性悪姫
イルセオン王国といえば、神に愛された国である。土地は肥沃、気温も温暖で交易に有利な場所に位置し、おまけに本当に神の加護で守られているからだ。
日々、何もしなくてもなんとなく生きていけそうなこの恵まれた国は、しかし一つの危機に直面していた。
国王陛下の女嫌いである。
「気立てが良く、高貴な血筋で、教養もあり、賢く、男を立て、嫉妬をしない。そして何より重要なのは、容姿が私好みでなくてはいけない。無論、子をたくさん産める健康な女でなくてはならぬ。そのような娘がいれば、結婚してやろう」
(そんな都合のいい女、いるわけないじゃないの。ば~か)
アディリアは扇の陰でそっと目を伏せ、口元を歪ませた。
アディリアはヴォーデン侯爵家の長女で、イルセオン王国国王陛下の婚約者候補である。月色の髪、菫色の瞳、見た者が思わず身を投げ出して守りたくなるような憂いを秘めた美しい顔。優美な姿。
求婚者など引く手数多だった彼女が国王陛下の婚約者候補になったのは18の時。まさに結婚適齢期であった。誰もが、彼女がすぐにでも王妃の地位につくものだと信じていた。
しかしそれから既に5年。彼女は未だ単なる候補の一人に過ぎない。他の候補達が次々と諦めて別の相手に嫁ぎ、そして新しい候補者の名が挙がる中、第一候補であった彼女は立場上そういうわけにもいかず、気が付けば23歳になっていた。
20を過ぎた未婚の娘がいるというのは、この国では家の恥とされてしまうのだ。我が身の美しさ、才気、そして父親と優秀な兄の影響力で社交界の華と君臨していた彼女にとって、これは大変由々しき問題である。プライドに関わる。
たまりかねたアディリアの兄が「妹に対してあまりな仕打ちではありませぬか」と抗議した結果があの発言であった。
「あーのバカ国王、とうとう脳が溶けきってしまったんだわ! そうに違いないわ!」
アディリアは、部屋に戻るなり扇を膝で真っ二つに割り、それでも足りぬとばかりに窓際の花瓶へたたきつけた。侍女達は怯える事もなく、淡々とその片付けをしている。
「そもそもあの無能、何様ですの? つまりわたくしが好みじゃないってこと? 自分は見てくれだって能力だって平々凡々のギリギリ平均点なクセに。たまったま、お兄様を含め優秀な部下が揃っていて、口癖が『よきにはからえ』だからうまくいっているだけなのに!」
イルセオンの国王じゃなければ何の価値も無いクセにぃ! と叫ぶアディリアをたしなめる者はいない。なぜならそれは、分別のつく大人であれば大抵誰でも知っている事実だからである。
国王陛下は、勘違いのナルシストであった。
それでも彼に世継ぎを、と望む声が耐えないのは何のことはない、彼の血筋こそが神の祝福の源だからである。かつてこの地に降りた神の、直系の子孫が王位につく限り加護が続く、という古の契約に縛られているのだ。
神の祝福を失うデメリットを背負うよりは、無能な王を適当にだまくらかして玉座に据えておく方がずっとマシだ。
アディリアとて、好んでそんな男に嫁ごうと思ったわけではない。
ただただ、彼女は義務感から、さながら人身御供のような気持ちで婚約者候補になったのである。無能な国王の後見として、父が、兄が力をふるいやすいように。
幼い頃に出会った名も知らぬ少年への淡い恋心に蓋をして、悲壮な覚悟をもって話をうけたのだ。
にもかかわらずこの仕打ち。彼女の怒りは尤もであった。
そんなある日、お世継ぎ問題よりも更に深刻な問題が浮上してしまった。
封印されていた魔王の復活である。
復活と言われても、この国に魔王が封印されているなんて誰も聞いた事がなかったので、人々は困惑した。
「魔王って、ナニ?」「誰が見たの?」「証拠はあるの?」
答えは与えられないまま噂は瞬く間に国中に広がってしまい、とうとう「よくわからないけどなんか怖い」という理由で国外に移住する人々まで出てくる始末。
事態を重く見たイルセオン王国内の各神殿は連日代表者会議を開き、意見を交しあった。
商業の神デルフィムの神官長は、「これは世界が金融恐慌に陥る前兆を感じた商人達の暗号であるに違いないから、国は早急に経済対策を」と主張し、芸術の神ソラリエの神官長は、「昨今の人々の芸術離れを嘆いた神が地上を見限られたのかもしれません」と嘆いた。
戦の神マルハス・マルハムの神官長は「魔王の正体など気にせず、軍隊を率いて突撃あるのみ!」と息巻き、結婚の神パム=ファの神官長は「世界の終末に向けて殺到するであろう結婚式予約のために、会場の増設をしなくては」と焦った。
この会議は半年に渡り、最終的に至高神プロディネーシスの神官長が、陛下の御前会議の最中に神からお告げを授かり、「なんかのぉ、よぉわからんが、黒くて大きくて、わしゃーっとした化け物がのぉ、追っかけてくるんじゃよ……ぐぅ」と言ったことで一応の決着がついた。
明らかに寝言だったが、神に祝福された国で、しかも陛下の御前で至高神の神官長が発してしまった言葉である。指摘するものは誰一人としていなかった。そして、曖昧なまま話はどんどん進んでしまった。今更後には引けない。大人の事情である。
仕方なく、実在するのかどうかも定かではない魔王に討伐隊を派遣するしかないな、という流れになってしまった。
そんな中、北の国からやってきた魔導師が国王陛下に謁見を申し込んだ事で、事態は急展開を迎える。彼は世にも珍しい、時と空間を操る魔導師で、魔王討伐にうってつけの人間を召喚してみせる、と言ったのだ。
「代わりに望みのものを一つだけ。無論、陛下のお命や地位を求めたりはいたしませぬ」
この不遜な物言いに、同席していた者たちは目を剥いて魔導師を責めた。そもそも人間の転送も召喚も、禁じられた邪法である。しかし陛下は愉快そうに笑い、それを許可した。
というわけで、黒くて大きくてわしゃーっとした魔王をなんとかするべく、時空の彼方から勇者様を召喚する事となったのである。
召喚のための魔力の足しにするという名目で、重鎮達を始め人を集めるだけ集めた玉座の間に召喚されたのは黒目黒髪の幼げな少女であった。
(流されやすそうな娘だこと)
きょときょとと、怯えたように周りを見回す少女を扇越しに観察しながら、アディリアは思った。少女は破廉恥極まりないことに足を人目に晒し、申し訳程度に腰の辺りに引っ掛かった布で太ももあたりまでを覆っている。
少女のあまりに頼りない姿に、人々からは同情の視線が集まった。
(これは、絆されるのも時間の問題ね)
アディリアはパチリと扇を閉じ、取り巻き達を連れて早々にその場を辞した。
はじめは家に帰りたいだの戦う事なんてできないだのめそめそ泣いていた少女は、結局いつの間にか丸め込まれて、忠誠心が篤くて口の堅い騎士、少女を召喚した魔導師、プロディネーシスの「新」神官長――例のお告げを授かった神官長は、98歳という高齢を理由に引退した――を伴って旅立ち、2ヶ月ほどの旅の末に目的を果たして帰ってきた。
過酷な旅であったはずなのになぜか揃って血色もよく、肌もつやつやしていた。配られた土産から察するに、魔王は温泉保養地に潜んでいたらしい。
討伐隊一行が魔王を倒した証として持ち帰った不可思議な物体は、国宝として保管される事となった。
掌ほどの大きさの桃色の石で、それにしては妙に軽い。そこから出ている丸い輪を引くととんでもない大音量がそこら中に響き渡るのだ。
それは魔王が部下達を支配するために使う特殊な音だそうで、むやみに鳴らしては残党がやって来てしまうかもしれないらしい。
かと言って壊そうにも、何かが起こらぬとも限らないということで、その物体は王宮で保管し、10人の兵士達が片時も目を離すことなく警備する事となった。
かくして、イルセオン王国に平和が戻ったのである。
で。
「本当に、陛下はオト様がお気に入りで……」
「ほほほ、一時はどうなる事かと思っておりましたけれどねぇ」
救世主であるオト(正確にはオトなんとかというらしいが、発音がしにくいのでオトと呼ばれている)という黒髪の娘は、いつの間にかすっかりこの国に馴染み、挙句の果てに国王陛下と良い仲になっていた。
当初は敵愾心むき出しでなんとかオトを追い出そうとしていた他の婚約者候補達も、今ではその半分ほどがすっかり懐柔されてしまっている。納得行かないのはアディリアとその取り巻き達だ。
(まったく、どいつもこいつも!)
アディリアは、再び扇を真っ二つにして怒り狂っていた。陛下の勝手で婚約を引き伸ばされるだけ引き伸ばされ、嫁き遅れになってしまった挙句に放り出されたのだからたまったものではない。
それどころか、更なる屈辱を与えられたのである。
「決めたわ! わたくし、あの娘に意地悪してやるわ!」
窓から、陛下と睦まじく散歩をするオトの姿が見える。別に恋情を抱いていたわけでもないが、自分にはにこりともしなかった男のそういう表情を見るのは心が痛い……を通り越して、腸が煮えくり返る。
「まぁ、良いではありませんか」
そんなアディリアに歩み寄る影が一つ。それはオトを召喚した魔導師であった。
「私はあなたを手に入れた。あなたはあの男の呪縛から逃れられた。めでたしめでたし、ではないですか?」
「わたくしは認めてなくてよ」
彼が求めた褒美、それはアディリアであった。
仮にも皇帝陛下の婚約者候補、そして侯爵令嬢である。そんな彼女を褒美に求めるなど正気の沙汰ではない。アディリアの父と兄は怒り狂い、母は気絶した。
しかし勇者一行を称える国民の声は無視できぬほどの盛り上がりをみせていたし、丁度良い厄介払いとアッサリ承諾した陛下の命により「下賜」されることとなったのだ。
いくらなんでも得体の知れぬ一介の魔導師風情が相手では気の毒だという「恩情」により、彼には宮廷魔導師の地位が与えられ城に召抱えられる事となったのだが、アディリアにとっては屈辱以外の何ものでもなかった。
ぞろりとした野暮ったいローブを脱ぎ捨て、宮廷魔導師の服装を身につけた彼は思いのほか若く、なかなか整った顔をしている。よく見れば、アディリアの記憶にある初恋の少年の面影をどこかに宿している。
いや、本人が主張するところによると彼こそがその少年であるらしいのだが、アディリアは絶対に認める気はなかった。
記憶の中の彼はもっとサラサラした焦げ茶の髪をしていたし、こんなに陰険そうに笑わなかった。もっと爽やかで、優しくて、キラキラしていたのだ。不健康そうな顔色も、神経質そうな目付きも、記憶の彼とはどうしても重ならない。
巷では「身分違いの令嬢との恋を叶えるために危険な旅に身を投じた健気な男」としてちやほやされているのも気に喰わない。アディリアにとってはだまし討ちにあったようなものなのに、ロマンティックな恋物語のように語られるのが悔しくてならない。
それにアディリアは、この男こそが魔王の正体だったのではないかと疑ってさえいるのだ。討伐隊が皆、核心に迫るとお茶を濁すところなどいかにも怪しいではないか。
とにかく、現状の何もかも気に食わないのだが、目下の所一番気に食わないのは国王陛下とオトなのである。
「ぜったいぜったい、いじめてやるわ! お茶の席でお砂糖と塩を入れ替えたり、靴をかくしたり、それから、それから……!」
「はいはい、お気のすむようにどうぞ」
「あの子が元の世界に帰ったら、陛下だって落ち込むわよね? 復讐になるわよね?」
「おそらく、間接的には」
こうして、芝居の定番となった「国王陛下と勇者の恋物語」の狂言回しとして欠かせぬ「性悪姫」による、復讐の日々が幕を開けた。
なお、「性悪姫の恋物語」というサイドストーリーもあって、素直になれない貴族の姫君と、その我侭を全て許してしまう包容力のある色男の話として人気を博しているので、彼女もおそらくそれなりに幸せになったのではないか、と後の世の研究者は語る。