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私だけの天使様

作者: ヤンデレ大好きマン
掲載日:2026/05/23

彼女の愛は、檻の形をしていた。

その檻に閉じ込められたいと願うのは。

愛か、エゴか。

教会を中心に成り立つ、地方宗教都市ベルヴェール。

そこには、天使様がいる。


白い石造りの家々が、灰色の空の下に並ぶ。

黒い屋根はどれも似た形をしていて、

遠くから見れば、町全体がひとつの祈りの中に沈んでいるようだった。


通りを行く者たちの服は、黒と白と灰色ばかりだった。

ベルヴェールでは、鮮やかな色は祈りを乱すものとされている。

花壇の花でさえ淡く、子どもの髪飾りも白い布で作られていた。


朝になると鐘が鳴る。

一度目の鐘で窓が開き、二度目の鐘で人々は聖印を握り、三度目の鐘で大聖堂へ向かう。


大聖堂の奥、高い窓から落ちる白い光の下で、ハルは立っていた。

彼が動くたび、袖口の銀糸の刺繍がかすかにきらめいた。


その様は、まさにこの世に降り立った天使に見える。


町人たちはハルを見ると、ひとり、またひとりと膝をつく。


「天使様」


「どうか、祝福を」


「天使様」


ハルは微笑む。

柔らかく、静かに、祈りの場にふさわしい顔で。

幼いころからそうしてきた。

泣いている者には手を差し出す。

不安げな者には微笑む。

祝福を求められれば、教えられた言葉を返す。


それがハルの役目だった。

そしてハルは、その役目を疑ったことがなかった。


礼拝が終わると、ハルは控室へ戻った。

ノアは、そこで待っていた。


黒い修道服に似た衣装。白い襟。天使守りの証である胸元の小さな十字架。

黒い髪はまっすぐに落ち、白い肌の上で人形のように見える。


ハルの姿を見ると、ノアはぱっと顔を明るくした。


「ハル様、今日も綺麗」

ノアはそう言って、ハルの袖口に触れた。

折れてもいない布を、指先で丁寧に伸ばす。


「疲れた?」


「大丈夫だよ」


「嘘。いつもよりまばたきが少ないもの」


ノアは小さく笑った。

彼女はハルの手袋のしわを直し、髪のほつれを指で梳いた。


もう整えるところなど残っていないはずなのに、

彼女の手はまだハルの袖口に留まっている。


「ほら、これでいつものハル様」


ハルは微笑みかける。

「ありがとう、ノア」


ノアは嬉しそうに目を細め、

テーブルに用意していたティーカップをハルに渡す。


「はい、ハル様の薬草茶、

聖父様に内緒でお砂糖も入れてあげるね」


「ノアには敵わないな」


「ハル様のことなら何でも知ってる」

ノアは得意げに胸を張った。


二人は町の天使様と天使守りである以前に、同じ場所で育った幼馴染だった。


この町で唯一ノアだけが天使様をハル様と呼べるのは、

天使守りという責務と幼馴染という距離感が奇妙に混ざり合った結果だろう。


「もうすぐ聖別式だね、ハル様」

ティーカップを片付けながらノアが問いかける。


「そうだね、ノア」

「僕が正式な天使代行になるための儀式だと、聖父様は仰っていた」


「今のハル様と何が違うんだろう」

ノアは小鳥のように首をかしげた。


「僕にもわからない、聖父様に聞けばよかった」

ハルは少し腕を組み、考え込むようにした。


それを見たノアが微笑む。

「どんなハル様でも、私はそばにいるからね」


「ありがとう、ノア」


ノアの言葉はいつも優しい。

その優しさに救われたことは幾度もあった。



大礼拝週間が近づくと、大聖堂はいつもより慌ただしくなった。


上位教会のリュミエール大聖堂から、外部聖歌隊が招かれるからだ。


ベルヴェールは閉ざされた町だった。けれど完全に外を拒んでいるわけではない。


年に一度の大礼拝のため、リュミエール大聖堂から聖歌隊を迎える。


それは、ベルヴェールの信仰が正統なものであると外へ示すための、形式的なつながりだった。


今年の聖歌隊は、大礼拝のためにベルヴェールへ入り、


そのまま一か月後の聖別式まで滞在することになっていた。


その夜、ハルはクレメンスに頼まれて、古い祈祷書を取りに書庫へ向かった。


古い祈祷書を取りに行くこと自体は、毎年のようにあった。

けれど今年は違った。

聖別式の準備のため、

普段は禁書庫にしまわれている記録や書物まで、机の上へ出されていた。


ハルは燭台を手に、一年ぶりの本棚の間を歩く。

革表紙と古い紙の匂いがする。


ハルは祈りの言葉なら読めた。

聖句も、礼拝作法も、聖歌譜も読める。

けれど、外の町の地図は読めなかった。

市場の値札も知らない。

馬車に乗るには何を払うのかも知らない。

ハルに教えられてきた文字は、神へ向かうためのものばかりだった。


ふと、机の端に置かれた本が目に入る。


祈祷書ではない。聖歌譜でもない。

茶色の革表紙に、王都の文字が刻まれている。ハルはそのすべてを読めなかった。

ただ、いくつかの言葉だけが目に入った。


身体。観察。分類。


なぜ手に取ったのか、自分でも分からなかった。

きっと深い意味はなかった。


そこには、人の身体についての図があった。


クレメンスの部屋に飾ってある人物画とは違う。

祝福でも、奇跡でもなく、冷たい線で描かれた、

ただ観察されたものとして記されている身体。

ふと、ハルの指が、あるページで止まった。


その図には、見覚えがあった。


「神から与えられたもの」だと教えられてきた。

人には見せてはならない、祝福のしるし。


その似た特徴が、本の中では、祝福とは呼ばれていなかった。

天使とも、奇跡とも書かれていなかった。

ただ、稀な身体の一例として記されていた。

ハルは目を疑い、食い入るように知っている文字を探した。天使、奇跡、祝福……。


しかし、そのような文字はなかった。


代わりに、余白に古い筆跡が残っていた。


()()()()()


誰かが後から線を引いて消そうとしていた。

けれど、黒ずんだ文字はまだ読めた。


それは、誰かを救うためのしるしではなかった。

祈られるための奇跡でもなかった。


ただ、名前のついた身体だった。

そして時には、悪魔の名を貼られてきた身体だった。


「……違う」


しばらくの沈黙の後、小さく声が漏れる。

違う。これは、自分とは関係ない。

教会の教えを知らない外の学者が勝手に書いたものだ。

ハルは本を閉じ、書庫から逃げるようにクレメンスのもとへ古い祈祷書を持って行った。


クレメンスは彼の書斎で考え事をしていた。

ハル。

大疫病が町を襲った数日後の夜、大聖堂の前に白い布で包まれ、一通の置手紙と共に捨てられていた赤子。

クレメンスがハルを預かった翌日、不思議なことに、疫病は完全に収まった。

偶然か、神の御心か。

クレメンスは、そのどちらであるかを急いで決めようとはしなかった。

ただ、町人たちが救いを必要としていることだけは分かっていた。

そして救いには、形が必要だった。



「聖父様」


「戻ったか」


クレメンスはただ静かに、

古い祈祷書をハルの手から受け取った。


「ありがとう」


穏やかな声だった。いつもと同じ、慈悲深い声。


ハルはその慈悲深い声にすがるように問う。


「聖父様」

声が震える。

「僕は……天使の遣い……なのですよね?」


クレメンスは、すぐには答えなかった。


ハルはこの時ほど、自身の鼓動をうるさく感じた時はない。

悪いことをして叱られる子供が、親の許しを待つような間だった。


やがてクレメンスは、ハルの頭に手を置いた。


「お前は天使の遣いだ」

ハルは顔を上げる。

クレメンスは続けて言う。

「ベルヴェールが、そう信じている」


その言葉は優しかった。けれど、ハルが欲しかった答えではなかった。


そう信じている。

それは、真実とは少し違う言葉だった。

「ハル。お前はベルヴェールに与えられた祝福だ」



「……失礼します聖父様、おやすみなさい」

祝福。

その言葉は、ハルの身体に長い間かぶせられてきた白い布のように美しくて、清らかで、重かった。


ハルは泣きそうになる自分を抑え、クレメンスの書斎を後にした。

部屋に戻った瞬間、堰き止めていた感情が溢れ出す。

自分は天使の遣いなどではないのかもしれない、

では自分はいったい何なのか。

いくら自問しても答えは出ない。

自分が今まで信じてきたものにひびが入る。


その時、扉を叩く小さな音がした。

「ハル様。お召し物を持ってきたよ」


ノアの声だった。


ハルは息を止める。

今、顔を見られたら、何かを知られてしまう気がした。


「……入ってこないで」


声は思ったより弱く震えた。

扉の向こうで、しばらく沈黙が落ちる。


「泣いてるの?」


ハルは答えなかった。


「泣いてる時は、ひとりにしちゃだめって、私、知ってるよ」

ノアの声は小さかった。

叱る声ではなかった。

ただ、置いていかれた子どものように不安げだった。

「何も聞かないから」


少し間を置いて、ノアは続けた。

「見ないでって言うなら、見ない。触らないでって言うなら、触らない」


そこで少しだけ、声が揺れた。

「でも、そばにはいさせて」


ハルは、長い沈黙のあと、扉から手を離した。

「……入っていいよ」


ノアは静かに部屋へ入ってきた。

そして本当に、何も聞かなかった。


涙で赤くなった目元を見たノアは、愛おしそうにハルの涙をぬぐう。

「大丈夫、私がそばにいるから」

「眠るまで見ててあげるね、ハル様」



外部の聖歌隊がベルヴェールへ入ったのは、その三日後だった。

町の門が開かれ、馬車がゆっくりと石畳を進む。

聖歌隊の人々は、ベルヴェールの住人より少しだけ明るい色を身につけていた。

それでも礼拝の場にふさわしく、派手ではない。

その中に、サラがいた。

淡い金の髪。青い瞳。胸元に結ばれた、薄赤いリボン。

それだけで、サラはこの町では異物のように見えた。

ノアは、最初からその薄赤いリボンが嫌いだった。


「変なの」

小さくつぶやく。


ハルが聞き返す。

「何が?」

「リボン。あんな色、祈りの場所にいらない」


ハルは何も答えなかった。

ただ、サラのリボンを少し長く見ていた。

ノアはそれに気づいた。

胸の奥に、小さな棘が刺さる。


サラは、ベルヴェールの教会を初めて見た時から、胸の奥に違和感を抱いていた。

大聖堂は美しい。窓も、祭壇も、聖歌の響きも、すべて整っている。

けれど、そこにある祈りは、なぜか人を軽くしていない。

サラにとって教会は、世界のすべてではなかった。

歌を学んだ場所であり、祈る場所であり、時には人を休ませる場所だった。

けれどベルヴェールでは、教会が世界そのもののようだった。


大礼拝で、サラは独唱を任されていた。

聖別式までの一か月、彼女は儀礼歌を整え、ハルの祈り歌を助ける役目を与えられる。


練習室で、サラは譜面を見ながら言った。

「ここは少し低く取った方が、歌いやすいと思うわ」


ハルは小さく頷く。

「分かった」


「ハル、もう一度いい?」

その呼び方に、ハルの肩が揺れた。

サラは気づいて、少し首を傾げる。

「ハル、でいいかしら?」


その響きに、ハルは自分の心臓が大きく跳ねるのを感じた。

ベルヴェールの壁に、小さな亀裂が入ったような音。

「……様って、呼ばないの?」


「呼ばないわ」

サラは迷いなく、ハルの瞳をのぞき込んだ。

「そう呼ばれたいようには見えなかったもの」


「……」

ハルは言葉を失った。

否定すべきなのに、喉の奥が熱くて声が出ない。

見透かされたような痛みが、心地よくさえあった。

「僕のこと、知らないのに」


ハルがうつむいて絞り出すと、サラは静かに、けれど強く答えた。

「知らないから、あなたの意見を聞いたの」


その言葉が、ハルの中に何かを宿した。

ハルは少し間を置いてから、低く言った。

「……ハルでいいよ、サラ」


ベルヴェールの人々は、ハルを知っている顔で天使様と呼ぶ。

ノアは信じきった声で、ハル様と呼ぶ。

しかしサラだけが、彼の意見を聞いたうえでハルと呼んだ。


部屋の隅で、ノアが二人を見ていた。

サラの声がハルに届くたび、ハルの表情が少し変わる。

ほんの少し。他の誰も気づかないくらい。

けれどノアは気づいた。

ハル様のことなら、何でも分かる。そう信じていたから。


ノアは祈祷書の端をぎゅっと握った。

「あなたの声、嫌い」


「声?」

サラが振り向く。


ノアは微笑んだ。幼く、柔らかく。


けれど目は笑っていなかった。


「ハル様の中に、勝手に入っていくみたいで」



一か月という時間は、短いようで長かった。

サラは毎日、礼拝堂か練習室でハルと向き合った。

最初のころ、ハルはサラに名前を呼ばれるたびに少し戸惑いながらも返事をした。


けれど日を追うごとに、その返事は少しずつ早くなった。

「ハル、ここの音程はお腹から声を出すと綺麗に出るわ」


「うん、わかった。やってみる」

それだけのやりとりが、ハルには不思議だった。

天使様でも、ハル様でもなく、ただのハルと呼ばれる。

そのことが、胸の奥を揺らした。


「今日も外のお話聞かせてよ、サラ」


「そうねぇ、今日は旅をする道化師のお話をしましょう」


練習の合間、サラはハルに外の話をした。

朝の市場に並ぶさまざまな売り物。夕方の宿の窓から見える川のきらめき。

祭りの夜に灯る色とりどりの明かり。教会の鐘が聞こえない町。


そんな話を聞くたび、

ハルは遠い昔の声を思い出しそうになる。


エリオット。


もういない少年の名前が、胸の奥でかすかに揺れた。


「外の世界には……僕と同じような人がいるのかな……」

「エリオット……」

ハルは小さくつぶやいた。

それは憧れというより、確かめるような声だった。

その名前が落ちた瞬間、ノアの指先が止まった。


胸の奥で、古い枝の折れる音がした気がした。


違う。

それ以上、思い出してはいけない。

思い出したら、またハル様が遠くを見る。


「……その名前」


ノアの声は小さかった。


ハルが振り向く。


ノアはすぐに笑った。

いつものように、柔らかく。


「ううん。なんでもない」


けれど、祈祷書を握る指には力が入っていた。


知らない人。知らない町。知らない声。

全部、知らない色。

ハルの中に、ノアの知らない色が増えていく。

それはノアにとって、ハルを奪われることと同じだった。



聖歌隊が来て二十日ほどが過ぎたころ、クレメンスはハルに聖別式の詳細を告げた。

「十日後、お前は正式に聖別を受ける」


ハルは顔を上げる。

「はい、存じております。」


「同時に、ノアは終生の天使守りとして任じられる」


ハルは目を丸くし、自分の耳を疑った。

「ノアが……?」

「あの子は幼いころから、お前のそばにいた。

お前の祈りを知り、お前の沈黙を知り、お前の弱さを知っている。

天使代行のそばに置く者として、あれ以上にふさわしい者はいない」


「そばに置くとは、どういう意味ですか」


クレメンスは穏やかに答えた。

「お前の部屋も、祈りも、眠りも、日々のすべてを、ノアが守るということだ」

クレメンスは続けた。

「天使代行には、終生そばに置く守り手が必要だ。彼女はその役目にふさわしい」


ハルはうつむいた。


クレメンスの言葉は、いつも穏やかだった。

怒鳴らない。責めない。祈りのように告げる。

だから逆らう言葉が、喉の奥でほどけていく。


「聖父様」

ハルはようやく尋ねた。

「なぜ、僕を男の子として育てたのですか」


クレメンスは、わずかに目を細めた。

「ノアが女児だったからだ」

まるで天気の話でもするような声で言い放つ。

「町が天使の遣いを必要とし、ノアが守り手として定まった時、形が必要になったのだ」


ハルの指先が冷たくなる。

「形……」


クレメンスは、明日の天気でも告げるように言った。

「天使代行と守り手。祈りによって結ばれる二人。その形は、町人にも分かりやすい」


「じゃあ、僕は……」


「お前が何者であるかは、神が決める。そして神の御心を、人は形にしなければならない」

答えになっていない。

けれどハルには、それが答えなのだと分かった。


自分の「僕」も、ノアとの距離も、天使守りという名も、

最初から誰かの手で形にされていたのかもしれない。


ハルは「僕」という言葉を嫌っているわけではなかった。

それはもう、自分の中に深く馴染んだ言葉だった。

けれど、その言葉さえ最初から与えられたものだったのだと気づいた時、

ハルは自分の足元がまた少し崩れるのを感じた。

それでも、今ここで息苦しいと思っている自分だけは、誰かに与えられたものではない気がした。

その小さな感覚だけを、ハルは胸の奥で握りしめた。



ノア


私に教えられたのは、ハル様のお世話に関することだけだった。

礼服のたたみ方。髪の梳き方。

礼拝前と後に飲ませる薬草茶の淹れ方。

人が押し寄せた時の立ち位置。

ハル様が疲れた時の目元。

ハル様の声がかすれる前の呼吸。

それなら、私は誰よりも知っている。

でも、馬車代の相場は知らない。町の外の市場も知らない。

人が働いてお金を得ることも、恋をして結婚することも、喧嘩して別れることも。

孤児院で読んだお話の中にもあったけど、よく分からなかった。


そんなもの、ハル様のお世話には必要なかったから。


私の世界には、いつもハル様がいた。


ハル様が笑えば、私は安心する。

ハル様が黙れば、私は不安になる。

ハル様が泣くと、私も泣きそうになる。

ハル様が誰かを見ると、私の胸はざわつく。


ハル様は、外の話を聞く時だけ、少し子どもみたいな顔をする。


エリオットは、外から来た子だった。

よく笑って、よく叱られて、誰かが泣いていると、誰よりも先にそばへ行く子だった。


エリオットが話す青い草原も、宝石のように光る湖も、雲に届きそうな山々も、

私は少しだけ好きだった。


ハル様が、楽しそうに聞いていたから。


だから私も、外の話が嫌いではなかった。


あの日までは。


風に飛ばされたハル様の白い帽子が、

庭の木の高い枝に引っかかった。

ハル様は困った顔で見上げていた。


「待ってろよ。取ってきてやる」


エリオットはそう言って笑った。


ハル様は止めた。

私も、やめてと言った。


けれどエリオットは、いつものように明るく笑って、木に登った。


枝が折れる音がした。

落ちたあとも、彼は笑っていた。


泥のついた帽子を握ったまま、膝も腕も擦りむいていた。

服の脇には、枝に引っかけたような小さな裂け目があった。


「ほら、取れただろ」


そう言って笑うから、その時は誰も、死ぬなんて思わなかった。


でも、数日後、エリオットはうまく口を開けなくなった。

水を飲むのにも時間がかかった。

笑おうとするたび、顔が痛そうに歪んだ。


ハル様は何度も泣いて謝っていた。


「僕のせいだ……エリオット、ごめんなさい」


そう言うたび、エリオットは首を振ろうとした。

けれど、その動きさえ苦しそうだった。


「違うよ、ハル。気にすんなって」


かすれた声だった。


「治ったらさ」


エリオットは、うまく回らない舌で、それでも笑おうとした。


「外を……見に行こう」


消え入るような声だった。


その夜を境に、エリオットはもう、はっきりと目を開けることはなかった。


外の話をする子は、ハル様を笑わせる。

ハル様の中に、知らない色を残す。


そして、最後にはいなくなる。

ハル様の中に、消えない色だけを残して。


だから私は、外の話が嫌いになった。

外の色も、外の声も、外から来る人も。


だってそれは、ハル様を笑わせて、ハル様の中に残って、

最後にはハル様を悲しませるものだから。


でも、あの女。

サラ。

あの女が来てから、私の胸のざわめきは大きくなっていた。


「外って、そんなにいいところなのかな」

ハル様はつぶやくように言った。


「ハル様は外に行きたいの?」


「……分からない」

ハル様はそう言って、袖口を握った。


「でも……サラが言っていたお祭りは、少し見てみたい」

「エリオットが言ってた青い草原も」


その名前が出た瞬間、私の指先が止まった。


エリオット。


もういない少年の名前が、胸の奥で冷たく揺れた。


「誰も、僕を天使様って呼ばない場所に行ってみたい」


ハル様は、私の指が止まったことに気づかないまま言った。


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が小さく騒いだ。


「どうして? ベルヴェールが嫌いになっちゃったの?」


でもハル様はすぐには答えなかった。


「嫌いなんじゃない」

ハル様はようやく口を開いた。

「……ここにいるのは……苦しいんだ」


私には、その言葉がよく分からなかった。


この町では、ハル様は大切にされる。

誰もハル様を傷つけない。

誰もハル様を見捨てない。


なのに、どうして苦しいのだろう。


分からない。


分からないものは怖い。


エリオットの名前も。

外の草原も。

サラの声も。


全部、ハル様を私の知らない場所へ連れていくものに思えた。


だから嫌いだった。


外の話をするサラが。

ハル様の中に、知らない色を増やしていくあの女が。


でも、大丈夫。

聖父様は仰られたもの。

聖別式が終われば私はずっとハル様のそばにいられる。


ハル様の終生の守り手として。

聖別された天使様と、終生の守り手は、祈りの中で深く結ばれる。

孤児院では、それを聖体の契りと教えられていた。


清らかで、正しくて、神の前で許されたもの。


ハル様が寒いなら、温めてあげる。

ハル様が怖いなら、抱きしめてあげる。

ハル様が外の声に揺れるなら、聞こえないようにしてあげる。


それは全部、私の務め。

私だけの、務め。

もう誰にも、私とハル様を離すことはできない。


*


聖歌隊の代表として儀礼歌の確認を任されたサラは、聖別式の式次第に目を通していた。

そして聖別式の意味を知った時、しばらく言葉を失った。


「これは、聖別ではありません」

応接間でサラはクレメンスに抗議する。

「名前を変えただけの、所有です」


クレメンスは怒らない。

「所有ではない。守護だ」


「守ることと、閉じ込めることは違います」


「外の者には、そう見えるのかもしれない」

哀れむような声でクレメンスは言う。


「こんなこと、我々リュミエール大聖堂の司教様たちが黙って見過ごすとでも?」


クレメンスは、目を伏せたまましばらく黙っていた。


「サラ」

穏やかな声だった。

「あの子を外へ連れ出せば、それで救いになると思うか」


サラは眉をひそめる。

「どういう意味です」


「ベルヴェールでは、あの子は天使様だ。祈られ、守られ、名を与えられている」

クレメンスは静かに言った。


「だが外へ出れば、誰があの子を守る。

奇跡と呼ぶ者もいるだろう。

異端と呼ぶ者もいる。

医師は身体を調べたがり、

信徒は悪魔の徴だと騒ぐかもしれない」


サラは言葉を失う。


「お前に、天使様ではなくなったハルを守れるのか?」

クレメンスの声は、最後まで優しかった。

「名を奪われ、祈りを失い、自分が何者かも分からなくなったあの子を。

外の好奇、憐れみ、恐れ、そのすべてから」


サラの手が震えた。

「それでも……閉じ込めていい理由にはなりません」


「そうだな」

クレメンスは静かに頷いた。

「だから私は、これを閉じ込めることだとは思っていない」

「守っているのだ。外の残酷さから」


サラの目が鋭くなる。

「それは、あなたの祈りではなく、あなたの恐れです」


クレメンスは怒らなかった。


「恐れであの子とこの町を守れるのなら、それでよい」

そして、目を伏せたまま言った。

「もう手は打ってある。君にできることはない」


部屋の空気が冷えた。


サラはしばらくクレメンスを睨みつけていたが、やがて何も言わず背を向けた。

クレメンスが目を開けた時には、サラはもう部屋を出ていた。


「……聖遺物のない教会都市が、どんな末路をたどってきたか」

誰に聞かせるでもない声だった。

「それを知らないほど、君も世間知らずではあるまい」

クレメンスは静かに目を伏せる。


「そして、天使様でなくなったハルが、外で何と呼ばれるかも」

その言葉だけが、冷えた応接間に残った。


翌日、サラは聖歌隊の衣を洗濯するため、

ベルヴェール孤児院の隣にある小さな洗濯室へ向かった。


洗濯をしている間、自分が何度も同じことを考えているのに気づいた。

報告すればいい。

リュミエール大聖堂へ戻り、司教たちに伝えればいい。

本来なら、それが正しい手順だった。


けれど、明日には聖別式がある。


手順を踏んでいる間に、ハルは天使代行として記され、ノアは終生の守り手として結ばれてしまう。

一度形にされてしまえば、それをほどくには、きっと長い時間がかかる。

間に合わない。

今夜を逃せば、ハルはもう二度と外へ出られない。

だから、連れ出さなければならない。

それは衝動ではなかった。

祈りとは、人を閉じ込めるためのものではない。

リュミエール大聖堂で学んできたことも、サラ自身の怒りも、同じ答えを指していた。


その日の練習の終わり、サラはハルに告げていた。

夜半の鐘が二度鳴ったら、大聖堂の裏庭へ来て、と。


ハルが頷いたのか、頷けなかったのか。

サラには、もう確かめる余裕もなかった。


大聖堂の裏庭。月明かりが薄く落ちている。

灰色の夜でサラのリボンだけが、淡く揺れていた。


ハルは来た。

白い礼服の上に、黒い外套を羽織っている。白を隠すための黒だった。

ハルは、約束を果たしに来た人の顔ではなかった。

ただ、呼ばれてしまった子どものように、そこに立っていた。


「ハル、来たのね」

サラは手を差し出した。

「行きましょう」


ハルはその手を見る。

外へ続く手。名前で呼んでくれる手。

天使様ではなく、ハルとして見ようとしてくれる手。


「僕は」

ハルは言った。

「聖別を受けたくない」


その言葉を口にした瞬間、身体が震えた。

初めて、自分の言葉で言った気がした。

サラは黙って聞いていた。

ハルは続ける。

「でも、僕はそれ以外の何なのか分からない」


「分からなくてもいいわ」


「よくないよ」

ハルは首を振る。

「僕は、教えられたことしか知らない。祈りの言葉なら読める。聖歌なら歌える。

でも、外でどうやって生きるのか分からない。

お金の使い方も、道の選び方も、誰かと普通に話すことも」

声が小さくなる。

「僕は、この世界を何一つ知らないんだ」


サラは静かに言った。

「知らないことは、罪ではないわ」

ハルはサラを見た。

「知っていけばいいの。少しずつ」


「……怖いんだ」

震える声でハルは言う


「ええ」

サラは頷いた。

「怖くてもいいわ。でも、考えることまで誰かに預けてはいけない」


ハルは何も言えなかった。

サラの言葉は正しい。優しい。

けれど、眩しかった。


「外の世界へ逃げるには今夜しかない」

サラは言った。

「明日の聖別式が終われば、あなたはもう外へ出られない」

「ノアさんも、終生の守り手として正式にあなたのそばへ置かれるのでしょう?」


ハルの手が震えた。

「でも、ノアを……置いていけない……」


サラの声が少しだけ強くなる。

「あなたがここに残れば、二人とも同じ場所から動けなくなる、鎖になってしまうわ」

「私は、それをあなたの望みだとは思えない」


ハルはその言葉を聞いて、泣きそうになった。


兄妹のように育ってきたノアが、自分を縛りつける鎖だった。

けれど、それだけではなかった。


本当は自分もまた、彼女をこの町に縛りつける鎖なのかもしれない。


その考えが胸に落ちた瞬間、伸ばしかけた手が止まった。

サラの手は、すぐそこにある。

けれど、その距離がひどく遠かった。


その時、背後で枝が鳴った。


ノアが立っていた。

「だめ」

小さな声だった。けれど、鐘の音より重かった。


サラはノアの方を向く。

「ノアさん……」


ノアはサラを見ていなかった。ハルだけを見ていた。

「だめだよ、ハル様」


「ノア……」


「行かないで」

ノアの声は、子どもが親にすがるようだった。


サラは一歩前に出た。

「ノアさん。あなたも一緒に外へ行きましょう」


「外なんて知らない」

ノアは静かに言う。


「知らない人も、知らない町も、知らない歌も、全部……いらない」

ノアの声が震えた。

「エリオットだって、外の話だけを残して、いなくなった」


ハルの顔から血の気が引く。


「サラも同じ。ハル様を笑わせて、ハル様の中に知らない色を残して、最後にはいなくなる」


ノアはサラを見なかった。

ハルだけを見ていた。


「そんなもの、ハル様にはいらないの」

「ハル様には、私がいるもの」


「ねえ、ハル様」

「私じゃ、だめなの?」


「……」


「ノアさん……」


「サラには関係ない!」

ノアの声がサラの言葉を遮る。

「ハル様のこと、何も知らないくせに!」


サラは言い返そうとして、一瞬だけ息を詰めた。

知らない。

確かに、自分は知らない。


けれど、だからこそ。


「……知らないわ」


静かな声だった。


「だから、あなたたちに聞いているの」


けれどノアは、その言葉を聞かなかった。

聞く必要などない、というようにハルへ近づく。


ノアは祈るように言葉を紡ぐ。

「ハル様が、眠れない夜に窓を見ることも、

怖い時に袖を握ることも、私は知ってる」


ノアの声は震えていた。けれど、止まらなかった。


「朝は右側から髪を梳かないと嫌がることも、

薬草茶が苦すぎると飲めないことも、

声がかすれる前に喉が小さく動くことも」


一歩、また一歩、ノアはハルへ歩み寄る。

「雨の日は少しだけ歩くのが遅くなることも、

知らない人に長く見られると笑わなくなることも、

祈りのあとに指先が冷えることも」


「眠れない夜、本当は灯りを消してほしくないことも」


ノアはハルの袖を掴む。


「私は全部知ってるよ」


「ノア……」

ハルは止めようとした。

でもノアは止まらなかった。


「私は、ハル様の世話をしてきたの。

ハル様が天使様でいられるように、

ずっとそばにいたの。なのに」

ノアの目から涙がこぼれた。

「どうして、私じゃない人の声を聞くの?」


ハルは息を飲んだ。

ノアは泣いていた。けれど、その目はハルを逃がさない形をしていた。


「聖父様は、最初から分かってたんだよ」

ノアは泣きながら笑った。

「私がハル様のそばにいるって。ハル様は、私が守るって。

だからね、私はここにいてよかったと思ってるの」


「ノア……やめて……」


「ねえ、ハル様。私たち、最初からそういうふうに決まってたんだよ」

その言葉は、子が親にすがる祈りのようにも聞こえた。


サラの手は目の前にある。外への道は、そこにある。

けれどノアの涙が、ハルの心に重りを縛り付ける。

ハルの手は、サラへ伸びきらなかった。


その隙に、ノアがハルの手首を掴んだ。

「戻ろう」


「ノア、痛い」


「戻ろう、ハル様」

ノアの力は強くなかった。

けれど今のハルを連れ戻すには、それで十分だった。


サラが叫ぶ。

「ハル!」


ハルは振り向きかけた。


サラは思わず手を伸ばした。

掴めば、まだ間に合うかもしれない。

細い手首を引けば、ノアの腕から引き離せるかもしれない。


けれど、その手は途中で止まった。


ハルの背中があまりにも白く、あまりにも頼りなく見えた。

強く引けば、そのまま壊れてしまいそうだった。


サラは、ハルを救いたかった。

奪いたかったわけではなかった。


その迷いの一瞬に、ノアがハルの手首を引いた。


ハルの身体が、ノアの方へ傾く。


ノアはそのままハルの肩を抱き寄せ、サラの声から隠すように、ハルの顔を自分の胸元へ寄せた。

「聞かないで」

ノアの声は優しかった。

「その声は、ハル様を連れていく声だから」


サラがもう一度、ハルの名を呼ぼうとした時、月明かりが雷雲に隠れた。

灰色だった裏庭が暗闇に沈む中、ノアは足元のおぼつかないハルを連れて、

礼拝堂の奥へ続く回廊の影へ消えていった。



回廊には、クレメンスが立っていた。


ノアはハルの手首を掴んだまま、足を止める。

ハルも、助けを求めるようにクレメンスを見た。


クレメンスは、何も言わなかった。


ノアを咎めることも。

ハルの名を呼ぶことも。

サラを責めることも。


ただ、静かに目を伏せた。


その沈黙は、許しだった。


ノアは小さく息を吸う。迷いが消えたように、ハルの手首を強く握る。

「戻ろう、ハル様」


ノアはハルを大聖堂の奥の部屋へ連れて行った。

そこは、礼拝堂の裏にある静かな部屋だった。


高い窓がひとつあり、灰色の空が見える。

外では町人たちが騒ぎ始めていた。

「外の聖歌隊が天使様を惑わせた」

「天使様を外へ連れ出そうとした」


その声は厚い扉越しに濁って聞こえる。

ハルは壁際に立っていた。


「ノア……」


「大丈夫」

ノアは言った。

「私がいるよ」


その声は、昔と同じだった。

礼拝後、疲れて座り込んだハルに水を持ってきてくれた時。

幼いころ、怖くて眠れない夜に手を握ってくれた時。

自分を見失ったあの夜に、理由を聞かず、ただそばにいてくれた時。


その声に、ハルは何度も救われてきた。

だからこそ、逃げられなかった。


ノアは、ハルの弱いところを知っている。

ハルがどんな声に安心するのか。

どんな手に縋ってしまうのか。


どう呼ばれれば、立ち止まってしまうのか。


優しさが、こんなにも逃げ道を塞ぐものだと、ハルはその時初めて知った。


「私は知ってる」

ノアが近づく。

「ハル様には、秘密があるんでしょう?」


ハルの身体がこわばった。

「……何を」


ノアは少し得意そうに、でも泣きそうに笑った。

「ずっと知ってたんだ。ハル様は、みんなが思ってる天使様とは違うんだって。

聖父様が何か隠してるんだって」


「ノア……」


「私だけは、見ないようにしてきたでしょ」

ノアの声は優しい。

その言葉で、ハルは幼いころのことを思い出した。


初めて大礼拝に出た日の夕方、ハルは控室で礼服の紐をほどけずにいた。

人に触れられるのも、見られるのも怖くて、ただ白い袖を握りしめていた。


ノアは何も聞かなかった。

無理に近づくこともしなかった。


ただ、くるりと背を向けて、小さな声で言った。

「見ないよ。でも、呼んでくれたら手伝うから」


その一言が、あの時のハルには本当に優しかった。


見ないでいてくれること。

それでも、そばにいてくれること。


ハルはその優しさに、何度も救われてきた。

けれどその優しさは、長い時間をかけて、ノアの中で別の形に育っていた。


見ないでいてあげた。

待っていてあげた。

そばにいてあげた。


だから、いつか見せてもらえるはずだと。

いつか、自分だけは全部を知っていいはずだと。


ノアは、そう信じるようになっていた。


「ねぇ、ハル様」

ノアはそっと言った。

「私は、どんなハル様でも嫌いにならないよ」


ハルは首を振った。

「違う。僕は、ノアが思ってるものじゃない」


「じゃあ、何?」


ハルは答えられなかった。

天使ではない。奇跡でもない。祝福でもない。

けれど、自分をただの人間だと思うには、あまりにも長い間、違うものとして扱われすぎた。

「僕は……」

声が震える。

「僕は、みんなの言う天使様なんかじゃない……」

ノアは何も言わなかった。

「でも、普通の人間でもない」

言ってから、ハルは唇を噛んだ。

その言葉が自分を傷つけると分かっていた。それでも、他に言葉を知らなかった。

「僕は……」


ハルは目を伏せ、震える手で、かつて「天使様の証」だと教えられたものを隠していた白い布に触れた。


「僕は……化け物なんだ」

口にした瞬間、部屋の空気が冷たくなった気がした。

腹の底に、氷を流し込まれたようだった。

ノアに拒絶されると思った。

気味悪がられると思った。

逃げられると思った。


そうなれば、もうここにはいられない。

サラの手を取るしかなくなる。


心のどこかで、ハルは拒まれることを望んでいた。

自分で選ぶ勇気がなかったから。


けれどノアは逃げなかった。


ノアはハルをそっと抱きしめた。

「ハル様は化け物じゃないよ」

「私、怖くないよ」

ハルの目が見開かれる。

「気持ち悪くなんてない」


ノアの腕は温かかった。


拒絶されなかった。


その事実が、ハルの心を救うかのように思われた。

次の言葉がくるまでは。


「やっぱり、天使様だったんだね」


ハルの目頭が熱くなる。

「違う」


「男の子でも、女の子でも、町の人が思う形でもなくて」


「違う、ノア」


「誰にも分からないくらい特別なんだ」


「違う」


「だから、天使様なんだよ」


ハルの目から涙が落ちた。

ノアは拒絶しなかった。

でも、ハルが望んだ形では受け入れてくれなかった。


化け物じゃない。

そう言われたのはうれしかった。


けれど、天使だとも言ってほしくなかった。

僕の身体は、ただ僕の身体でしかなかったはずなのに。


誰かが祈りを貼り、誰かが奇跡を貼り、誰かが悪魔の徴を貼り、

今またノアが天使という名前を貼った。


僕を、何かにしないで。

ただ、ハルでいさせて。


そう言いたかった。

けれど声にならなかった。


ノアはハルの髪を撫でた。

「大丈夫。私は全部知ってるよ」

ハルは首を振る。

「知らない」

声は小さかった。

「ノアは、僕を知らない」


ノアは優しく微笑んだ。

「知ってるよ」

そして、祈るように言った。

「ハル様は、誰よりも綺麗な天使様」


少し間を置いて、ノアは言い直す。

「……ううん」


ハルは涙の中でノアを見る。

ノアは嬉しそうに笑った。


「私だけの、天使だよ」


その瞬間、ハルは分かってしまった。


町のみんなの天使様ではなくなった。

けれど、ただのハルにも戻れなかった。


ノアだけの天使。


それは少しだけ、近づいた名前のように聞こえた。

救いに似ている気さえした。


けれど違う。


檻が広い町から、ノアの腕の中へ移っただけだった。


ハルはノアに抱かれたまま、声もなく泣き崩れた。

ノアはまるで壊れものを慈しむように、何度もハルの髪を撫でていた。



窓の外には、灰色の雷雲が立ち込めていた。

まだ雨は降っていない。けれど空は重く、今にも崩れそうだった。

遠くで、かすかに雷が鳴る。


ハルは泣き疲れたのか、ノアの膝に頭を預けていた。

目は閉じていたが、眠っているのか、眠るふりをしているのか。

本当は、分かっていたのかもしれない。

けれどノアは、分からないふりをした。


窓の外では、町人たちの声がかすかに膨らんでいた。

怒りを含んだ声が、厚い窓ガラス越しに濁って聞こえる。


けれどノアは、そちらを見なかった。


誰が叫んでいるのか。

誰が責められているのか。

そんなことは、どうでもよかった。


ハル様は、ここにいる。


その事実だけで、ノアの世界は静かだった。

ノアは眠る子どもをあやすように、ハルの髪を撫でた。


何度か指を通すうちに、ノアの視線がふと下へ落ちる。

ハルの手が、ノアの膝の上で力なく開いていた。


何かを掴むでもなく、拒むでもなく、ただそこにある手だった。

逃げるために伸ばされることも、誰かを押し返すことも、もう忘れてしまったように。


ノアは、その手をじっと見つめた。


そして、そっと自分の手を近づける。


ハルは動かなかった。

ノアの指先が、ハルの開いた指の隙間へ入る。

一本ずつ。ゆっくりと。優しく。


ノアの指が、ハルの指に絡む。

恋人同士のような形。

けれど、その形を完成させたのはノアだった。


いままでノアは、ずっと「ハル様」と呼んでいた。

天使守りとして。祈るように。縋るように。

けれどその時だけ、ノアは小さく息を吸った。


「ハル」


ノアは、満たされたように微笑んだ。


「私だけの、天使」


ノアはその言葉を、口の中で甘く転がすように、もう一度だけつぶやいた。



夜が深くなるまで、ノアがハルの部屋に残ることは珍しくなかった。


礼拝のあと、ハルが眠れない夜。

雷が鳴って、白い窓が震える夜。

町人の祈りが耳から離れない夜。

自分が天使様ではないのかもしれないと知って、ひとりで泣いていた夜。


そんな夜、ノアは部屋に残った。

小さな椅子に腰かけて、ハルが眠るまでそばにいた。

祈り疲れて長椅子で眠ってしまったハルを、寝台へ移したことはあった。

乱れた髪を直し、布団を肩まで掛けて、夜明けまでそばにいたこともある。

けれど、同じ寝台に入ったことはなかった。

それは、天使様と天使守りの間に残された、最後の距離だった。


「寒かったでしょう、ハル」

ノアが囁く。

ハルは目を閉じていた。

開いたままの手に絡んだノアの指を、ほどくことができなかった。


ノアの影が、ゆっくりとハルの上に落ちていく。

ノアの髪が頬に触れる。

その重みは優しいはずなのに、逃げ道をふさぐ。


ノアの唇が、ハルの唇に触れた。

甘い匂いがした。

いつもノアが淹れてくれた薬草茶に似ているのに、もっと濃く、心に突き刺さるよう。


「サラの色が残ってる……」

ノアは、乱れた袖を整える時と同じ声で言う。

「大丈夫。私が直してあげる」


雷は、夜明けまで鳴っていた。


その夜、ハルはまた、何かの名前を与えられていった。

天使様でも、化け物でもない。

ノアだけが知っている、ノアだけのものとして。

雷が鳴るたび、その名前は少しずつ深く沈んでいった。


*


騒動が終わった翌朝、雨が降っていた。

細く、静かな雨だった。

クレメンスはノアを責めなかった。

聖別前夜の暴走は、すべて沈黙の中へしまい込まれた。


「天使様は、落ち着かれたか」


ノアは少しだけ目を見開く。

「……はい」


「そうか」

クレメンスは静かに頷いた。

「ならばよい。お前は、天使守りとして役目を果たした」

その言葉に、ノアの表情がゆるむ。許された子どものように。

「天使様は、繊細なお方だ」

「外の声から、お守りしなさい」

クレメンスは穏やかに微笑んだ。


その声は、子どもをあやす親のように優しかった。

ノアは、その言葉を祝福のように受け取った。


聖別式は予定通り行われた。

サラは、式の終わりまで独唱を務めることを許された。

許された、というより、外されなかった。


今ここで彼女を罰すれば、聖別式に影が差す。

天使様が本当に惑わされたのだと、町人たちに認めることになる。


だからクレメンスは何も言わなかった。

聖歌隊の隊長も、サラを責めなかった。

ただ、式が終わり次第、隊はベルヴェールを去ることになった。


白い祭壇の前に、ハルとノアが並んで立つ。

ハルは、いつもの礼服に包まれていた。

白銀の髪も、淡い瞳も、祈りの場にふさわしく整えられている。

けれど、その横に立つノアだけが、かすかに頬を紅潮させていた。


町人たちは泣いていた。

喜びの涙だった。


誰も、ハルの指先が冷えていることには気づかない。

誰も、ノアの手が震えている理由を疑わない。


クレメンスは、二人の前で祈りを唱えた。

「ここに、ベルヴェールの天使代行を聖別する」

ハルの名が読み上げられる。けれどその名は、すぐに天使代行という称号の中へ沈んでいく。

「そして、ノアを終生の天使守りとして任ずる」

ノアの手が、ハルのそばで小さく震えた。


恐怖ではなかった。

喜びでも、安堵でも足りなかった。


ようやく、ここにいていいと言われた子どもの震えだった。


サラは聖歌隊の列にいた。

彼女は歌った。

喉が震えそうになるのを、何度も抑えた。


これは祝福の歌ではない。

少なくとも、サラにはそう聞こえなかった。


サラの歌は、ハルを外へ呼ぶための声だった。

けれどその日、その声はハルを町へ縛る祈りの中に混ざった。


祭壇の上で、ハルは白い礼服に包まれている。

その隣にはノアがいた。

クレメンスが、二人の手を取らせる。

町人たちは祈る。


「天使様」


「天使様」


「天使様」


町人たちはサラを見なかった。見ても、天使代行をたぶらかした外の女として目を伏せる。

彼女の歌だけが必要とされ、彼女の言葉は誰にも聞かれなかった。


自分の声が、ハルを閉じ込める祈りの一部になっていく。

サラにはそれが、何より苦しかった。

ハルは微笑んでいた。最初のころと同じように。

けれどサラには、その微笑みが違って見えた。


自分は最後までいた。

手を伸ばした。

名前を呼んだ。

逃げ道を示した。


本当に、あれでよかったのだろうか。

自分はただ、ハルを急かしていただけではなかったのか。

今更理解しようとしても、もう遅かった。



聖別式が終わり、聖歌隊がベルヴェールを去る時、雨はまだ降っていた。

サラは出立前、荷物を取りに控室へ戻るふりをして、裏庭へ回った。


大聖堂は、灰色の雨の中で静かに立っている。

その奥に、ハルがいる。

もう、サラの声は届かない。


サラは胸元の薄赤いリボンを外した。

そして、教会の裏庭の石の隙間にそっと結ぶ。

風が吹くたび、淡い赤が灰色の庭で小さく揺れた。


ハルが見つけるかは分からない。

ノアに捨てられるかもしれない。

雨に濡れて、色を失うかもしれない。

それでもサラは、そこに残した。

声には出さず、胸の内で呼ぶ。


ハル。

あなたを助けられなかった私を許してとは言わない、

どうか、いつかこの色に気づいて。


馬車が動き出す。

その日、サラは最後に一度だけ歌った。

誰にも聞こえないくらい小さな声で。

それは祈りではなかった。

ハルの名前を呼ぶための歌だった。

けれどその歌も、雨の音に溶けていった。


*


聖別式の翌朝も、雨は細く降っていた。

ノアはハルのそばで眠っていた。

つい昨夜、初めて越えた距離の内側で、安心しきった顔で眠っていた。


ハルがその寝顔を見つめる表情は安堵にも、諦めにも似ていた。

もう何も考えなくていい。

もう選ばなくていい。

もう、自分が何者なのかを探さなくていい。


ノアが呼ぶ名前だけを聞いていればいい。

ノアさえいてくれれば、ハルはハルでなくてもよかった。


窓の外では、雨に濡れた大聖堂の庭が灰色に沈んでいる。

そのどこかで、薄赤いリボンが濡れていた。

サラが残した、外の色。

けれどハルは、それを見つけなかった。

ノアも、それに気づかなかった。

誰にも拾われないまま、淡い赤は灰色の雨の中で揺れていた。

外の色は、まだそこにあった。

けれど、それがハルに届くことはなかった。


初めての短編小説です

おかしい部分や気になった部分など、コメントでご指摘いただくと幸いです

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