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濡れ衣は、一手で晴らします

濡れ衣で誰にも選ばれない私でしたが、真実の花飾りで公爵令嬢に自白させました

作者: 真神 慧
掲載日:2026/07/14

三度目になると、断りの言葉より先に引かれる手が見えた。


 白い手袋の指先が、私の手から半歩ぶん遠ざかる。青年は胸へ手を当てたまま、私ではなく、私の背後にある鏡へ頭を下げた。


「先約がございますので」


 曲はまだ始まっていない。彼の隣にも、待っている令嬢にも、先約らしい相手はいなかった。


 私は手を下ろし、裾の皺を伸ばした。すると二人目は、こちらが名乗る前に飲み物の盆へ向きを変えた。三人目は扇を持たないのに口元を隠し、連れと肩を寄せた。


「お手を、いただけますか」


「申し訳ない。今夜は少し、足を痛めておりまして」


 彼はそう言って、私から離れたところで別の令嬢と踊り始めた。踏み出した右足に、乱れはなかった。


     ◇


 金糸で縁取られた舞踏名簿は、広間の入口に置かれている。私は係の者が頁を繰るのを待ち、自分の名があるはずの行を指で追った。


 前の名。次の名。細い空白。


「記載に誤りがございます」


「儀礼長の署名を受けた名簿です」


 係の者は頁の下を示した。黒い署名は見覚えがあった。儀礼長アーネストの執務机で、招待状の確認を受けたときにも見た筆跡だった。


「訂正をお願いできますか」


「今夜の開宴後に、名簿は変更できません」


「では、異議を申し上げる機会を」


「正式な舞踏のお相手がおられれば、規則に従って」


 係の者の視線が、私の下ろした右手へ移った。誰にも取られていない手。名簿から消えた者が正式な舞踏を成立させるには、その手を取る者が要る。


 襟元の小さな花飾りに触れかけて、指を止めた。鏡張りの稽古室で一度だけ見た、真実を答えさせる花。だが、飾るだけでは何も起こらない。


「虚言者に真実の花なんて、よく似合うこと」


 囁きは一度だけだった。振り向く前に衣擦れが遠ざかり、そのあとには香水の甘さだけが残った。


 広間の中央では、最初の曲を待つ男女が二列に並び始めている。私の周りだけ、人ひとりぶんの輪ができていた。近づけば裾を踏みそうで危ないから。きっと、そういうことだ。


 楽団員が弓を構える。私は壁際へ戻るため、空いた輪の端へ足を向けた。


 杖が床を打った。


 乾いた音が、まだ鳴っていない音楽を止めた。王太后付き老舞踏教師は広間を横切り、私の前で杖の石突きを揃えた。


「セシリア、位置へ」


「先生、私は名簿に——」


「踵を閉じなさい。顎は床と平行」


 稽古室で何度も聞いた命令だった。身体が先に従い、靴の踵がかすかな音を立てた。老舞踏教師は私の姿勢を杖の先で確かめると、王太后の席へ一礼した。


「規則検証の被験者を、ここに」


 列の中で扇が動き、宝石がいくつもこちらを向いた。係の者が名簿を抱えたまま駆け寄り、老舞踏教師の耳元へ口を寄せる。


「こちらの令嬢は、正式な参加者ではございません」


「私が指名しました」


「しかし、儀礼長の承認が」


「公式実演に舞踏名簿の記載は要りません。王太后陛下の御前で、私が組を指名します」


 王太后は扇を開いたまま、制止しなかった。老舞踏教師はそれだけを確認し、胸元から白い小花を取り出した。


「よく見なさい。説明は一度です」


 彼女が指した先で、助手役の侍女が一歩進んだ。老舞踏教師と侍女は右手を取り、互いの目を見た。


「正式舞踏のあいだ、接触と視線を保つこと。花を潰した者が問えば、相手は公に答える。答えた問いは、同じ言葉で質問者へ返る」


 老舞踏教師の指が、花弁をひとつ潰した。白かった花は青紫の汁をにじませ、彼女の手袋へ小さな染みを作った。


「これは余興ではありません。正式な実演です」


 侍女との手が離れた。花色は老舞踏教師の指に残ったまま、広間の全員へ向けて掲げられている。


 花の規則そのものは、私も稽古室で教わっていた。けれど一人で鏡に向かい、何度手を差し出しても、鏡像は花を働かせてくれない。


「被験者は前へ」


 私は中央へ進んだ。磨かれた床に、自分の靴と無数の燭台が映っている。視線を上げると、男女の列が左右へ割れ、その奥に儀礼長のアーネストが立っていた。


 濃色の礼装。胸に儀礼官の章。名簿から私の名を消した署名者は、老舞踏教師に呼ばれる前からこちらを見ていた。


「実演相手には、儀礼長アーネストを指名します」


 彼の隣にいた係の者が息を呑んだ。儀礼長は一度、王太后の席へ目を向け、それから老舞踏教師へ向き直った。


「指名の変更を願います」


「理由を」


「当事者です」


「ゆえに適任です。位置へ」


 杖が床を打つ。儀礼長は口を閉じた。


 拒めば、彼が管理する正式舞踏の規則を、彼自身が王太后の前で退けることになる。彼はそれを誰よりよく知っている。広間を整えるための手が、今夜初めて自分の逃げ道を塞いだ。


 儀礼長が歩いてくる。一歩ごとに、彼の背後の列が遠ざかって見えた。私の前で止まると、彼は胸へ右手を当て、腰を折った。


「お手を、いただけますか」


 四度目の申し出は、私の口からではなかった。


 差し出された手は、途中で引かれなかった。手袋越しに重ねると、彼の指が私の手を支えた。強すぎず、抜け落ちないだけの力で。


「目線」


 老舞踏教師の杖先が上がる。私は儀礼長を見た。灰色の目は逸れず、私の顔をまっすぐ受け止めた。


 楽団が最初の音を鳴らした。


 左へ一歩。右足を寄せ、後ろへ滑らせる。儀礼長は規定どおりの幅で私を導き、私は習った角度で肩を返した。


 誰かと一曲を踊るのは、告発を受けてから初めてだった。靴底は床を知っているのに、重ねた手だけが知らないもののように熱を持つ。彼の親指が動きかけ、すぐに所定の位置へ戻った。


「花を」


 老舞踏教師の声が曲の隙間へ入る。係の者が銀盆を差し出し、私はそこから真実の花飾りを取った。


「使用者の手には花色が残ります。隠しても、外しても、その夜は消えません。一人につき、公開の回答は一度だけ」


 小さな花は冷えていた。胸元から外したときより香りが強く、青い草を折ったような匂いが鼻へ抜けた。私は儀礼長から視線を外さず、左手の中で花を潰した。


 花弁が指の間で崩れる。白い手袋へ青紫がにじみ、脈を打つたび、染みの輪郭が広がった。


「あの告発を、真実だと認めたのですか」


 彼の足が半拍ぶん遅れた。けれど手は離れず、次の歩幅で曲へ戻った。


「いいえ」


 その一語が広間の壁へ届いた。私たちは向きを変え、王太后の席の前を横切る。


「真実だとは認めていませんでした」


「では、なぜ」


「質問は一つです」


 老舞踏教師の声が飛ぶ。私は唇を閉じたが、儀礼長は歩みを止めなかった。


「署名した理由も、同じ問いへの回答に含まれます」


 彼は私の背へ添えた手をわずかに上げ、回転を導いた。衣擦れが円を描き、離れていた招待客たちの顔が次々と視界を流れる。


「告発を退ければ、私の家が捏造に関わったと疑われる。家を守るため、あなたを虚言者として退け、舞踏名簿から外す書面に署名しました」


 私の手袋の花色が、彼の白い手袋の近くで揺れる。触れているのは右手だけなのに、左の指まで熱を持った。


「遠ざければ、あなたを家同士の争いから守れるとも考えました」


「それは答えになっておりません」


「はい。保身でした」


 曲は止まらない。私たちは列の中央を進み、誰も立っていない場所で交差した。


「あなたに弁明させれば、私があなたを信じていたことまで知られる。私は、それを隠したかった」


 儀礼長の指が、私の指を包み直した。作法の範囲を越えないほど小さく、それでも抜こうとすれば分かる力だった。


「あなたを慕っていました。署名する前から。署名したあとも」


 靴の先が触れかけ、私は半歩を取り直した。儀礼長は私を引き寄せず、自分の歩幅を狭めて支えた。


「家を守るためにあなたを切り、あなたを守るという言葉で自分を覆いました。私が署名しました。私の判断です」


 弦の音が高くなる。回転の終わりに、私たちはもう一度、正面から向き合った。


 花が働く。


 喉の奥へ、冷たい香りが落ちた。私が儀礼長へ向けた問いが、同じ形のまま私の舌へ返ってくる。


「あの告発を、真実だと認めたのですか」


「いいえ」


 声は掠れなかった。


「わたくしは告発を作っておりません。誰かに作らせてもおりません。虚偽を真実だと申し立てたこともありません」


 儀礼長が息を吸う音が、近すぎるところで聞こえた。彼の視線は私の目から動かない。


 最後の小節へ入る。私たちは規定の位置まで進み、同時に足を揃えた。曲が閉じ、裾だけが一拍遅れて床へ落ちた。


 彼は私の手を離さなかった。


 老舞踏教師は何も言わず、一度だけ頷いた。王太后の扇が閉じ、細い音が広間に通った。


 左右に割れていた列が、さらに後ろへ退く。今度は私を避けるためではなく、私と儀礼長の前に道を開けるためだった。


「実演は終了です」


 老舞踏教師が告げる。儀礼長はそれでも指を解かなかった。


「終了しました」


「聞こえています」


 彼は私だけに届く声で答えた。老舞踏教師の眉がほんの少し上がったが、杖は鳴らなかった。


     ◇


 そのとき、靴音が道の奥から近づいてきた。


 ヴィオラ公爵令嬢は、広がった距離の中央をまっすぐ歩いてきた。銀糸の刺繍が燭台の光を拾い、その胸元には、もうひとつの白い花が留められている。


 第二の真実の花飾り。


 彼女は私たちの重なった手を見た。次に、私の左手へ残った青紫の染みを見る。口元は曲がらず、歩幅も変わらなかった。


「一度の実演で、告発そのものが消えるわけではございませんわ」


 誰も返事をしない。彼女は老舞踏教師へ一礼し、胸元の花飾りへ指を添えた。


「わたくしも正式舞踏を申し込みます。先ほどの回答が真実か、同じ規則で確かめとうございます」


「公開回答は一人一度です」


 老舞踏教師が言う。ヴィオラは、すぐに私へ向き直った。


「この方は、まだわたくしの問いには答えておりません。質問者が異なります」


 杖の石突きが床を擦った。老舞踏教師は王太后の席を見る。


 王太后は閉じた扇を膝に置いたまま、動かなかった。許可も制止もない。正式な条件を満たすなら、私が選ぶ番だった。


 儀礼長の手が緩む。


 曲が終わっても離さなかった手を、彼は自分から開いた。指先が滑り、手袋越しの熱が一本ずつ遠ざかる。


「あなたが決めてください」


「止めないのですか」


「止める資格を、私は使い切りました」


 彼は私とヴィオラのあいだから退いた。けれど列へは戻らず、私の斜め後ろに立った。


 ヴィオラが右手を差し出す。よく手入れされた爪の形が、薄い手袋の向こうに透けていた。


「お受けになりますでしょう?」


 手を取らなければ、第二の問いは始まらない。最初の曲がなければ、私には何も問えなかった。それと同じ形の逃げ道が、今度は私の前に置かれている。


 私は左手の花色を見た。最初の花を潰した印。隠す必要のない色だった。


「お受けいたします」


 差し出された手へ、自分の右手を重ねた。


 彼女の指はすぐに閉じた。爪が手袋越しに食い込むほど強く、私を逃がさない形で。


「位置へ」


 老舞踏教師の命令に従い、二人で中央へ進む。儀礼長は道の端に残り、王太后は閉じた扇に手を置いていた。


 次の曲は、先ほどより速かった。ヴィオラは最初の拍から大きく踏み込み、私の退路を靴先で削るように進んだ。


「顔を上げて」


「作法のご指示は先生から受けます」


「今だけは、わたくしを見ていなければ花が働かないでしょう」


 彼女の目は近く、瞬きが少なかった。私は視線を合わせたまま、引かれる歩幅に足を乗せた。


 右へ。左へ。回転。


 ヴィオラは胸元の花飾りを外した。白い花弁が彼女の指に挟まれ、潰れる前から震えている。


「先ほどの回答を撤回するなら、今ですわ」


「曲はもう始まっております」


「ええ。ですから、間に合います」


 彼女の指が閉じた。


 小さく湿った音がした。青紫の汁が白い手袋へ染み込み、爪の周りまで一息に広がる。彼女はその手を私たちの胸元のあいだへ隠し、笑みの形だけを保った。


「あなたは、この告発を自分で捏造したのでしょう?」


「いいえ」


彼女の歩幅が増した。裾同士がぶつかり、青紫に染まった指が私の手をさらに締めた。


「今度は、誰も庇ってくださらないのよ。認めなさい。あなたが作ったのよ。あなたが——」


 花の香りが変わった。


 青い草の匂いが、甘い香水を押しのける。彼女が私へ投げた問いが、曲の中を一周し、同じ言葉のまま彼女へ戻っていく。


 ヴィオラの口が開いた。


「あなたは、この告発を自分で捏造したのでしょう?」


「はい」


 彼女の靴が止まった。


 私の足は次の位置へ進み、つながれた手が彼女を半歩引いた。老舞踏教師の杖が一度、床を打つ。


「続けなさい。正式舞踏です」


 ヴィオラは首を振った。だが、潰した花は指の中にあり、私の手も、私の視線も離れていない。


「わたくしが作りました」


 曲が進む。


「あなたが虚言を申し立てたように見せるため、告発を作りました」


 青紫の染みが手首へ向かって広がった。彼女は左手で覆おうとしたが、花を潰した右手は私とつながれ、隠しきれない。


「あなたの招待を取り消させました。舞踏名簿から外させ、異議を申し立てても、誰にも取り次がせないようにしました」


 彼女の足がもつれ、靴の踵が床を擦った。私は習ったとおりの歩幅を崩さず、彼女が倒れない位置だけを残した。


「縁談も、あなたの言葉を聞く前に断るよう働きかけました」


 ヴィオラの視線が、私の肩越しへ逃げる。花はそれを許さず、首が引かれたように私へ戻った。


「なぜです」


「質問は返った一つだけです」


 老舞踏教師の声が入る。ヴィオラの唇が閉じ、それでも次の言葉が押し出された。


「あなたから、招待も、縁談も、選ばれる席も、なくすためです」


 最後の音が鳴った。


 私たちは広間の中央で足を止めた。ヴィオラはすぐに手を振りほどき、青紫に染まった右手を背へ隠した。


「手を前へ」


 老舞踏教師が命じた。


「実演は終わりましたわ」


「終了の姿勢までが正式舞踏です。手を前へ」


 ヴィオラは動かなかった。王太后の扇が閉じたまま持ち上がり、老舞踏教師の杖先と同じ高さで止まる。


 青紫の指が、背後からゆっくり現れた。花色は指先だけでなく、手袋の掌まで濃く残っていた。


     ◇


 係の者が舞踏名簿を抱えて進み出る。先ほど私の名が消えていた頁を開き、儀礼長へ差し出した。


 儀礼長は筆を取った。自分の署名の上へ訂正線を引き、その隣にもう一度署名する。


「この場で、排除の指示を撤回します」


「儀礼長」


 ヴィオラの声に、彼は顔を上げた。


「家のことをお忘れですの?」


「忘れていません」


「でしたら、その名を戻すなど——」


「先ほど答えたとおりです。最初の署名も私の判断でした。これも私の判断です」


 儀礼長は筆を置き、名簿を係の者へ返した。係の者は今度こそ私の名が記された行を広間へ示し、頁を閉じた。


 楽団が次の曲の準備に入る。男女の列が組み直され、靴音と衣擦れが広間へ戻ってきた。


 ヴィオラは青紫の右手を腰の後ろへ置き、左手を近くの青年へ差し出した。青年は礼をしたが、その手を取らず、隣の令嬢へ向きを変えた。


 彼女は次の相手へ進んだ。今度は右手を差し出しかけ、花色に気づいて左手へ替える。相手は半歩退き、胸へ手を当てた。


 三人目には、何も言わせなかった。彼女が近づくより早く、列が左右へ分かれた。


 音楽が始まる。


 組になった者たちが一斉に中央へ進み、彼女の周りだけが空いた。青紫の手袋を背へ隠しても、その手を取る者はいない。


 私は広間の端に立っていた。先ほどまで私を囲んでいた空白が、今は曲の中央にある。


     ◇


 隣で衣擦れがした。儀礼長が戻ってきて、私の前へ立つ。


 彼は胸へ右手を当てた。もう一方の手を、今度は老舞踏教師に命じられず、自分から差し出した。


「お手を、いただけますか」


 私はその手に重ねた。


 次の曲が始まっても、彼は私の隣にいた。


ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。

作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。

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