第11章
王都ルミナリアの大図書館は、静寂に包まれていた。
ここは王国最大の知識の宝庫で、天井まで届く巨大な書棚が幾重にも並んでいる。
古い羊皮紙の匂いとインクの香りが混じった、独特の雰囲気を醸し出していた。
高い天井からは柔らかな光が差し込み、埃の粒子が金色に光って舞っている。
所々に置かれた読書用のテーブルでは、学者や魔法使いたちが静かに研究に励んでいた。
俺とエリーナは、図書館の奥の魔法書コーナーにいた。
「魔力というのは感情と密接に関わっているの」
エリーナが開いた魔法理論書を指差しながら説明してくれている。
今日の彼女は深緑色のローブではなく、白いブラウスに紺色のロングスカートという、学者らしい格好をしていた。
銀髪は後ろで一つに結ばれており、知的な美しさがより際立って見える。
「感情と?」
俺は彼女の横に座って、魔法理論書を覗き込んだ。
古い文字で書かれた内容は難解だったが、エリーナの解説があれば理解できそうだった。
「そう。怒りは破壊魔法を、優しさは回復魔法を、恐怖は防御魔法を強化するの。逆に言えば、感情がこもっていない魔法は威力が半減してしまう」
彼女の細い指が、複雑な魔法陣の図を辿っていく。
その動作は優雅で、まるで芸術作品を鑑賞しているようだった。
「エリーナの解説は本当に分かりやすいね」
俺は素直に感心して言った。
「賢いし、教え方も上手いし……俺なんかには勿体ないくらいだ」
「そんなことないわ」
エリーナの頬が微かに赤らんだ。
緑色の瞳が恥ずかしそうに伏せられる。
「でも知識だけじゃダメなの。心がなければ魔法は真の力を発揮しない」
「心?」
「ええ。あなたの魔法を見ていると分かるの。仲間を守りたいという強い気持ちが込められている」
彼女の瞳に、特別な感情が宿っているのを俺は感じた。
いつもの知的で冷静な表情とは違う、何か温かくて優しい眼差し。
「俺の魔法は……そんな風に見えるのか?」
「ええ。とても美しい魔法よ。光に満ちていて、希望に満ちていて……」
彼女の声が少し掠れる。
「私はエルフだから、魔力の質を感じ取ることができるの。あなたの魔力は、今まで見た中で最も純粋で温かい」
二人の間に静寂が流れた。
図書館特有の静けさの中で、時計の針が時を刻む音だけが聞こえる。
しかしそれは気まずい沈黙ではなく、居心地の良い沈黙だった。
「エリーナ……」
俺は彼女の横顔を見つめた。
夕日が窓から差し込んで、彼女の銀髪を金色に染めている。
その美しさに、思わず息を呑んだ。
「俺は、君と話していると心が落ち着く」
「私も」
エリーナが振り返って微笑んだ。
その笑顔は、いつもの控えめなものではなく、心の奥からの温かい笑顔だった。
「あなたといると、知識だけじゃない何かを学べる気がするの」
「何か?」
「心の温かさ、かしら」
エリーナが魔法理論書を静かに閉じる。
そして俺の手に、自分の手をそっと重ねた。
「蒼真、あなたは特別な人よ」
彼女の手は温かく、柔らかかった。
細くて上品な指が、俺の手に触れている。
その感触に、俺の心臓が早鐘を打ち始めた。
「自分では気づいていないかもしれないけれど……あなたはとても優しくて、強くて、そして純粋な心を持っている」
「特別……」
俺は呟いた。特別だなんて、今まで誰からも言われたことがない。
むしろ逆だった。
邪魔者で、無価値で、消えてしまった方がいいと言われ続けてきた。
「俺は特別なんかじゃない。ただの……」
「違うわ」
エリーナが俺の言葉を遮った。
緑の瞳が真剣に俺を見つめている。
「私は嘘は言わない。あなたは本当に特別な人よ」
彼女の手が、俺の手をより強く握った。
「最初にあなたと出会った時から感じていたの。この人は違うって。普通の人が持っていない、何か大切なものを持っているって」
俺の胸が締め付けられる。
こんなにも真剣に、こんなにも温かく自分のことを語ってくれる人がいるなんて。
「エリーナ……」
「あなたといると、私も変わった気がするの。今まで私は知識だけを追い求めてきた。魔法の理論を理解し、より高度な術を身につけることだけが目標だった」
彼女の声に、微かな寂しさが混じる。
「でもあなたと出会って、知識よりも大切なものがあることを教えてもらった」
「大切なもの?」
「人を思いやる心。誰かのために自分を犠牲にする勇気。そして……」
エリーナが言葉を詰まらせる。
「愛情、かしら」
愛情。
その言葉が、俺の心に深く響いた。
愛情なんて、俺には縁のない言葉だと思っていた。
誰かを愛することも、誰かから愛されることも、不可能だと諦めていた。
「ありがとう、エリーナ」
俺は彼女の手を握り返した。
「君がいてくれて、本当によかった」
「どういたしまして」
エリーナの頬がより赤くなる。
でも今度は恥ずかしさよりも、喜びの色の方が強いように見えた。
夕日が図書館の大きな窓を照らし、二人の影を長く床に伸ばしていた。
古い本の匂いに包まれた静かな空間で、俺たちは手を握り合ったまま座っている。
「蒼真」
「ん?」
「これからも一緒に、いろんなことを学んでいきましょう」
「ああ」
俺は力強く頷いた。
「君となら、どんなことでも学べそうだ」
エリーナの笑顔が、夕日の光を受けてより美しく輝いた。
この瞬間、俺は初めて恋愛感情というものを理解した気がした。
胸の奥で燃える、温かくて切ない感情。
相手のことを大切に思い、一緒にいるだけで幸せを感じる気持ち。
エリーナは特別な人だ。
ただの仲間以上の、もっと大切な存在。
俺はまだその感情に名前をつけることはできなかったが、確実に何かが変わったことを感じていた。
図書館の時計が夕方を告げる鐘を鳴らす。
「そろそろ宿に帰りましょうか」
エリーナが立ち上がった。
俺も立ち上がって、魔法理論書を本棚に戻す。
「今日はありがとう。魔法のこと、よく分かった」
「こちらこそ。また今度、続きを教えてあげるわ」
「楽しみにしてる」
二人で図書館を後にする時、俺の心は今まで感じたことのない幸福感で満たされていた。
夕暮れの王都を歩きながら、俺たちは宿屋への道を急いだ。
アルフレッドとルナが、俺たちの帰りを待っているのだから。