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第1章

 玄関のドアが軋むような音を立てて開かれた瞬間、俺の背筋に冷たいものが走った。

 教科書を握る手に、じっとりと汗が滲む。


 重い足音が廊下に響く。

 一歩、また一歩。

 その音程から、今日の機嫌の悪さが手に取るように分かった。

 そして鼻を突く、あの馴染みすぎた匂い——安物の焼酎と、何日も洗っていないシャツの汗の匂い。


「おい、蒼真」


 低く掠れた声が俺の名前を呼ぶ。

 振り返りたくない。

 でも振り返らないと、もっと面倒なことになる。

 俺はゆっくりと身体の向きを変えた。


 そこに立っていたのは、橘健一郎——俺の父親だった。


 四十二歳になるはずの男は、実年齢よりもずっと老けて見えた。

 無精髭が頬全体を覆い、血走った目は虚ろに宙を彷徨っている。

 かつては真面目なサラリーマンだったらしいが、今の姿からはその面影を見つけることはできない。


 紺色の作業着は油汚れとシミだらけで、胸元は大きく開いている。

 右手には半分空になった缶ビール、左手は壁に突いて身体を支えていた。


 足元を見ると、いくつもの空き缶が転がっている。

 今日も朝から飲み続けていたのだろう。


 そして俺の視線は、部屋の隅に置かれたテレビ台の上を捉えた。

 母さんの遺影が、倒れたまま放置されている。


 額縁のガラスは割れ、写真の一部が見えなくなっていた。

 優しい笑顔を浮かべていた母さんの顔が、まるで俺たちの現状を見たくないとでも言うように、床の方を向いている。


「なんだその顔は」


 父親の声が、また一段と低くなった。俺は慌てて視線を戻す。


「別に、何でもありません」

「何でもない? ふざけんじゃねえ」


 父親の顔が醜く歪む。

 酒の匂いがより強くなった。


「お前、また学校で何かやらかしたんじゃねえのか」

「そんなこと、ありません」


 実際、今日も何もしていない。

 何もできなかった、と言う方が正しいかもしれない。

 いつものように教室の隅で小さくなって、ひたすら時間が過ぎるのを待っていただけだ。


 でも父親は信じない。信じるつもりもない。

 ただ八つ当たりの理由が欲しいだけなのだ。


「嘘つくんじゃねえ!」


 缶ビールを床に叩きつけると、中身が勢いよく飛び散った。

 茶色い液体が俺の教科書を汚していく。


「お前みたいなクズが、まともに学校生活送れるわけねえだろうが!」


 拳が空を切った。

 俺の左頬に、鈍い衝撃が走る。


 痛い、というよりも重い感覚だった。

 まるで鈍器で殴られたような、骨の奥まで響く鈍痛。

 口の中に、金属的な味が広がる。


「すみません」


 反射的に出た言葉だった。

 謝る理由なんてない。

 でも謝らないと、もっとひどいことになる。


「すみません、すみません」


 俺は頭を下げ続けた。床に散らばったビールの水たまりが、俺の視界を埋め尽くす。


「謝れば済むと思ってんのか!」


 今度は腹部に拳が叩き込まれた。息が詰まる。

 身体が自然と前に折れ曲がった。


「お前のせいで、美穂は死んだんだ」


 またその話だ。

 俺が生まれたせいで、母さんの身体が弱くなった。

 俺がいるせいで、医療費がかかった。

 俺がいるせいで、母さんは無理をして働いた。

 そして——俺がいるせいで、母さんは死んだ。


 父親の理屈はいつも同じだった。


 背中に拳が落ちる。肩甲骨のあたりに鈍い痛みが走った。

 でも父親は手加減を知っている。骨を折るほど強くは殴らない。

 傷跡が残らないよう、急所は巧妙に外している。


 慣れているのだ。


「クソが、なんで生きてんだよ、お前は」


 父親が吐き捨てるように呟いた。

 その言葉が、俺の胸に突き刺さる。


 でも不思議と、悲しくはなかった。

 怒りも湧いてこない。

 ただ、ああそうだな、と思うだけだった。


 父親はやがて疲れ果てたようにソファに崩れ落ちた。

 缶ビールを拾い上げ、残った中身を一気に飲み干す。


「消えろ」


 小さく呟かれた言葉を聞いて、俺は立ち上がった。


 教科書を拾い集める。

 ビールまみれになったページは、もうまともに読めない。

 でも別に構わない。

 どうせ明日の授業も、まともに受けられないのだから。


 自分の部屋に向かう途中、洗面台の鏡に映った自分の顔を見た。

 左頬が腫れ上がっている。唇の端から血が滲んでいた。

 

 橘蒼真、十五歳。


 身長は百六十センチほどで、同年代としては小柄な方だ。

 黒髪は伸び放題で前髪が目を隠している。

 痩せすぎた身体、青白い肌、そして何より——もう何の光も宿していない暗い瞳。

 

 鏡の中の俺は、まるで生きる屍のようだった。


 部屋に入り、ドアを静かに閉める。

 六畳の狭い空間は、俺の全世界だった。

 勉強机、本棚、ベッド。それだけの簡素な部屋。


 窓の外では、夕日が地平線に沈もうとしている。

 オレンジ色の光が、部屋の壁を染めていた。


 きっと今頃、同級生たちは友達と遊んでいるのだろう。

 部活に励んでいるかもしれない。

 家に帰れば温かい夕食が待っているのだろう。


 そんな当たり前の日常が、俺にはない。


 頬の痛みも、もう慣れてしまった。

 涙も、とっくに涸れ果てている。


 ベッドに横になり、天井を見つめる。

 白いクロスに、小さなシミがいくつか散らばっていた。

 雨漏りの跡だ。


 痛みも、悲しみも、怒りも——もう何も感じない。


 心の中は、ただ空虚なだけだった。

 まるで魂が抜け殻になってしまったように。

 生きている意味なんて、どこにもない。


 そんなことを考えながら、俺は目を閉じた。

 明日もまた、同じ日が始まるのだろう。

 何も変わらない、絶望的な日常が。


 外では夕日が完全に沈み、部屋は薄い闇に包まれていく。


 その闇の中で、俺はただ静かに息をしていた。

 生きているとも言えないような、そんな息を。

 

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