映画という"嘘"にしかできないラスト ー「ニューヨーク1997」ー
アマゾンプライムに「ニューヨーク1997」がきていたので観ました。私が偏愛する映画です。
「ニューヨーク1997」の監督、ジョン・カーペンターはB級映画の巨匠と呼ばれています。裏スピルバーグとでもいった存在で、表のB級映画の巨匠がスピルバーグなら、裏の巨匠はジョン・カーペンターといった感じです。私は年を重ねるにつれて、スピルバーグの映画が見られなくなり、その反対にジョン・カーペンターが好きになりました。
ジョン・カーペンターの作品と言えばなんといっても「遊星からの物体X」が有名です。これは、閉ざされた南極基地でのエイリアンと人間の闘いを描いた作品です。「遊星からの物体X」は作品全体のクオリティが高い文句なしの名作なので、世評も高いです。
それに比べると「ニューヨーク1997」はカルト的な人気がある作品で、「遊星からの物体X」に比べると認知度は低いです。実際に観ると、今の映画に馴れた人達からは「なんだかしょぼい昔のSF作品」にしか感じられないでしょう。作品全体のクオリティは「遊星からの物体X」に比べれば明らかに低いです。
最初に私が「偏愛」と書いたのはそういう意味なわけです。つまり、必ずしも万人が称賛できる名作ではないが、自分は好きな作品だ、という事です。
私がこの作品が特に好きなのは、ラストのシーンがとても印象的だからです。
ラストシーンが印象的、という意味で私が偏愛している作品は、「キッズ・リターン」と「ニューヨーク1997」の2つという事になります。どちらも映画全体のクオリティは、それぞれの監督(北野武・ジョン・カーペンター)の代表作に劣りますが、これらの作品のラストはそれぞれの監督にしかできない個性が刻印されています。
(昔書いた「キッズ・リターン」についての文章 http://yamadahifumi.blog27.fc2.com/blog-entry-1943.html)
そしてまたこの個性の刻印こそが創作というものの面白さであると私は思います。それでは「ニューヨーク1997」のラストについて自分なりに考えてみたいと思います。
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【1997年、ニューヨークのマンハッタン島は巨大監獄に改造され、多くの囚人が放たれていた。そこにハイジャックされた大統領専用機が墜落し、大統領はギャングに捕らえられる。政府は強盗の罪で収監予定だった特殊部隊出身のスネークに大統領救出を命令する。】
(サイト 「Filmarks」より
https://filmarks.com/movies/2086)
短いあらすじを引用してみました。この作品はスネークというダークヒーローが活躍する冒険活劇というスタイルを取っています。
この作品の一つのキーは、主人公のスネークがダークヒーローだという点です。彼はかつて銀行を襲った悪党ですが、自分なりの正義を貫いて生きています。また、この人物は徹頭徹尾、反骨心を持った人間として描かれています。
彼が、無法地帯と化したニューヨークに潜入します。大統領は、ニューヨークに不時着して、ギャングに捕らわれています。大統領を助け出すのがミッションです。
大統領と共に重要なのが、カセットテープです。このテープは、何やら「核融合と関係する」というほのめかしをされています。
詳しくは語られませんが、「ニューヨーク1997」の世界では第三次世界大戦が行われている最中であり、それを終わらせるには「大統領」と「核融合に関しての情報が記されたテープ」の二つが必要となります。世界平和の達成には「大統領」と「カセットテープ」の二つが必要です。
このあたりの設定はアバウトですがそれほど深く考えなくても良いでしょう。とにかくスネークは大統領とテープの二つを取り戻して、帰還しなければなりません。
私が言及したいのはラストなので話を飛ばしていきましょう。さて、紆余曲折あって、スネークは大統領とカセットテープの二つを持って、ニューヨークの外の、彼をニューヨークの中に向かわせた軍隊の元に戻ってきます。
ミッションを達成する過程で何人かの人間が死んでいます。一人は、スネークを助けてくれた陽気なタクシー運転手。もう一人は、スネークとは敵対しつつも協力する関係となったハロルド。それと、ハロルドの愛人のマギー。三人はニューヨークから脱出しようとする過程で死んでしまいます。
作品の中で、悪党の役を振り当てられたのはデュークという黒人のギャングの長です。もっとも、ジョン・カーペンター特有の描き方というか、デュークは憎まれるべき悪の権化という感じでは描かれていません。ジョン・カーペンターはいつもドライな描き方をしていますが、デュークはデュークで自分の生存衝動とか、欲望に従って生きているだけで、今のエンタメ作品であるような「悪者らしい悪者」という形では描かれない。
タクシー運転手、ハロルド、マギーの三人を失いつつ、スネークはニューヨークから脱出します。デュークは、デュークに虐待されていた大統領が最後に手ずからマシンガンで撃ち殺しました。すべてのミッションは終了し、檻の外で最後の一幕が描かれます。
スネークは命が助かりほっとしています。助かった大統領は、早速、テレビに映る用意をします。このあたりもよくわからないですが、大統領がテレビに映り、テープに記された核融合に関する情報を放送で流せば、第三次世界大戦は終結し、平和が達成されるようです。
大統領はテレビに出るためにメイクをしてもらっています。そこにスネークが近づきます。スネークに気づいた大統領は、命の恩人であるスネークを見つけて声をかけます。
「君には感謝している。ほしいものなら何でも言ってくれ」と大統領は言います。スネークは「少しだけ時間をくれ」と返します。そうしてスネークは次のように問いかけます。
「あなたを助ける過程で何人の人間が犠牲になった。彼らについてどう思う?」
大統領は、メイクをしてもらいつつ、横を向きながら答えます。
「彼らには感謝している。国家の為の尊い犠牲だった」
大統領はそっけない答えを返します。大統領はテレビに映る事に気をかけていて、スネークの言葉にはいい加減に答えるばかりです。
スネークは一瞬不満そうな表情を見せますが、何も言わずにその場を去ります。
スネークが歩いてくと、スネークをニューヨークに送り出した警察本部長に声をかけられます。スネークはそっけない返答をして去ります。
大統領のテレビ放映が始まりました。大統領は、世界全体に向けて、アメリカが平和を望んでいる事を伝えます。大統領はカセットテープをテープレコーダーに入れて、再生ボタンを押しました。ですがそこから流れてきたのは核融合に関する情報ではなく、陽気なジャズミュージックでした。大統領は虚を突かれた表情をします。カメラは一転して、暗がりのスネークへと移ります。
スネークは暗がりを一人で歩いています。スネークは、密かにテープを入れ替えていたのでした。スネークは本物の方のテープをぐしゃぐしゃにして、放り捨てます。彼はそのまま歩いていきます。メインミュージックが流れ、作品は幕を閉じます。
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私はこの作品のラストが好きです。また、このラストはジョン・カーペンターという異才にしか決してできないラストであろうと思います。
ここでスネークが体現している事は何でしょうか。それは、アマゾンレビュアーの一人が書いていたように徹底的な反骨精神そのものでしょう。ですがこの問題をもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。
私はこのラストは、おおよそ、映画というフィクションだからこそ許されるラストであると思います。これは映画という"嘘"だからこそ表現されるのが許される、そうしたものでしょう。
また、それ故に、この作品は例えば、私が前に論じた「シビル・ウォー アメリカ最後の日」の監督のアレックス・ガーランドや、日本の是枝監督のような、生真面目なリベラルな監督が描くような"正しい"映画を一歩乗り越えていると思います。
それはどういう事かと言えば、スネークのした選択は、確実に第三次世界大戦を続行させ、世界の平和を台無しにしてしまうものだからです。現実にスネークがこうした選択をすれば、スネークに対する非難がやまないのは当然でしょう。
ここではスネークは"正しい"選択をしていません。それと、この選択がスネークというキャラクターにとって自然であるように、スネークは犯罪歴のあるダークヒーローという形式を取っています。この選択はスネークがダークヒーローであるという事と、一致した形式となっています。
スネークのしたのは"正しい"選択ではありません。ですが、スネークの選択は一種の思想性を表しています。私はそう考えます。
スネークは大統領に聞きました。「あなたを助ける過程で何人の人間が犠牲になった。彼らについてどう思う?」 それについて大統領はそっけない答えしか返せませんでした。
ここで天秤にかけられているのは、「数人の命」と「世界平和」です。数の論理から言えば、数十億人いる「世界平和」の方が大事でしょう。
ですが、スネークの選択はそれとは違いました。スネークはおそらく、大統領を救うために犠牲になった数人の人間の生命、それすらを尊重できないようなそんな世界ならいらない、消えてしまえ、そう思ったのでしょう。
もちろん、世界にある数多くの人々は、犠牲になった何人かを蔑ろにしたわけではありません。蔑ろにしたのは大統領個人です。
ただ、ここでは「アメリカ大統領ー第三次世界大戦ー核融合ー世界平和」といったマクロなものが、そのマクロなものを救い出すために犠牲になったミクロなものと、象徴的に対比されています。
マクロなものを代表するアメリカ大統領は、彼の為に犠牲になった少数の人間を何とも思いませんでした。彼はテレビ出演する際に自分がどう映るか、そればかりを気にしていました。
大統領は大きな使命を持って、世界に向けてテレビでメッセージを述べました。彼がいるのはマクロな領域であり、彼が意識しているのは、テレビの奥の無数の人々や、他国の首脳達です。
私は政治関係の本を読んで同じような感覚を受けた事があります。政治家は、大きな事柄ばかりを取り扱います。経済、平和、戦争、国家、社会…こうした大きなものばかり取り扱っていれば、個人の微細な心情を描いた「文学」のようなものは蔑ろにされてある意味当然と言えましょう。
というか、そういうマクロなものばかりと毎日触れ合っていると、細かな心情を描いた作品というのはバカバカしいおままごとにしか見えないでしょう。
ですが、そこには何か忘れているものがありはしないでしょうか。私は「ニューヨーク1997」のラストで描かれたものは、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で表した思想と近いと思います。
ドストエフスキーがイワンの口を借りて提出した問いは「一人の幼子を犠牲にして作られた天の国があったとして、そんな世界に果たして価値はあるか?」というものでした。ごく少数の個人を犠牲にして、得られた大勢の救済。それは数の論理で解決できる問題でしょうか?
政治というのは、簡単に言えば少数の個人を犠牲にしていかに大勢の人間を救うのか?という術です。これには疑いはありません。例えば、少数の個人が死ぬとしても大勢の人間が救われる薬があるとすれば、政治家はそれを投与すべく指示しなければならない。
それは私は政治家として正しい行為だと思います。そうしなければならないと思います。ですが、全ては「政治」でかたがつくのでしょうか。仮に、自分自身がその死ななければならない少数に入るとしたら、その時、我々は政治の論理、数の論理で納得できるでしょうか?
もちろん、この答えに正解はありません。ですが、映画という"嘘"においては正解ではない答えを出す事ができます。
フィクションという嘘は間違った答えを出す事によって人々に問いを提出する事ができます。私はジョン・カーペンターが、そしてスネークが選んだ最後の答えはまさにそのような問いに見えます。
それは「ごく少数の人間を犠牲にして、その犠牲に対して尊敬の感情を抱けないようなそんな世界は果たして価値があるのか?」という事です。
スネークはそんな世界にノーを突きつけました。スネークが世界を破滅に陥れるのは、大統領がほんの一瞬だけ、彼を助ける為に死んだ少数の人間を蔑ろにする態度を見せたからです。大統領が見ていたのはマクロなものであり、彼はミクロな個人の方を一切見ていませんでした。ですがスネークにとってはそれだけで、彼が世界を捨てるのに十分な理由でした。
この短い一瞬にはすべてが込められていたと私は思います。世界は本当は、ごく小さな個人の集まりでできているにも関わらず、我々は、我々が小さな個人である事をたやすく忘れます。私は現代の人々がインターネットで吐き出している「個人の感想や愚痴」といったものが、私がここで言わんとする個人に該当するものとは思っていません。
むしろ個人とは、そうした世界の表舞台とは違う暗がりで、たった一人で孤独に歩いている存在なのです。テープレコーダーを切り裂いて闇の中に捨てるスネークのように。
世界は本来はそうした小さな個人の集積でできていますが、その集積それ自体が一つの存在に見える時、その個別性は消失します。大統領はテレビを通じて世界平和を実現する事を願っていた真面目な人物です。
しかし彼が、彼を助ける為に犠牲になった幾人の人間に敬意を払わなかったというただそれだけの理由でこの世界は、スネークというダークヒーローによって捨てられました。というのは、「カラマーゾフの兄弟」のイワンが言ったように、ごく少数の人間を犠牲にして建てられた正しい世界などというのは、そもそも存在する価値がないからです。
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もちろん、こうした事柄というのはあくまでも理想論です。現実には、少数の人間を犠牲にして多くの人間を助けなければならない例は無数にあるでしょう。
(例えば交通システムは、毎年、多くの人間が犠牲になっているにも関わらずそれをやめようという者はいません。文明は少数の人間の犠牲の元に成り立っています)
ですが、フィクションという"嘘"は間違った解答を出す事によって、人々に大きな問いを投げかける事ができます。スネークの出した答えは正しいものではありませんが、それは正しくないがゆえに、むしろあまりにも素早く正しい答えを出す我々の存在に大きな疑問を投げかけるものになっているのではないでしょうか。私は「ニューヨーク1997」のラストをそんな風に捉えました。