第3章
放課後のチャイムが鳴り終わると、俺は机の上の教材をゆっくりと片付けた。
教室には部活動に向かう生徒たちの活気ある声が響いている。
友達同士で話し込む声、明日の予定を確認し合う声、恋人とのデートの約束をする声——俺には縁のない、眩しすぎる日常の音だった。
やがて教室が静かになると、俺は立ち上がった。
向かう先は職員室。
最後の希望にかけてみようと思ったのだ。
大人に助けを求める、本当に最後の機会として。
廊下を歩きながら、胸の鼓動が早くなるのを感じた。
手のひらには汗が滲んでいる。
きっと先生なら分かってくれる。
そう自分に言い聞かせながら、俺は職員室の扉の前に立った。
ガラス越しに見える職員室の中では、数人の教師たちが残業に励んでいる。
机に向かって書類を整理する人、パソコンに向かってタイピングしている人、電話で保護者と話している人——みんな忙しそうだった。
俺は深呼吸した。
これで最後だ。もし今回もダメだったら、本当にもう——。
「失礼します」
声をかけて扉を開く。
職員室特有の匂いが鼻をついた。
コーヒーの香り、コピー機のトナーの匂い、そして微かに感じる緊張感。
俺は担任である田中先生のもとに歩み寄った。
田中先生は四十代半ばの男性で、国語を担当している。
身長は百七十センチほど、痩せ型の体型で、薄くなった頭髪を横分けにしていた。
黒縁の眼鏡をかけ、紺色のスーツを着ている。
一見すると真面目そうな印象を与える先生だった。
授業もそれなりに熱心だし、生徒たちからの評判も悪くない。
俺も最初の頃は、この先生なら信頼できるかもしれないと思っていた。
でも今の田中先生の表情は、明らかに面倒そうだった。
机の上には採点途中のテスト用紙が山積みになっている。
赤ペンを手に持ったまま、俺の方を見上げる眼鏡の奥の瞳には、「早く用件を済ませてくれ」という意思が見え隠れしていた。
「何だ、橘。手短に頼むよ」
田中先生の声には疲労感が滲んでいる。
俺は一歩前に出た。
「先生……相談があります」
田中先生の眉が僅かに上がる。
「宿題のことか? それとも進路の話?」
「いえ、その……」
言葉に詰まる。どう説明すればいいのか分からない。
いじめのことを話すのは、これで何度目だろう。
「いじめのことで……」
その瞬間、田中先生の表情が露骨に変わった。
眉間に深いしわが刻まれ、口元が不機嫌そうに歪む。
まるで汚いものでも見るような目つきで俺を見た。
「またその話か」
田中先生のため息が職員室に響く。
近くにいた他の教師たちも、チラリとこちらを見た。
その視線が痛い。
「君の被害妄想はもういい加減にしてくれないか? 工藤くんたちに確認したが、そんなことはしていないと言っている」
「でも先生、俺は本当に—」
「本当に何だ? 君自身に問題があるからじゃないのか?」
「でも、今日も屋上で—」
「屋上で何だ? また一人で寂しくいたのか? だったら教室にいればいいじゃないか」
分かってくれない。
この人には、俺の状況が全く理解できていない。
隣の机に座っていた女性教師が俺たちの会話を聞いていた。
三十代前半の若い先生で、普段は生徒たちにも優しく接してくれる。
もしかしたらこの先生なら、と思って視線を向けた。
でも俺と目が合うと、慌てたように視線を逸らして、自分の書類に集中し始めた。
見て見ぬふりだった。
「橘くん、君はもう中学三年生なんだ。そろそろ自分のことは自分で解決するべきじゃないか?」
「でも—」
「それに、工藤くんは生徒会の副会長で、成績も優秀だ。クラスのリーダー的存在でもある。そんな彼が、君の言うようなことをするとは考えにくい」
確かに工藤は表面的には「良い生徒」を演じているかもしれない。
でも俺に対してやっていることは、明らかにいじめだった。
「先生、お願いします。一度でいいから、ちゃんと聞いてください」
「橘くん」
田中先生の声が、職員室に響いた。
他の教師たちの作業する手が止まる。
みんなが俺たちの方を見ていた。
その視線が、まるで針のように俺の皮膚を刺す。
「自分で何とかしなさい。それも成長のうちだ。大人になれば、もっと理不尽なことはたくさんある。今のうちに強くなっておくべきだ」
成長? 強くなる?
この人は何を言っているのだろう。
俺は毎日殴られて、馬鹿にされて、持ち物を壊されて——それでも我慢し続けている。
これ以上、どう強くなればいいのか。
俺は必死に反論した。
「いじめは本当にあるんです。先生、お願いします。助けてください」
でも田中先生の表情は変わらなかった。
それどころか、さらに冷たい目で俺を見下ろしている。
「橘くん、君は甘えすぎだ。もう会議の時間だ。この話はここまでにしよう」
俺の心が折れる音が聞こえたような気がした。
「あの...」
最後の抵抗として、俺は山田先生の方を見た。
でも山田先生は相変わらず書類から顔を上げようとしない。
他の教師たちも、みんな忙しそうに自分の仕事に没頭している。
誰も俺の話を聞こうとしない。
誰も俺を助けようとしない。
「分かりました」
俺は小さく呟いた。
もうどうでもいい。
期待した俺がバカだった。
「失礼します」
職員室を出る時、背中に教師たちの視線を感じた。
でもそれは同情の視線ではなく、厄介者が去ってホッとしているような、そんな冷たい視線だった。
廊下に出ると、夕日が西の窓から差し込んでいた。
オレンジ色の光が床に長い影を作っている。
もうすぐ日が沈む時間だった。
俺は力なく歩き始めた。
足音だけが廊下に響く。
どこに向かっているのか、自分でも分からない。
ただ歩いているだけだった。
田中先生の最後の言葉が、頭の中でリフレインしている。
「自分で何とかしなさい」
何とかする? どうやって?
誰にも相談できずに、一人で耐え続けてきた。
それでも状況は何一つ変わらない。
むしろ悪くなる一方だった。
階段を下りながら、俺は自分の人生を振り返った。
家では父親の暴力。学校ではいじめ。
そして大人たちは誰も助けてくれない。
俺の瞳から、最後の光が消えていくのを感じた。
もう誰も信じられない。
誰も助けてくれない。
誰も理解してくれない。
校舎の出口に向かいながら、俺は静かに決意した。
「もういいや」
独り言が夕暮れの廊下に響く。
「全部終わりにしよう」
その瞬間、俺の心の中で何かが完全に壊れた。
希望という名の、最後の糸が切れた音だった。
外に出ると、秋の冷たい風が頬を撫でていく。
空は茜色に染まり、街灯が一つ、また一つと点灯し始めていた。
俺はゆっくりと家に向かって歩き始める。
今日が最後の日になるかもしれない。
そう思いながら、俺は夕闇の中を歩いていった。