俺の名は
俺はゆっくりと視線を巡らせた。
空はまだ、深く澄んだ青をたたえている。
その彼方、地平線の向こうに、黒い塔が不気味なほど静かにそびえていた。
あまりに遠く、あまりに異質で、絵に描いた風景のように現実感が薄い。
だが、それでも確かに“在る”。
そして──その景色の上には、今もなお、無数のノイズが漂っていた。
白と黒の粒子が、風の流れにも影響されず、視界の中を淡く流れていく。
この異世界の静けさに、ただひとつ抗うように。
「さっきの、それ……どうやって出したの?」
横から、小さな声が届いた。
少女の瞳がこちらを見上げている。
真剣で、少しだけ怯えながら、それでもまっすぐな問い。
……答えられなかった。
正直、自分でもどうしたのか分からない。
出そうとして出したわけじゃない。ただ、あの瞬間──
怒りと焦りと、助けたくなんてなかったのに、目を閉じて目の前の現実から逃げ出そうとした。
ただ、それだけだった。
「……わからない。勝手に……出た」
「えっ……すごい。意識しなくても出るなんて……!」
少女の声は、驚きと尊敬が混ざっていた。
でも──それは違う。
「いや、そうじゃなくて……」
こんなもの、都合のいい“力”なんかじゃない。
俺はこの視界に、長いこと苦しめられてきた。
ただ景色を見ているだけで頭が痛み、人の顔の輪郭すら曖昧に滲んでいた。
その苦しみは、今もなお視界の中で、粒子のざわめきとなって残っている。
「あなたの名前、聞いてもいい?」
唐突に、少女が尋ねてきた。
屈託のない声だった。警戒も遠慮もなく、ただ純粋に“知りたい”という眼差し。
(……名乗るの、久しぶりだな)
現実の世界では、いつも目を逸らしていた。
他人の顔が怖かった。
ノイズが邪魔して、表情が歪んで見えることも多かったから。
でも、今は。
「霧野……朔也」
「キリノ、サクヤ……。うん、いい名前!」
少女はぱっと顔を綻ばせ、ふわりとお辞儀した。
「わたしは、ミア・ルチェリア。ミアって呼んでね!」
──その瞬間。
この異世界で、俺は初めて“名前”を呼ばれた。
ただの異物でも、得体の知れない存在でもない。
“誰か”として、そこに在ることを許された気がした。
そして、ほんのわずかに──
視界を漂うノイズが、やさしく揺れたような気がした。




