異嗅症
東京の喧騒が薄く遮断された、築10年のアパート。
その一室に住む24歳のヒロは数週間前から原因不明の異嗅症を患い、世界が地獄の底へと変貌していた。
世界に満ちるあらゆる香りが、ヒロの鼻を通り抜ける瞬間に耐え難い悪臭に変質してしまうのだ。淹れたてのコーヒーの香りは下水の臭いに、洗剤の清潔な香りは焦げ付いた生ごみの臭いに。
鼻にティッシュを詰めてマスクを二重に着用せざるを得なくなり、絶望に打ちひしがれて痩せこけていくヒロを支えているのは、同居人のタダシだ。
31歳の彼はモデル並みの端正な顔立ちと理知的で穏やかな性格の持ち主で、ヒロを実の弟同然に愛して世話を焼き、ヒロもタダシを心から慕っている。
しかし、そのタダシの体臭ですら汚物のように感じ、それがヒロにとって何よりの苦痛だった。
そんなある日、あまりにも唐突であまりにも滑稽な形で転機が訪れた。
少しばかり腹が張っていたのか、リビングのソファーで力なく横たわるヒロの傍らでタダシがうっかり放屁したのだ。くぐもった音が静かな室内に響く。
「っ、悪い、ヒロ。今のは……」
タダシが慌てて窓を開けようとしたその時、ヒロの体が跳ねるように動いた。
この数週間、死んだ魚のような目をしていた彼の鼻腔をその匂いが貫いたのだ。
(……え?)
それは今のヒロにとって唯一、腐っていない匂いだった。
それどころか、どんな香水よりも甘美で脳を痺れさせるような芳香である。
先程までヒロが吐き気を催していた部屋の空気が、その一瞬の放屁によって新緑の森のような清涼感に塗り替えられていく。
ヒロは無意識のうちにソファーから転げ落ち、あろう事かタダシの尻の辺りに鼻を埋めて深く貪るように空気を吸い込んだ。
「嘘だろ……? 兄さん、いい匂いだ……」
「ヒロ、お前……熱でもあるのか? 俺の、屁だぞ?」
「これだよ、これだけが僕を安心させてくれるんだ……」
「ヒ、ヒロ!? 正気か!?」
端正な顔を驚愕に歪めてタダシが身をよじり、ヒロの脳内は猛烈な自己嫌悪とそれに相反する抗いがたい快感の濁流に飲み込まれていた。
『汚い、最低だ』と理性が叫ぶ一方で、鼻腔は生理的に最高なものと定義して歓喜に震えている。
ヒロの体が唯一受け入れる匂いがよりによってタダシの放屁だという事実に2人は同時に愕然としたのだった。
「ヒロ、本当に大丈夫なのか? 明日の朝に病院に行って医者に相談しよう。な?」
タダシの困惑しきった、しかしどこか憐れみに満ちた声すら今のヒロには遠く聞こえた。
翌日、2人は這うような思いで都内でも有数の病院を訪れた。
「……なるほど。異嗅症の極めて特異な症例ですね。」
年配の男性医師は、ヒロが書いた「特定の匂いだけが芳香に感じられる」というメモと、横で死人のような顔をして座るタダシを交互に見た。
ヒロは藁にも縋る思いで身を乗り出す。
「先生、治るんですよね? 僕は、兄さんの……その、おならの匂いしか体が受け付けないんです。他のものは全部毒ガスみたいに感じるのに!」
「ヒロ、大きい声で言うな……」
タダシがヒロの腕を肘で小突き、耳まで真っ赤にして俯く。
医師は神妙な表情を浮かべて重々しく首を振った。
「CTも血液検査も異常なし。神経学的なエラーとしか言いようがないですね。特定の人物の腸内ガスのみを、あなたの脳が『快』と誤認している。残念ながら、現代の医学で嗅覚のバグを特定して修正する治療法は存在しません。」
「そんな……じゃあ僕は一生、兄さんのケツを追いかけて生きていけって言うんですか?」
「まあ、栄養摂取が困難なら鼻栓をして無理矢理食べるか……あるいは、その特定の匂いを嗅いで精神の安定を図るしかないですね。」
2人は診察室の椅子で絶望して項垂れ、夕暮れの街を無言で歩いて帰宅した。
だが数日経つと絶望は徐々に消え、食事を摂れず衰弱していくヒロを見かねたタダシはついに覚悟を決める。
彼はかつてないほど真剣な眼差しでプロテインシェイクをシェイカーで振り、茹で上がった卵の殻を剥きながら呟いた。
「ヒロ。お前が死ぬよりは、俺が尊厳を捨てる方がマシだ。」
タダシはヒロの主食となるガスの質を向上させるために食生活を劇的に改造した。
硫黄を多く含む茹で卵と高蛋白なプロテインシェイク、そしてガスを出しやすくするための炭酸飲料。
「兄さん、そろそろ出る?」
「……ああ。ほら、来い。」
タダシが腹を擦りながら屈辱に耐えるように顔を背けると、ヒロは吸入器を待つ患者のように期待に満ちた目でタダシの背後に回る。
プウッと情けない音が漏れる度にヒロは「はぁぁ……」と恍惚とした吐息を漏らし、その頬には次第に赤みが戻っていった。
また、以前は別々のベッドで寝ていたが、ヒロが夜間の発作を起こすのを防ぐために2人は同じベッドに入るようになった。
「兄さん、くっついていい?」
「好きにしろ。」
ヒロは布団の中で体を丸め、うつ伏せになったタダシの尻に顔を埋めた。
パジャマ越しにタダシの体温と、微かに漂う救いの残り香が伝っていく。
自分の放屁をこれほどまでに待ち望まれて愛おしそうに嗅がれる事に最初は羞恥心と嫌悪感しか感じなかったタダシだが、それでヒロが安らかな寝顔を見せる事で不思議な父性が徐々に芽生えていった。
「ヒロ、明日の朝は茹で卵を多めに食べるからな。」
「ありがとう……兄さん。大好きだよ……」
蕩けるような声でそう言われ、タダシは自分の顔が熱くなるのを感じた。
2人の共同生活は介護や療養の域を超えて、一種の精緻なルーティンへと昇華されていった。
タダシの日常は、起床直後に常温の炭酸飲料を500ml分飲み、胃腸を刺激してガスの生成を促す事から始まる。
数種類のプロテインシェイクを試して、ヒロが最も「深く安らげる」と評した特定の海外ブランドのプロテインシェイクをまとめ買いし、それから完全に固茹でにした卵を毎日6個食べるのだ。
硫黄成分がヒロの鼻腔に最高の結果をもたらすと判明してからは、タダシの体臭も微かに変化し始めた。
「ヒロ、今日の『キレ』はどうだ?」
タダシが真剣な面持ちで尋ねると、ヒロは彼の尻に顔を寄せ、ソムリエのように深く吸い込んだ。
「……素晴らしいよ、兄さん。少しガスっぽさが強まってコクが出てる。」
タダシは満足げに頷き、更に追加のプロテインシェイクを喉に流し込んだ。
一方、ヒロにとって日中の仕事は地獄そのものだった。
満員電車の加齢臭、オフィスに漂うコーヒーの香り、同僚の香水……その全てが腐ったドブネズミの死骸のような悪臭として容赦なくヒロに襲いかかる。
彼の命綱は、胸ポケットに忍ばせた小さなクリスタルガラスの小瓶だった。
会議中、隣の席の同僚がミントタブレットを口にした瞬間にヒロの脳内に激痛が走った。彼にとっては劇薬を鼻に押し込まれたような衝撃だ。
ヒロは吐き気を堪えてトイレに駆け込み、個室の鍵を閉めると震える手で胸ポケットから小瓶を取り出した。
蓋を開けた瞬間、小瓶の中に凝縮されたタダシのガスがヒロの神経を瞬時に鎮めていく。
「……っはぁ、兄さん……」
端正なタダシがヒロのために生成してくれた愛の結晶。
それを吸い込む時だけ、彼は会社員として正気を保つ事ができるのだ。
帰宅後の2人の距離感は、もはやルームメイトのそれを逸脱していた。
ヒロにとってタダシの尻は救命マスクであり、タダシにとってヒロは自分の生命活動の全肯定者である。
「兄さん、今日のは少し切ない匂いがするね。疲れてる?」
「分かるか。少し会議が長引いてな。」
「……っはぁ、生きてるって感じがする……」
「そうか。なら、いいんだ。」
タダシはヒロの後頭部を自身の尻へと更に深く押し当てた。
それは母鳥が雛に餌を与えるような慈愛に満ちた仕草だった。
大人の男性として、かつての「端正でクールな兄貴分」というプライドは今や微塵も残っていない。
(俺の存在意義は、ヒロの鼻を満足させる事。ただ、それだけだ。)
タダシはそう確信し、ガスで膨らんでいる腹を愛おしそうに撫でた。
だが、そんな平穏な2人の生活に最大の危機が訪れる。
季節外れの冷え込みが東京を襲った夜に、タダシが胃腸風邪を患ったのだ。
「……う、ううっ……」
深夜、隣で寝ていたタダシの呻き声にヒロは目を覚ました。
タダシの体は寝汗でぐっしょりと濡れ、顔面が土気色に変色している。
「兄さん!? どうしたの、しっかりして!」
「ヒロ……近寄るな……腹を、壊したみたいだ……」
腹部を抱え、這うようにしてトイレへと駆け込むタダシを見てヒロは狼狽する。
タダシの体調ももちろん心配だが、それ以上に恐ろしい予感がした。
これまでの経験上、ヒロの鼻が受け付けるタダシの放屁は健康な状態で生成される事が条件になっているのだ。
トイレから戻ってきたタダシは、息も絶え絶えにソファーに倒れ込んだ。
「すまん、ヒロ……炭酸も、プロテインも……今は、一口も受け付けない……」
タダシの胃腸は今、ウイルスとの戦いで荒れ果てている。
生成されるのは、彼自身の生命を削るような有害で不純なガスだ。
ヒロがいつものようにタダシの尻に顔を近づけると……。
「……っ!! くさっ!!」
鼻を突いたのはこれまでの芳香とは似ても似つかない、鼻腔を焼き切るような腐敗臭だった。
タダシの尻から発せられるものが、世界に溢れる他のゴミと同じ悪臭(常人にとってはそれが普通なのだが)へと変質してしまったのだ。
「ダメだ……兄さんの匂いが変わっちゃった……」
ヒロは部屋の隅で膝を抱え、ガタガタと震え出した。
あの絶望の淵にいた時と同じ感覚。
呼吸をする度に脳が「汚染されている」と警鐘を鳴らし、唯一の安らぎの場だったタダシの尻が今は最も恐ろしい毒ガスの発生源に見える。
一方、熱に浮かされるタダシの脳裏を過ったのは自己犠牲的な執着だった。
(ヒロが飢えている……俺がこんな体たらくだから、ヒロを満足させられない……!)
タダシは震えながら、キッチンにあるプロテインのシェイカーに手を伸ばした。
「兄さん、今飲んだら吐いちゃうよ!」
「ヒロが食事できずに死ぬよりは、良いだろ……お前は俺の、可愛い弟、だから……」
タダシは猛烈な吐き気と戦いながら、プロテインを喉に無理矢理流し込んだ。
胃が悲鳴を上げ、即座に逆流しようとするのを気力だけで抑え込む。
今の彼は病の苦しみよりも、自分の匂いでヒロを救えなくなる事の方がずっと辛いのだ。
夜明け前にようやく熱が引き、タダシの体内で生成されるものが少しずつ元の組成を取り戻していく。
ヒロは悪臭による吐き気と戦いながらもタダシの傍を離れなかった。
そして、ようやく届いた「いつもの欠片」を含んだ微かな匂い。
「……あ、戻ってきた……」
ヒロは泣きながら、衰弱したタダシの腰にしがみついた。
まだ少し不純物が混じっているものの、それでもヒロにとってこの世で唯一の救済だ。
「兄さん……ごめんなさい、臭いなんて言って。兄さんが死んじゃったら、僕、本当に息ができないよ……」
「……馬鹿だな、ヒロ。俺こそ、すまない。早くいい匂いを出せるように、治すからな……」
タダシは弱々しく笑い、ヒロの頭を抱き寄せた。
タダシの中に芽生えた父性はこの危機を経て、より強固で、より逃れられない支配へと変わっていた。
自分の体調よりも、弟分の鼻を満足させる事を優先する男。
そして、その男が排泄するガスに魂の全てを委ねる青年。
朝の光が差し込む部屋で2人は奇妙な、しかし誰にも邪魔できない平和な日常を取り戻していった。
世界中の誰もが汚物として嫌がるものを、ヒロだけは生命の輝きとして愛している。
それはある種の、究極の純愛の形ではないだろうか。
東京の片隅で、今日も2人は寄り添っている。
端正な顔立ちの兄貴分が放つプロテインと卵の結晶。それを黄金の薫香として享受する弟分。
彼らにとってこの倒錯した関係こそが、狂った世界で唯一正気を保てる幸せの形だった。




