小さな救い、小さな家
ミアは、俺の手をそっと取ると、恐る恐る言った。
「ねえ、森を抜けたところに、おばあちゃんと住んでる家があるの。……来る?」
俺は答えられずに、しばらく沈黙していた。
視界のノイズはまだ消えていない。
けれど──今の俺を、誰かが必要としている。
それだけは、ぼんやりと伝わってきた。
「……案内してくれ」
ミアは嬉しそうに頷き、先に立って歩き出す。
風に揺れる髪。
ドレスの裾から覗く傷だらけの足首。
それでも彼女の足取りは、思ったよりもしっかりとしていた。
俺もその後を静かに追う。
森の中は、先ほどまでの開けた草原と違い、湿り気のある静寂が満ちていた。
枝葉の影が、斑に地面を染める。
けれど、光と影の境界は、ノイズに飲まれて曖昧だ。
空は変わらず完璧な蒼のままなのに、木々の合間を縫って差し込む光は、どこか現実味に欠ける。
柔らかな風が頬をかすめ、視界のノイズをほんのわずかだけ揺らした。
(視界が……まだ、ブレてる)
目を細めても、チラつく粒子は消えない。
ただ、さっきのように暴走する気配はなかった。
ミアは時おり振り返って、俺の様子を確かめてくれる。
その表情に、不思議と警戒の色はない。
「……あのさ」
俺の声に、ミアがくるりと振り返る。小さな体が風に揺れて、白いドレスの裾がふわりと踊った。
「……あのさ、さっきの場所。なんで、あんな危ないとこにいたんだ?」
俺が尋ねると、ミアはちょっと困ったように笑って、視線を伏せた。
「……おばあちゃんのために、薬草を採りに行ってたの」
「薬草?」
「うん。“ユールの葉”っていうのが必要でね。
森の奥のほうにしか生えてないんだけど……それ、喉の咳に効くんだって」
「おばあさん、病気なのか?」
ミアは、少しだけ寂しげな顔をして頷いた。
「昔、魔獣に襲われたことがあって、それからずっと咳が止まらなくて。
寒い日とか、夜になると特にひどくなるの。薬草を煎じてあげると、少し楽になるから……」
「……だから一人で森に?」
「ほんとはダメなんだけどね。でも、どうしても今日中に欲しかったから……」
そう言って、ミアは小さく笑った。
その笑顔が、どこか痛々しくて、俺は胸の奥に微かな棘を感じた。
(あんな危険な場所に、理由もなくいるはずないか……)
「……それで、あの魔獣に出くわしたのか」
「うん。見つかったとき、すぐに逃げようとしたんだけど、足をくじいちゃって……
もうダメだって思ったとき、あなたが──」
ミアの瞳が、そっと俺を見上げる。
「来てくれたんだよ。光みたいに」
「……」
思わず目をそらした。
そんな大層な存在じゃない。俺は助けるつもりなんて、最初は無かったんだ……。
でも──
この世界で、誰かに必要とされて、
誰かを守る“結果”になったことは、変えようのない事実だった。
「……薬草、持って帰れたのか?」
「うん。少しだけど……ポーチに入ってる。大丈夫、まだ潰れてないよ」
そう言って、ミアはそっと腰の革袋を撫でた。
それを見て、俺もようやく安堵した。
「ここ、もうすぐだよ」
ミアが指さした先に木造の家がぽつんと建っていた。
苔むした屋根に、傾いた煙突。崩れかけの柵の奥で、風に揺れる洗濯物がはためいている。
誰かが“生きている”気配が、そこにはあった。