っている。
「そんなに難しいことではないかもしれんぞ」
そう言うと彼女は軽々と神社の屋根から飛び降りた。いくら平屋作りとは言え、普通の女の子の所業ではない。かといって、そこまで驚くほどのことでもない。多少運動神経のいい者ならこの程度の軽業は難なくとは言わないけれど失敗しない程度にはこなして見せるだろう。
「私が普通ではないとわかれば、思い出す糧にもなろうしな。それに私はその、なんだ、写楽法難などというやからは知らんからな。そいつの言ってることが正しいと鵜呑みにすることは出来ないのだよ」
そういうと彼女は咳をするようにこぶしを口元に当て、くすくすと含みのある笑いをこぼした。
雨にたたずむ着物の少女はあまりに神社に良く映えた。
ぞぞぞと、背筋を何かが走りぬける。
静かに、なる。
昨日と、同じ。
でもこんなのは、緊張による感覚狭窄に過ぎない。
彼女は歩いてくる。
ふふふ、ふふふと笑いながら、ゆっくりと、だが着実に一歩一歩を進めてくる。追い詰めるように。
傘を雨が打つ音が遠のく。
そういえば、彼女はなぜ傘を差さないのだろう。
と注意がそれたと思うと彼女は目の前にいた。
訪れる完全な無音。
そして、僕の左手をとり自分の頬へと持ち上げた。
触れる。
「ほら、雨に、濡れていない」
あ。
「あ」
一瞬、脳を駆け巡る。
かつて幼かったころ、同じような光景がなかったか。
映画を見るように記憶がよみがえる。
狭く暗い洞のなかで寒い寒いと泣きじゃくる野球帽をかぶった子どもと、隣にしゃがんであやすように頭を撫でる着物の少女。暗いが故にどちらも洞の片隅にひっそりと立つ行灯のかすかな光に浮かび上がったシルエットでしか見えない。少女は思いついたように「あ」というと、ゆっくり少年の目に当てられた右手を手に取り、自分の頬にあて、にっこり笑って優しい声でこう言うのだ。「ほら、
「あったかい……」
突然すべての音が戻った。
うるさい雨音、遠くのエンジン音、木々のざわめき、僕の鼓動。
僕は引き剥がすように少女の手のひらから右手を振りほどく。
「あ」
とは少女の声。
「う」
とは僕の声。
一瞬少女の顔が太陽に照らされたようにぱあっと明るくなる。しかし、僕の表情を見てまたすぐに眉を落とした。
僕は、どんな顔をしていたのだろう。
いや、予想はつく。
僕は長い間、否定し続けた。
この七年間、そんなものはないと、自分に言い聞かせ続けてきた。それが僕のスタンスで、病的なまでの自衛手段。
否定しすぎたのだ。だから、きっと。
嫌悪の表情だったに違いない。
少女が顔を伏せてすぐ、僕は激しい自己嫌悪に襲われた。
僕は、僕を偽ろうとして、その結果偽り切れないことなどわかっているのに、他人を傷つける。
少女は、静かに泣きだした。
僕は、どうしていいかわからずに、
ああ、どうしてあんなことをしてしまったのだろう。
鴉の泣き声の響く神社から、逃げ出していた。
いつの間にか、もう、夕方だった。
**
人が考える以上に世の中には恐ろしい者たちが徘徊している。
それは、昼間の涼しげな大木の木陰だったり、無言で立ちはだかる年老いた校舎だったり、深夜の仕事机のコーヒー染みだったり、寝室の真っ暗な天井だったり、いたるところに人間にはわからない者たちが息を潜めて隠れている、それを僕は知っている。
けれどそれはきっと口にしてはいけないことだし、関わってはいけないものだ。大人たちがあんなにそれらを「いない」というのもきっと彼らから逃げるために違いない。
そして僕らは大人になるに連れて彼ら僕たちとは相容れない存在を忘れ、彼らを見なくなることによって、彼らからの干渉を逃れるのだろう。
でも、それはいやだ。なんとなく、いやだ。
大人たちは暗くなったら帰っておいで言う。それは彼らの多くが闇に潜んでいるから。でも大人は何故そこまで彼らを避けようとするのか、大人には彼らが見えていないのに、どうしてそれが「いけないもの」だとわかるのだろうか。
大人は賢く、だからこそ時に身勝手だ。僕たちのことを考えるといって自分の主張を無理に押し付けてくる。そう、だから僕らは僕ら自身で見つけなければならない。あそこに隠れている者たちが、果たして僕たちに害なすものであるのかどうか。
しかし、僕の仲間たちは既に大人に害されてしまったようだ。仲間たちが彼らを見ることは僕が覚えている限りなくなり、必要以上に暗闇を恐れることもなくなってしまった。
僕は僕の仲間たちに取り戻さなければならない。だから、これは絶好の機会なのだ。僕らとは違う、彼らを試すための。そして、僕の仲間に、彼らがなくしてしまった大切なものを取り戻すための。その、絶好の機会なのだ。
たいしたものだ、夜中の縁日という奴は。
**
僕は走っていた。
傘はあの時投げ出してしまっていた。
家に向かうでもなく、裏路地を駆け抜け当てもなく馳せていた。
逃げるように?
違う、ただひたすら逃げるために。
思い出したのか、あのときのことを、空白の一週間を。あの光景は、そのときの記憶だったのだろうか。
あの感覚、洞窟の冷たい床、滴る水滴が体を打つぞっとするような感触、恐怖に取り残された孤独、そして手を差し伸べてきた少女の温もりと行灯のかすかで弱弱しい光。
それは、「願望が作り出した幻想」と否定するにはあまりに現実的過ぎて、しかし事実だというにはあまりに非現実的すぎた。
それが事実なのか、あるいは僕の脳が作り出した電気信号の塊に過ぎないのかはわからない。しかし、一つだけ、思った。確信してしまった。
僕は、彼女を知っている。
僕は思い出すのを拒むようにひたすら雨の中を走り続けた。
あの子とは違い、もう既にびしょ濡れだ。
大好きな雨なのに、今はまるで僕を責め立てるように感じられる。
人がひしめく大通りにでる。傘もなく必死の形相で走る少年に、幾人かの人々はその姿を目で追い、あるいは眉を潜め、もしくはあっけにとられている。
しかしそのほとんどはまるで興味がないかのように、自分には関係ないかのようにただ僕とすれ違っていくばかり。
僕は急にただ歩くだけの人々に、恐怖に近いものを覚えた。
あれらは、僕だ。
人々の流れをくぐりぬけながら思う。
あれらは、昨日までの僕と変わらない。
自分が見たいと思うものを、「現実」という無常な檻の前に捨ててきた、諦観の塊だ。まだ見ることのできる者を妬み、嫉み、その感情をそういったものへの否定に摩り替える、無関心を装う。さながら自分は群れの中にいる一人なのだと主張し、見えざるモノを否定する、圧倒的な力で排除する。必要ない、有り得ないものだとして排斥するものたち。
幼いころの、雷に震えた記憶や祟りという言葉を耳にするたびに泣き出しそうになったあのころの心をすべて否定する、醜い者たち。自分という顔をなくした者たち。
僕は、何のために否定してきたのか。
いじめられたから? おそれられたから? 面倒だから? 好奇の目が鬱陶しかったから? 社会で生きていくのに、邪魔だから?
理由は年齢を重ねるにつれて高度になり、巧妙になり、より正論に近づいていく。「群衆」が共感できるものへと近づいていった。でも、それは本当の理由ではないはずだ。
僕はそう、きっと、ただ羨ましかっただけなのだ。
世の中にまだ彼らを知る者たちがいるということが。
なぜなら、あれ以来、僕は彼らを見ることがなくなったのだから。
僕は僕がそうだった者たちのなかから離れようと、大通りを抜けるように進路をとる。
しかし人の群れはなかなかなくならない。
まるで、このむなしい連鎖から抜け出す僕を、否定して自分を慰める悲しい輪から離れようとする僕を引き止めるように、絡めとるように、僕の行く手に立ちはだかる。「お前は我々とおなじ、醜い嫉妬の塊だ」と、罵倒するように呪詛するように僕を邪魔する。
僕は半ば狂ってしまったかのように駆けた。あの子から逃げるように、あの人々から逃げるように、彼岸へ彼岸へ彼岸へ。
教会を越え、小学校を通り過ぎ、商店街を駆け抜け、そして、踏切。
無常に降りる踏切。
僕は、立ち尽くした。
あのときの僕なら、踏切ぐらいくぐり抜けてはしりぬけていた。
僕を止めたのは遮断機ではなかった。
目の前に見えた光景。
制服の、美しい、少女。
音がなくなる。
少女の制服は、濡れていない。
思い出される、昨日の朝の宅配業者。
「そうそう、昨日聞いたんですけどね、そこの踏み切り、例の開かずのですけど、出るって話らしいですよ。この前そこで事故でなくなった高校生の女の子」
高校生の
事故でなくなった
出るって話らしい
女の子
見る力が戻っていた。
死人が、見えた。
**
怖い。
彼らはやはり触れてはいけないものだったのだ。大人たちが正しかった。与えられる禁忌と破られる禁忌。昔話そのままだ。いやだ。恐ろしい。隠れ鬼をしただけなのに、遊び半分のつもりだったのに、鍵がかかっていなかった。祭りだから、神輿を入れるから、戸が開いていた。障子をしめて、隙間から外を見ていた。覗いていた。いやだ、思い出したくない。突然のうめき声、背後から触れる獣の手。悲鳴。開かない障子。めくら滅法に腕を振り回す。獣のにおい、血のにおい。暗闇に浮き上がる瞳のない目。背後に見えた道。駆け出して。命がけで逃げ出して。気がついたらここだった。
真っ暗で狭い空間、ひんやりとした空気が流れることもなく停滞している。
ひざを抱えてもたれかかった壁も、疲れきって尻を着いた冷たい地面、ごつごつとした岩の感触と染み出るような湿気にぬめる苔、ぼくは暗闇の中、独りだ。
独りぼっちだ。
走る途中幾度も転び、低い天井に頭をぶつけた。手足は既に傷だらけだ。
寒いのと痛いのと怖いのとで泣き出したい気持ちを必至で抑える。
あいつが、戻ってくるかも知れない。
あいつ。
あれは、悪いものだ。
触れてはいけないものだ。
昔話に出てくる、人を食らい生き血をすする者にちがいない。
闇を切り取ったようにくっきりと浮かび上がった残忍そうな双眸。
怖くなって、力強く自分を抱く。
ぼくは、一人。
強くかみ締めた奥歯が痛い。
だめだ、泣く。
そう思った瞬間、目の前をやわらかい明りが照らし出した。
「坊、迷い童か?」
行灯を手にした着物の十六七の少女が、にこっと笑ってしゃがんでいた。
弱弱しい光、ひ弱な女の子が、そのときは、とてつもなく心強く思えた。
「どうした、坊。黙っていてはわからないぞ」
堰が切れた。
心に張った最後の防衛線が、決壊する。
とうとう声を上げて泣き出してしまう。
少女は困ったように首をかしげると、片手の行灯を地面に置き、右手をぼくの頭へ伸ばす。
「いい子だ、坊。きっと、怖かったんだな」
ぼくはかろうじてわかるくらいに頷く。
しゃくりあげながらぶるぶると震える。
「そうか。もう、大丈夫だぞ」
その言葉に、ぼくは安心したのだろうか、両手を目に当ててしくしくと涙する。
「短い袖だな、そんなでは寒いだろうに」
そういうと少女は伸ばした右手を襟元に戻して、左右をみる。まるで上掛けを探すように、そんなもの、この洞にあるわけがないのに。
あきらめたのか少女はまた困った顔になる。行灯を近づけて多少でも暖を取ろうというのか、そっちのほうへ手を伸ばしかけ、
「あ」
というと、思いついたように頷き、その右手を再度ぼくのほうへ伸ばす。
白くてきれいな指の長い手がぼくの左手を目頭から優しく引き離すと、自分の方へと引き寄せる。
ぼくは必然多少前のめりになり、涙で赤い目で彼女の顔を見る。
乱れたおかっぱ頭が印象的な、目の大きな丸顔だった。
そして少女は取ったぼくの手のひらを自分の左頬に、押さえるようにして当てて、言った。
「ほら、あったかい」
ぼくは、思わず、少女に抱きついていた。
少女は着物が濡れるのも厭わずに立てひざをつき、ぼくを受け止める。
そして、泣きじゃくるぼくに、やさしく声をかける。
「もう、大丈夫だぞ」
ぼくは、急に眠くなって、眠りに落ちる。
**
雨の中立ち尽くす。
うちの高校の制服だ。
死人は遮断機の向こう側に立っている。
うつむいて、その目が何を見ているのかここからはうかがえない。
制服は、濡れていない。
長い黒髪、白い手が、黒い制服とは対照的に際立って見える。
死人は動かない。
ただ、呟いているようだ。
なんと口にしているかはわからない。
ただ繰り返し繰り返し同じ言葉をぶつぶつと、呪文でも唱えるかのように呟いている。
何を、言っているのだろう。
僕は、どうして君が見えるんだ。
そんなことは出来なくなったはず。
僕はこんなにも汚れて、こんなにも卑怯で、群れに毒されてしまったのに?
君は、なんていっているんだ。
僕は近づく。
一歩、二歩。
恨み言か、助けを求めるのか、僕を、誘っているのか。
三歩、四歩。
「……だけなのに、それだけなのに、それだけなのに……」
それだけ?
少女はもう目の前だ。手を伸ばせば届くところにいる。
五歩、六歩。
遮断機を越える。
静かだ、少女の声以外、何も、聞こえない。
線路に入る。
「それだけなのに、それだけなのに、それだけなのに!」
少女の前に立ち尽くす。
そして少女は顔を上げた。
瞳のない目。
恐怖。
足がすくむ。
がしっと肩をつかまる。
動けない。
「一緒に映画へ行きたかっただけなのに!」
瞬間。
引き剥がされる。
自分が中を舞っているのを認識する。
視界が回転し、地面に叩きつけられ――
* *
山道だった。
道ともいえないようなただ幾度か通ったからそこだけ草の分け目になっているというような獣道を僕は担がれていた。
体が異常にだるい。
まだぼやける眼だけ動かして視界の限り周囲を見回す。
空から降り注ぐ陽光を緩やかに遮り薄緑に着色する若葉の天井、360度何処までも林立する細長い白樺の木々、それらの足元でさわさわとそよ風になびく大人のひざほどもある雑草。
周期的な上下動とともにゆっくりと背後へと流れていくのどかな林の風景が、再び僕に眠気をもたらす。
あまりの心地よさにまた眠りに落ちてしまいそうになったが、気力を振り絞って首をもたげる。
(ここは何処だろう? )
だるい。夏なのになぜか体が寒い。目もかすむし、頭も痛い。
「……う」
がくっと、首の力を抜いてまた彼女の肩に預ける。
「お?」
洞窟で出会った着物の女の子は、軽い掛け声とともにずり落ちかけていた僕を負ぶさりなおし、顔を少しこちらへ傾けた。
頬に触る彼女の髪の毛がくすぐったい。
「起きたか、坊。じっとしていろよ、あと少しで私の家だ。そこまで行ったら横になれるからな」
少女はまた笑みを漏らす。
暖かい、笑顔。
少女の背中のぬくもりを感じながら、僕は働かない頭で精一杯の疑問を作る。
ここはどこ?
言葉になったかどうかも疑問な小さい声だったが、少女には聞こえたらしく、
「さっきの洞窟を抜けた先だ。あのあとお前が完全に寝込んでしまってな、家がどこかもわからんからどうしようかと迷っていたら眠りこんだ矢先にうなされだした。これはと思って額をあわせてみたところ私よりはるかに熱くての、長らく人間の肌に触れていなかったから気づかなんだが、どうやら風邪をこじらせてしまったようだの。まあ、あのような湿気のこもった冷たいところにおれば当然だろう。とりあえず手当てをしようと私の家に向かっているところだ」
うちに、かえりたい。
「だめだ。少なくともいまの様子ではあの洞窟を越えることはできん。少し快復してからだな」
少女はかまわず歩き続ける。
僕は黙る。
疲れたからだけではない。
なにか引っかかるのだ。
熱を発する頭に鞭打ってオーバーヒート直前になるまで考える。
少女は話し続ける。
「いやしかし驚いたな。珍しく狢が騒いでおったので様子を見に出てみれば、お前のような小さいのがのう。珍しいには珍しいが重なるものなのかのう、狢が何かを狙うのも珍しければ、それを逃れたのが坊のような童子とはなあ。大の大人でも大抵は道の中途で喰らわれてしまうというのに、そこにちょうど私が通りかかったというのも実になんというか、数奇なことよ」
狢? それは想像上の生き物では……? それともあれらのうちにそういう種が本当にあるのだろうか。
思わず疑問が口を突いて出ていたのだろう、少女は答えるように続けた。
「狢はの、人の存在の欠片食らう生き物じゃ。多くは夫婦で一組となって動いていてな、先の洞窟のような巣穴に通りかかった人間の存在の断片、つまり記憶を食うて生きておる。ところが今日はよほど腹が減っていたのだろう、なにしろここ数年すっかりあの洞をとおるものもなくなってしまってな、それでお前の存在そのものを食らおうとしておったのじゃ。だがの、もう心配はいらん。彼奴らは巣穴からは基本的に出ることが出来んのじゃ。ここはもうほとんど私の庭だからな、強引に踏み込んできたりはせんだろう」
だから安心して負ぶさっていろ、と穏やかに言葉を発する。
しかし――
食う?
存在を?
間違いなく少女の言う狢は「あれら」の一つだ。
そして僕はそれに襲われた。
そして少女に助けられた。
だが待て。
拝殿の裏に洞窟なんてあったか?
否、一昨年の夏に遊び半分で神社の背後に忍び込んで神主にこっぴどくしかられた。
その時は、草地だった。小さな広場のようなところにぽつねんと石碑のようなものがあるだけの、何の変哲も無い草地。そして聳え立つ崖。
あれ?
洞窟は?
頭が重い。
僕は動かない。
聞こえていないつもりなのだろうか、少女はしゃべり続ける。
「しかしなぁ、実は私も坊がこちらへ来てくれて助かったのじゃ。不猟なのは私とて狢と同じでの、そろそろ飢え死にを覚悟しなければと考えておった。しかしこれであと四十九日は糧に悩まんで済む。のう、坊が少し、存在を分けてくれればの」
分ける?
存在?
不猟?
飢え死に?
「さあ、もう少しで私の家じゃ。そこでゆっくり、寝かしてやる」
ここは、何処だ?
ここは、あちら側だ。
彼女は、彼女も、「あれら」なのだ。
彼女は僕を助けた。
何のために?
ゆっくり、寝かして。
喰う、ために。
喰われる!
「見えたぞ、我が家じゃ」
少女は、莞爾と、笑った。
**
音が戻った。
轟音。
駆け抜ける鉄の車体。
轢かれたかと思った。
そう、轢かれてはいない。
僕は遮断機を越えて飛ばされたようだ。
背中が痛い。
電車はブレーキをかけた気配もなく速度を保ったまま通り過ぎていった。
そして、踏み切りの向こう側に立つ人影。
赤い着物にボブカット。
「活動写真を見たかっただけとは贅沢な小娘だ」
人攫いが、立っていた。
**
逃げた。
庭と思しき開けた土地へ少女が足を踏み入れようとしたその瞬間、僕は朦朧とする意識の中で力の限り手足を振り回し、少女の背から転げ落ちるようにして降りると、氷鬼で鍛えた足で、全速力で逃げ出した。
少女が大声で何かを叫んでいるのが聞こえたが、内容はわからない。
ただ恐ろしく、ただ離れたかった。
家に帰りたかった。
おそらくは少女がたどってきたであろう一本の獣道を洞窟へ戻るように駆ける。
一刻も早く、「こちらがわ」へと戻りたい。
拝殿のふすまから、夏祭りの最中の参道へ戻りたい。
自分の越ほどもあるような草を掻き分け掻き分けひたすら大またで走り続ける。
いくら少女の体が僕より大きいとはいえ、着物にぞうりだ。短パンに運動靴の敵ではない。
目じりからたれる塩辛い水滴も拭わずに、僕はただ泣きそうになりながら駆けた。
どれだけ駆け続けたのだろう、気がつくと僕はいつの間にか洞窟の入り口らしい裂けた山肌の前で、うずくまるようにしてへたり込んでいた。
さわさわという草木の擦れ合う音と混じって、びゅうびゅうという風の吹き出す音が聞こえる。
荒い息を整えながら、僕はもう一度おぼつかない足取りで立ち上がる。
この洞窟を抜ければいい。
どうやって抜けるかなど、考えもしなかった。
とにかく、狢とやらが僕を探しに遠くへ行っていることを願って、その洞窟へ入ろうとする。
一歩を踏み出し、車一台分ほどの穴の縁へ手をかける。
深呼吸。
吹き出てくる風が僕の短い髪をなびかせる。
静かな洞窟。
冷たい空気。
何もいない気がした。
なんだか大丈夫なような、このまま洞窟に入ればなんとかなるような、そんな気がした。
そう、洞窟に入れば。
僕は、右足を、踏みだそうとして、
「危ない!」
それはほぼ同時に起こった。
黒板を引っ掻いたような奇声を上げて、熊ほどもある真っ黒い、影だけのもやもやした何かがふたつ、洞窟から飛び出した。
僕は横っ飛びに現れた赤い何かに突き飛ばされて、サッカーボールほどの太さの木の根っこに後頭部をしたたかにぶつけた。
くらくらする視界を無理に固定すると、ひどい頭痛のなか少女が黒いもやもやと格闘しているのが見えた。
黒いもやもやの一方を地面に組み伏せると、少女は両手をそれに押し当てるようにして何事か叫んだ。
すると、黒いもやもやはまるでそれが何らかの虫の集まりであったかのように、拡散し、空中へと散らばって消えていった。
一方のもやもやも習うようにして消えた。
少女は肩で息をしながら、僕から五メートルほど離れたその場所で、そのままぺたんと座り込んでしまった。
僕は動けない。
「まったく」
荒い息を押さえつけるように少女はうめく。
「愚かな真似を」
乱れた黒髪を気にも留めず、少女はきっとこちらを睨む。
身がすくんだ。
やおら少女はゆっくりと立ち上がり、僕の元へと歩いてくる。
「聞いていたなら聞いていたでもう少し頭を使え。私はなにも喰らうなどとは一言も口にしておらんだろうに。何を早合点したのだか、あのままではお前は確実に消えていた」
座り込んだ僕の眼前で立ち止まった。
「私がいなかったらどうするつもりだったのか、まんまと奴らの餌にだまされおって。お前、自分の考えていたことを思い出せるか? 洞窟を抜ければなんとかなる、からいつのまにやら洞窟に入れば、になっていなかったか?」
少女は息をつく。
「愚か者が」
そういうと少女は肩ひざを突き、その指の長いきれいな右手を上げて、僕の頬を打った。
痛かった。
少女はそのまま僕の目の前に座り込む。
「たった七日、たった七日だけだ。それだけ一緒にいてくれれば良いのに、そんなに私がいやなのか。人で無い存在が恐ろしいのか。人に合えたのは久方ぶりなのに、これで一人ではなくなると思うていたのに。お前が消えたらどうしてくれるつもりだったのだ。死ぬならまだ良い、魂だけでも返してやれる。しかしあんなものに食らわれては後には何も残らない。また一人私の所為で不幸を被る者が出て、そして私はまた独りぼっちだ。分けてくれないならくれないでいい、せめて私が消えてしまうその瞬間まで、どうして一緒にいてくれないのか。恩なんか返してくれなくて良い、ただそこに、少しの間だけいてくれれば良いのに。お前がいなくなれば、私はまた一人、また、誰にも必要とされない、要らない子になってしまう。そんなのは、そんなのは……」
生きていたときだけで十分だ。
彼女はそうこぼすと僕を抱きしめた。
否。
抱きついてきた。
泣いていた。
彼女の目じりから零れ落ちる涙は、熱かった。
**
間引き、という言葉がある。
本来の意味は成長の悪い苗を、他の苗の邪魔にならないように抜き取るという意味の農業語だ。
しかし、それとは別に、底なしに暗い側面も持つ。
過去、貧乏な家庭、特に農民などはただでさえ少ない手取りで、祖父母を含めた家族全員を養っていかなければならなかった。
そんな家庭を、飢饉が襲ったら。
家族全員を食わせていくことは出来ない。
一族の全滅を避けるためには――。
そうして幾度と無く繰り返されてきた、間引き。
彼女は、そのひとりなのだという。
「私は貧しい農家の六人兄弟の長女だった」
灯台のろうそくの照らし出す薄暗い居間で、彼女は重い口を開いた。
「別に体が弱かったとか、そういうことじゃない。嫁の貰い手が無いとか、そんなことでもなかった」
自慢じゃないが、これでも我ながら器量はいいほうだと思うしな。
「どこが悪いでもない、日々の仕事だってちゃんとこなしていた。ただな、」
見えたのだ。
「小さなときからずっと、見えていた。物心ついたときには、両親にも祖父母にも見えないものを、指差してあれは何と尋ねていたらしい。あの時代は、そういうのには敏感だったからな、祖父母は勿論、二親まで、私のことを気味悪がった。好いてくれているのはわかるのだが、一定の距離以上には、必要が無い限り近づいてこなかった」
父には抱かれた記憶も無い。
「それでも割かしうまくやっていたんだ。ものの道理がわかるようになってからは、自分からそのようなことは口にしないようにしていたしな。祖父母とも少しずつ距離が近づいていった。そんな頃だったんだ」
夏も終わりに近づいていた。
嵐が来た。
「うちの村の田は、みんなだめになってしまった。そこまでしなくとも、と言うくらい、根こそぎ持っていかれていた」
目の前に広がる、絶望。
「四日ほど後だった。まだ村の皆も立ち直れていなかった。夜、厠に行きたくなってな、ふと目が覚めたのだ」
するとなぜか土間から話し声が聞こえる。
もう丑三ごろだというのに?
「聞いてしまった。あのこなら納得してくれると、確かに父はそういった」
最初はいよいよ嫁に出されるのだと思ったそうだ。
ところが、
「次の日の朝じゃ、何故か今日は天神様へ行くという。それも私だけについて来いと言っての」
向かった先は、明らかに天神様ではなかったそうだ。
「うすうす感づいておったのじゃ。それで、なにも言わずについていった」
一刻ほども歩いたころ、その近辺では有名な絶壁へ出たそうだ。
「予感はもう確信になっておった。父様が崖の縁まで歩いていっての、いい景色だぞーというんじゃ。無理に明るい声を出してな」
お前も見ないか。
そういわれた。
「ああ、と思うた。悲しくなった。でも、それでもいいと思う気持ちが、少しだけ首をもたげつつもあった。今まで厭われ疎まれ続けてきたのが、これで役に立てるのならと」
うん。
いつもと変わらぬ明るい声で、そう答えて父の隣へ歩みでた。
父は十六になる娘を抱き上げた。
それが、最初で最後の、父に抱いてもらった記憶。
ごめんな。
そういうと父は――。
「おそろしかった。でも、抗うたりはしなかった」
落ちていく途中に見た山々は、本当にいい眺めだったぞ。
「それで、真っ暗になった」
そのとき着ていたのが、今来ている赤い着物。継ぎだらけの、それでも精一杯の、晴れ着。
「再び目が開くとは思わなんだ。でも、あいた。そして光が見えた」
気がつけば、見えていたものの仲間に、なっていた。
「誰に教わったでもない。以前から知っていたかのように私の頭の中に書き込まれていた」
私は人を攫うもの。
その人と七日を「こちら」で過ごせば、
次の四十九日の安息を得る。
攫えなければ、
死ぬ。
「そうして私はいままでずっと、要らない子でいたわけだ」
二百年近く、ずっと。
あまりに悲しい、二百年だ。
次でやめにしようと、思っていたのだそうだ。
要らない子で居つづけるために、人を不幸にするのはもう嫌気がさしていたのだそうだ。
「攫われれば不幸になる。当然だろう? 有無も言わさずつれてこられて、脅されるように恐怖のままに七日を過ごす。たとえ結果向こう側へ帰れたとしても、一週間の蒸発はさまざまな不具合をもたらすだろう」
そこに、僕が現れた。
「攫わないのに私の前に現れた人間は、坊が初めてだった。私は坊に希望を見出したのだろう。坊が自らここに居てくれる、私を『要らなくない』と言ってくれるかもしれないと。迷惑千万な話だ」
そういうと彼女は斜め前に落としていた目を上げた。
僕を、僕の目を、見つめる。
「すまなかった」
そして頭を下げた。
「あのまま返しておくべきだった。狢の巣穴とはいえ、私がいれば通れたかも知れぬ。こちらへつれてきたのは、完全に私のわがままだった。許してくれ」
これからうちに帰してやるから。
私はここで消えるから。
そう言って彼女は頭を下げ続けた。
迷惑?
一人で消える?
それじゃああまりに悲しいじゃないか。
僕は決めた。
「七日でしょ? 決めた。ここにいる」
思ったとおりのか細い声。
「気を使う必要などどこにも……」
僕は、今度はしっかり聞こえるように、声に出した。
「だって、君がいなくなったら、悲しいもの」
**
そして、約束の一週間がたった。
色々、あった。
僕の風邪はすっかりよくなり、幾度か周囲の森を散歩したりもした。
たくさん笑い、たくさん話した。
人攫いは、ことあるごとに首をかしげた。
僕は思った、見えてよかった、と。
「坊、家に帰りたいか」
それは唐突だった。
この一週間毎日繰り返してきたすがすがしい朝食でのできごとだった。
囲炉裏を挟んで僕は正座した人攫いと向かい合っていた。ぼくが絶妙な塩加減の山魚に箸を伸ばそうとしたとき、人攫いが唐突に切り出した。
つ、と箸を持った右手を空中でとめ、視線だけ向こうに向ける。
「坊、気にかける必要はない。もう十分過ぎるほど、一緒に居てくれた」
合わせた視線をもう一度外してしまう。こうも無防備に聞かれると、後ろめたい気持ちがむくむくと首をもたげる。
「遠慮はいらないぞ、大切なことだ」
そして人攫いは覗き込むように顔を傾ける。
ぼくは、こくっと、頷いた。
人攫いは少しうつむいて悲しい表情を見せたが、それももしかしたらぼくのおもいちがいかもしれないと思えるほど短い時間のことだった。
人攫いは顔を上げると、わかった、といつもの笑顔で答えた。
囲炉裏にかかった味噌汁の湯気で人攫いの姿が霞んだと思うと、ぼくの意識は真っ暗闇に落ちていった。
この世界でどれだけのものが、彼女の孤独を癒せたろう。
僕とて、完全に彼女を絶望のふちから、悲しみの泥沼から引き上げられたとは思わない。
でも、僕はただみていられなかった。彼女が一人で、悲しみに飲まれて消えていってしまうのを。
でも僕が居なくなれば、帰ってしまえば、彼女は満足して今度こそ消えてしまうかもしれない。あるいはまた絶望にとらわれてしまうかもしれない。
そうならないように、僕は――
気がつくとあの通路だった。
神社に隠れて化け物から逃げた、あの通路。
あの時は必死で逃げることだけを考えていたのでそこがどういう道なのか観察する余裕がなかったが、今その場所に立ってみると、明るいということもあってかずいぶんと綺麗に見える。
一直線の板張りの廊下、果ては見えなく天井と床と壁が一点にむかって消失しているようにも見える。両側の壁はすべて高級そうな障子張りで、天井は床と同じように板張りだった。どちらも磨きつくされたように輝いているので、ともすれば上下を見間違ってしまったかのような不思議な感覚に襲われる。その永遠とも取れる回廊に、ぼくと人攫いは並ぶように立っていた。
ぼくは障子の向こうがどうなっているのか考え、いかなる仮説も立ちそうにないので(こんな長い廊下を作れる場所はぼくの町にはなかった)そちらへ目線を向ける。
す、と人攫いの手がぼくの肩を捕まえる。
そしてかがみこんで耳元で、「あけてはだめ」と言う。
「ここは何処でもあて何処でもない場所、隔てられているからどことも隔てられない。一つでも少しでも障子を開けると、途端にこの回廊が坊を排除する。自分にあだなすものと判断してな」
そしてぼくを自分の正面に移動させる。
「坊はあちらからきた。だから、あちらにいけばきたところに帰れる」
「反対はどうなっているの?」
そう言ってぼくは上半身だけで後ろを振り返る。そこにあったのは、同じような廊下が反対と同じようにひたすらに続いている光景だった。
「坊、この回廊はどちらも同じだ。そして、どちらもどちらとはいえない。坊は、帰る方向を知っていればいい」
もう一度、前を向かせる。
「さあ、坊、これから私が言うことを良く聞いて、言われたとおりにするんだ。できるか?」
ぼくは人攫いの顔を見上げた。
「ぼくは何をすればいいの?」
人攫いは少し悲しそうに微笑んで言った。
「坊、もうこの廊下には私の言うことを聞くか、聞かないかの選択肢しかない。坊が私に聞くことはできないのだよ、私が坊にそうしろというまではの。それがここのルールだ。わかるな?」
ぼくは訳がわからなかった。
こんな長い廊下はありえない、そもそもどうやってここに来たのか、何でぼくが命令されなければならないのかと、言いたいことはたくさんあったが、とりあえず黙って頷く。
人攫いはにこっとして、いいぞと褒める。
「聞き分けがいいな、坊は。では良く聞け」
人攫いが言うにはこうだった。ぼくはただ、一人でこの廊下をまっすぐに歩いていけばいい。その間、決して障子に触れてはいけないし、何が起ころうと振り返ったり、呼びかけに答えたりしてはいけない。立ち止まってはいけない。それさえ守っていればうちに帰れる、と。
「わかったな、坊。これが全部だ。質問はあるか?」
見上げっぱなしだった顔を戻してぼくの行くべき方角を見る。
「まもれなかったら、どうなるの?」
心なしか、肩に置いた人攫いの手に力が増す。
「一度助けられた危機に、もう一度は遭遇したくなかろう、坊」
「……」
ほかはないか? と人攫いは問いを重ねる。
ぼくはじゃあ一つだけ約束して、と言った。
前を向いているぼくからは見えないけれど、人攫いはきっと首をかしげたのだろう。何だ、と頭上から声がする。
「ぼくはあなたを忘れない。助けてくれた、自由にしてくれた。だからあなたを忘れない。大人になってあなたたちの存在を忘れても、あなたの存在は忘れない。だから、約束して、あなたもぼくを忘れないでいてくれるって、七年たってもぼくのことを忘れないでいてくれたら、会いにきてくれるって。いい? 約束だからね?」
人攫いは、ぎゅっと今度は明らかに両の手に力を込め、十の童が言う科白じゃないぞ、と呟いた。じゃあ、私からも約束だ。
「私に何があっても、己のみを案じろ。ほかの何もかもを捨てて自分を守れ。私に代わってお前が助かるなら、それが、私の本望だ。わかったな。約束、出来るな?」
きっと笑ったつもりだったのだろうけれど、笑えてなかったに違いない。ぼくのうなじに大粒の水滴が、いくつもいくつも落ちてきたから。
でも、今度は洞での時とは違い、ぼくを打つ水滴は全然不快ではなかった。
人攫いは肩から手を離した。さあ、行け、と。
ぼくは、返事をせずに歩き出した。
永遠とも思える廊下の果てを目指して。
**
やかましい音を立てていた踏切も黙り、遮断機が上がった。
僕はいい加減寒くなってきた体に再度指令を出して、踏切を渡る。
人攫いは僕に背を向けて立っている。相変わらず、濡れていない。
そしてその先には、さっきの死人が、同じように、こちらを向いて立っていた。
僕は人攫いに駆け寄ろうとして、その少し手前で足を止めた。これ以上進んではいけない、そんな気がしたのだ。「坊よ」人攫いは僕に思い出したかどうかも聞かずに呼びかけた。
「お前にまだ教えていないことがあった」
人攫いは肩越しのこちらを見る。ただし、今度はいつもの柔和な笑顔などなく、冷酷なまでの無表情で、僕を睨み付けた。
「人攫いとは、攫うもののこと。攫うことがその本質、それが現れるときは必ずなにかを攫っていく。それは子供であったり、老人であったり、青年であったり、娘子であったり、あるいは人にかぎらずとも、家畜であったり。必ず何かを攫って消える。それが、人攫いだ」
そして、視線を、戻す。
先刻、僕を殺そうとした、死人へ。
「たとえば、こんな風に」
何をするつもりか、と僕は言葉を発そうとしたが、声が出なかった。
人攫いは躊躇も逡巡も無くまっすぐに、堂々と死人へと歩を進めた。
そして、死人の頬に添えるように手を触れた。
刹那。
死人は消えていた。
「これが私だ」
ゆっくりと死人の顔があったはずのところから手を下ろして言う。
「頬に触れたものを攫う。問答無用に私の栖へと連れ去る。それが私だ。この公式が私という存在のすべてだ。その人を大切に思えば思うほど、想えば想うほど私はその人に触れられない。連れ去ったものを戻すのは至難の業だ」
坊よ、と、静かに僕を呼ぶ。
人攫いの後姿は、雨の中にいても代わらないその姿は、しかし、いつもと違って見えた。背中に映し出されたのは、きっと、拒絶。
「これが私だ。私は私が私であるためだけに人を攫い、それが帰ることはまれだ。お前が帰ることが出来たのは、奇跡に近い」
人攫いはゆっくりと振り向いた。
悲しい、笑顔。自虐的な表情だった。
「坊よ、私は今までに幾人もの人間を攫った。そのほとんどは、七日の後に帰りたいといった。私は帰る方法を教えた。それで? 無事たどり着いたものは数えるほども知らない」
なにを言い出すんだ、と僕は言いたかった。が、口が中途半端に開いたまま動かない。
「あの時私がお前を助けたのは、はじめからお前を攫うためだった。あの時は不猟が続いていてね、あのままでは私も消えるしかなかった。そこにちょうど良くお前が転がり込んできたわけだ」
人攫いは僕から目をそむけた。
「七日というのはね、私がお前たちから貰うべきものを貰い受けるのに必要な期間なのさ。あの家に七日とどまらせることが出来れば私はその後四十九日は生きていられる」
知っている。思い出したから。
でも、口に出来ない。
はっ、と自嘲するように顔を空に向けた。
「私は私のために人を攫う。攫えば攫うだけ生きていられる。攫った結果がどうなろうと私の知ったことではない。約束どおり、帰る方法は教えたのだから」
僕に、目を、戻す。
射るような視線を浴びる。
「私はね、自分のためなら他人のことなど何も考えない卑怯な存在さ。こんなにも汚くて、こんなにも穢い」
そして、一言。
約束は守った、と。
振り返って、歩み去ろうとする。
やっと口が動いた。
「待ってくれ!」
なんて今更、なんて手遅れ、でも、
「思い出したんだ。約束のこと、」
人攫いは立ち止まる。
「坊よ」静かに、しかし幾分力強く言った。
「もういい。思い出したと、それが聞けただけで満足だ」
違うんだ、と叫ぶように言う。
「思い出したんだ。約束のことも、あのあとの、別れた後のことも」
「……ならば自分がどうすべきか考えろ」
そういうと、消えてしまった。約束を守らない人間に用は無い、という言葉を残して。
嘘つきめ。
僕は雨の中立ち尽くす。
その一言が、
僕に、今一度の機会を、
救いを、もたらした。
わかったよ。
「……君は、ひとりがいやなだけだ」
両の拳を握り締める。
僕は雨の中駆け出した。
逃げるためではなく。
今度は、自分のするべきことをするために。
神社へと、向かって。
**
約束。
守るべきもの。
守られるべきもの。
人と人のつながり
縁と縁の結び目
そして、
破られるもの。
「僕はまず、謝らなくてはならない」
人攫いはどうやって登ったのかは知らないが、朱塗りの鳥居の上に、僕に背を向けて座っていた。
「約束を、破ってごめん。それが僕に許されたたった一つの言葉だろう。だがもし君が僕にもう少し、独白することを許してくれるというのなら、君が行ってしまうそのときまでここで独り言葉をつむぐことを許してくれるというのなら、僕は語ろうと思う。裏切りがどのようにしてなされ、どれだけのものを傷つけたのか。
僕はね、あのとき、君と別れたあのとき、歩き始めた最初の一歩のとき、堅い覚悟があった。何があっても、戻って見せると、僕の世界に戻って、七年の間君の訪問を待つと。一歩二歩と進んでいくうちに、帰還への希望と君との別離の悲しみが、まるでまっさらな反物に垂らした生き血のように僕の心を染めて行った。でも、振り返ることは無かった。僕は年にしてはませていたし、そんな一時の感情ですべてを無駄にするつもりは無かった。ところが、三十歩も進んだところだろうか、幻聴が聞こえ出したんだ。初めは片方の壁から、僕の親しい人々が僕を呼ぶように、障子の向こうに彼らが待っているかのように、僕に呼びかけ招きかける。でもそこには幻聴独特の反響というか、残響があった。僕は思い上がっていたんだろうと思う、次から次へとやってくる幻聴、それこそ友人の助けを呼ぶ声だったり、肉親の断末魔だったりあるいはそれこそ君の呼ぶ声だったりもした。でもね、そのすべてを僕はことごとく看破した。すべてがすべて真実ではないとわかっていたから。そして段々回廊自体が明るくなってきた。障子越しに差し込む光が強くなってきた。僕は出口が近いことを悟った。僕はぜんぜん余裕だった。そう、今までの誘惑はすべて言っては何だがちゃちいものばかりだったし、所詮これが精一杯なのだと、完全に油断していた。それがいけなかった。そう、僕はその後、絶対にやってはいけないことをしてしまう」
破れた約束。
守るべきだったもの。
守られるべきだったもの。
人と人の隔たり
縁と縁の亀裂
そして
「突然のことだった。君の悲鳴が聞こえた。冷静になれば明らかなことだったのに、それだけが異様にリアルだった。そう、それまでのはすべて偽装に過ぎなかった。僕をはめようとした奴は、初めから最後の一手だけに賭けていたんだ。僕は油断していた。ただの呼び声や悲鳴なら、勿論だまされることは無かった。でも、そのときの声はこう言ったんだ」
人と人とを結びなおすもの。
「『逃げろ』って」
びくっと、人攫いの体がこわばる。
「僕は信じていた。君を信じていた。でも、君は僕を信じていなかったね。僕が君のこと大切だと思っているとは、とてもではないが君は考えられなかった。だから君はここにいる」
初めに見せた、わすれてしまったか、という悲しげな表情、そしてそのすぐ後の笑み。
幾度も見せた意地悪な笑み。
体をはった証明。
それは、僕が覚えていることを、そこまで期待していなかったから。
「君は信じたくなかったのではない。むしろ信じたかった、だから信じていない僕のところまで来て、僕に思い出させようとした。僕が思い出すことを期待して。僕が、せめて償いをすることを期待して」
何度も何度も、僕は思い出す機会を与えられたのに。
「でも僕の反応は冷たかった。そして、僕は君を拒絶した。君を思い出した僕が、君を否定したんだ」
嫌悪の表情。
振りほどいた左手。
それは、彼女にとって、致命傷だったに違いない。
「そして、君は、僕を信じるのを、人を信じるのをやめた」
神社での光景。
よみがえる、悪夢。
「でも君はまだ僕を守ろうとしたね。既に他人のはずの僕を、守った」
死人。
「そして、僕に忠告をした。最後の、そして最大の思いやりだ」
私はこんなにも汚い、と。
「君は、僕をどう思っているのか知らない。裏切り者とののしられる覚悟は出来ている。でも、これだけは知っておいて欲しい」
今更で、卑怯で、汚らしい、泥まみれの、最後の告白。
「僕が君を忘れてしまったのは、君を守りたかったから。自分に代えても、君に生きて欲しかったから。君を守ろうと振り向いて――記憶を、食われたから」
だから。
「約束を、破って、ごめん」
『私に何があっても、己のみを案じろ。ほかの何もかもを捨てて自分を守れ。私に代わってお前が助かるなら、それが、私の本望だ』
「君に代えて僕を守るなんてことは、僕には出来なかった」
「約束、破ってごめん」
ぼくはあなたを忘れない。助けてくれた、自由にしてくれた。だからあなたを忘れない。大人になってあなたたちの存在を忘れても、あなたの存在は忘れない。だから、約束して、あなたもぼくを忘れないでいてくれるって、七年たってもぼくのことを忘れないでいてくれたら、会いにきてくれるって。いい? 約束だからね。
私に何があっても、己のみを案じろ。ほかの何もかもを捨てて自分を守れ。私に代わってお前が助かるなら、それが、私の本望だ。わかったな。約束、出来るな?
「ごめんなさい」
轟音。
閃光。
砕け散る本堂。
暗闇で見た獣。
狢。
記憶をくらい、存在を食らう。
化物。
鳥居の上の生餌に一直線に飛び込んでいく。
それを、喰らわんとして。
「人攫い!」
視界が揺らぐ、
瞬き、
獣は、消えていた。
中空に差し出された、きれいな手。
「本当はここで食われるつもりだったんだ」
人攫いの表情はわからない。
でも、声は、泣いていた。
「食われてやるつもりだったんだ。あてつけみたいなもんさ。お前はもう二度とこういうことに関係しないだろうと、思ったのさ。あれだけ言えば、誰だっていやになるだろう?」
大切だから、傷つける。
大切だから、触らない。
大切だから。
「ところがお前が現れた。そのとき私の心にあったのはきっと単純な怒りと憎しみだけだったんだろうな。どうして、裏切ったって。だから好都合だと思った。お前の目の前で食われることで、お前に無力さを、絶望を味合わせてやれると」
「破った約束なんて、謝ればいいだけなのにな」
謝る。
それがどんなに重いことか。
「だから、約束は、重いんだ」
とんっ、と軽々と鳥居から飛び降りる。
「気づくのが遅いんだよ」
一陣の風とともに、彼女はあちら側へと帰っていった。また七年の後を僕に誓って。
背中に投げた最後の言葉が夜空に響く。
「約束、だからな」




