【2-2】畑を甦らせる緑の石粉
(前回)照明結晶で夜警を強化。だが東の小道には“巨大な足跡”が残った。
夜明け。
柵の内側は無事だった。見張りの報告も「異常なし」。けれど、人の顔色にはまだ影が残る。井戸に水は戻ったが、肝心の畑はやせ細ったままだ。干ばつと地震の傷が、土の呼吸を止めている。
「種はある。けど、この土じゃ芽が持たん」
若い男が畝をつま先で押す。固い。
エルナが袖をまくって土を握り、指の間から粉みたいに零した。
「ほぐれない……」
俺は頷き、井戸の脇に道具を並べる。ふるい、木の桶、小さな計量皿。
「土を“起こす”。やることは三つ――水持ち、養い、呼吸だ」
エルナが首を傾げる。
「呼吸?」
「根が息できるように隙間を作る。土にも肺がいる」
掌を掲げ、頭の中で形を組む。
干からびた土に水を抱え込ませる“多孔の核”。
微かな養分をゆっくり放す“薄い殻”。
固まった粒を優しく押し広げる“見えない楔”。
それらを、撒きやすい粉の姿に――。
――創造。
桶の中に、淡い緑色の粉がふわりと降り積もった。香草と雨の匂いが混ざったような、清い匂い。触れると、かすかに温かい。
「これを薄く畝に撒く。撒きすぎは厳禁。水をやって、一晩置く」
「名前は?」
「……緑の石粉、でいい」
そのままだけど、覚えやすいほうがいい。
村人たちが集まり、俺は見本畝で動きを見せる。両手で掬い、指を大きく振って“霧”のように広げる。粉は土になじむと、すぐに色を失っていった。
「薄く、広く。角は多めに。最後に井戸水を」
エルナが柄杓を手渡し、俺は畝に静かに水を落とした。土が音もなく飲み込む。固かった表面が、わずかに柔らいだ。
「よし、今日はこれで終わり。夜の見張りもある。結果は――」
「明日の朝、だね」
エルナが笑う。うなずく俺の胸のどこかに、黒い砂の記憶がひやりと触れた。だが今は、畑を起こす。
◆
夜は、ランタンの列が村を守った。
俺は交代で見張りに立ち、合間に工房(と呼ぶにはまだ道具箱ひとつだが)で起動符の調整を続ける。腐臭は来ない。東と北の警戒を厚くしたのが効いたのかもしれない。
そして朝――。
畑に立った村人たちが、一斉に声を上げた。
「土が……柔らかい!」
「指が入る!」
昨日まで石みたいだった表土が、足裏でふかりと沈む。耕さずとも、鍬の刃がすっと入った。畝の間の小さな菜は葉がしゃんと立ち、色が明るい。端の枯れかけた苗も、茎に水が通ったみたいに弾力を取り戻している。
エルナが膝をつき、両手で土をすくって目を細めた。
「匂いが違う……雨の匂い」
「土が“目を覚ました”んだ」
俺は笑い、注意も添える。
「毎日は撒かない。三日おき、薄く。水をやり過ぎないこと。根が浅くなる」
村長が大きく頷き、皆に号令を飛ばす。
「聞いたか! 今日は畑を起こすぞ! 昼までに一反、午後にもう一反だ!」
小さな歓声がいくつも弾け、鍬の音が朝の冷気を切る。
エルナが走っていき、配水を手伝う。
その姿を目で追いながら、俺は胸の奥にひとつ灯りを増やした気がした。
与えるための創造。昨日の水と、今日の土。少しずつ、村の呼吸が整っていく。
作業の合間、子どもが駆けてきた。
「リオ、見て! ほら、ここ、芽が動いた!」
まだわずかだが、確かに新しい緑が指先を押し返す。
若い男は鍬を止め、深く息を吐いた。
「……これで、冬を越せるかもしれない」
言葉に、希望の重みが戻る音がした。
村長が俺の肩を叩く。
「礼は言い尽くせん。交易も本格的に再開できる。お前さんの粉、少し分けて――」
「自分の畑を優先して。外への分は、様子を見てから」
「そうだな。焦らずいこう」
その時、柵の門に影。
狩り帰りの男が息を切らし、帽子を脇に挟んで駆け込んできた。
「村長! リオ! 森の奥で、変な光を見た!」
空気が張る。
「変な光?」
「黒い……いや、黒なのに光ってる。木々の間で、脈打つみたいに明滅してやがった。背丈の二倍はある。近づいたら、鼻の奥に金属みたいな匂いが刺さって……」
俺の背筋を、昨夜の足跡の記憶がなぞる。金属の、冷たい匂い。黒い砂。引かれるように井戸へ向かった魔物。
村長は顎に手を当て、短く指示を出す。
「今日の畑は予定どおり続行。だが、森には入るな。見張りは東と北を厚く。リオ、後で場所を聞いてくれ」
「わかった。まずは皆、昼まで畑を優先。午後に偵察を組む」
エルナが心配そうに近づき、袖をそっとつまむ。
「危ないの?」
「まだ分からない。でも――放っておけない」
俺は畝の端に立ち、村の方角と森の稜線を同じ視界に収めた。
光と影の境目に、見えない線が一本引かれている。
こっち側は、起こした土と水と、笑い声。
向こう側には、黒く脈打つ“何か”。
森の奥で、黒が息をしている。




