第8話 第二次世界大戦 バグラチオン作戦、ワルシャワ蜂起
8話目です。よろしくお願いします。
第8話 第二次世界大戦 バグラチオン作戦、ワルシャワ蜂起
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ノルマンディー上陸作戦は、空挺部隊が苦戦しながら、主要な橋や砲台を占拠し、5箇所に約10万の兵が上陸する。
オマハ・ビーチに上陸したアメリカ軍が大損害を被るも、上陸は順調に進み、一週間で50万の兵が上陸に成功する。
1万を超える連合軍の航空機(アメリカやイギリスやカナダだけでなく、イギリスに亡命していたポーランド人、オランダ人、ベルギー人、ノルウェー人、チェコ人などの搭乗員もいた)が爆撃、海上からは艦隊の艦砲射撃の支援で、ドイツ軍は有効な反撃が出来ない。
ロンメル元帥が自宅で連絡を受けたのが、6日の10時ごろ。どうにか西部方面軍司令部まで到着したのは、10日だった。
その後、連合軍による要地であるコタンタン半島とシェルブール港の奪取、及びカーン市の解放で激戦が起こるが、前者は6月末まで、後者も7月末には制圧に連合軍は成功する。
この間に、ルントシュテット元帥は勝手な撤退をしたため、ヒトラーの逆鱗に触れ、西部方面軍司令官を解任され、ロンメルは偵察車で前線視察中に、空からスピットファイアの機銃掃射を受け重傷を負い、共に西側連合軍との戦いから外れている。
そして、遂に8月25日。連合軍はパリの解放を果たす。
このノルマンディー上陸作戦を含む北フランスの解放作戦は「オーヴァーロード作戦」と呼ばれるが、同年の6月に東部戦線でも大きな動きが起こる。
1944年6月22日。
1941年6月22日、ドイツ軍のソ連侵攻「バルバロッサ作戦」から、ちょうど3年後。
ソ連軍は「バグラチオン作戦」を開始した。
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ほぼこの作戦前にウクライナの大半をソ連軍は「回復」している。
だが、その北のベラルーシやバルト三国(北からエストニア、ラトビア、リトアニア)はドイツ軍の占領下だ。
レニングラードは1944年1月27日に、約900日間のドイツ軍の攻囲から解放されている。
諸説あるが、レニングラード市民の死者は約95万人。その97%が餓死である。
次の目標はベラルーシの解放。特にその首都のミンスクの制圧が主目的の作戦だが、ベラルーシには未だ50万のドイツ軍の中央軍集団が残っている。
それよりベラルーシという特殊な国土がドイツ軍に利していた。
ベラルーシは大体が平野だが、河川や沼沢が多く、更に森林が多い(凡そ国土の4割以上)。
戦車軍団が進撃するには向かない地だ。
そこでソ連軍も欺瞞作戦を展開する。
ウクライナ西部から北上して、ポーランドを通過し、バルト海まで達し、ベラルーシのドイツ軍を孤軍にする、と。
実際にソ連軍はウクライナの西部方面に兵を移動させる。
ノルマンディー上陸作戦のように、このバグラチオン作戦も欺瞞作戦から始まった。
また、ベラルーシは赤軍パルチザンの活発な地域で、作戦前にドイツ軍の後方の輸送路や通信網や鉄道網の破壊が頻発する。
マンシュタイン元帥は既に居ない。
巧妙な撤退戦術でソ連軍に出血を強いていたが、異常なまでに拠点死守を命ずるヒトラーと対立し、「病気療養」の名の元、既に1944年3月に予備役に追いやられている。
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22日。ベラルーシのドイツ軍は圧倒的なソ連空軍の猛爆撃を受け、自走式多連装ロケット砲(所謂カチューシャ)からロケット弾が降り注がれる。
このカチューシャは独特の形状とその発射音から、ドイツ軍兵士たちが「スターリンのオルガン」と恐れた兵器だ。
ベラルーシを迂回ではなく、正面から平押しで、戦車部隊と歩兵が突撃する。
各戦線から、縦隊に進撃し、後続の部隊が次々に、この縦隊に続く。
航空部隊がドイツ軍陣地に対して、移動中のドイツ軍に対して、徹底的な攻撃を加えるので、ソ連軍の長い縦隊は側面に対する分断攻撃をされず、次々に包囲殲滅を完成させて行く。
一部の沼沢の多い地域では、木材を並べてその上を戦車部隊が通る離れ業まで行う。
ミンスクは7月4日にはソ連軍が解放した。
ソ連軍のこの縦深攻撃は5週間で700キロも進撃し、リトアニアの首都ヴィリニュスも落とし、ラトビアの首都リガに迫り、7月30日にはポーランドの首都ワルシャワまで10キロの地点にまで達した。
ドイツ中央軍集団は完膚無きまで叩きのめされ、これ以降東西から迫る連合軍に、ドイツ軍は絶望的な戦いを強いられていく。
ワルシャワから、ルドルフが配属されたウッチまでは南西へ約130キロ。
基本的に徴兵されてから、訓練と事務作業がメインだったルドルフは戦闘のために部隊に入れられてしまう。
しかも彼はナチス党員。入れられた部隊が、武装親衛隊(Waffen-SS)であった。
武装親衛隊とはナチス・ドイツの準軍事組織である。
戦局が大きくなると、ほとんどドイツ国防軍(Wahrmacht)と変わらない役割を果たすが、所謂戦争犯罪に大きくかかわった組織である。
独ソ戦の開始時。
主にこの武装親衛隊からアインザッツグルッペン(Einsatzgruppen、出撃グループ群)が組織され、ユダヤ人やロマ人や敵性分子を虐殺する任務に就いていた。
ドイツの敗色が濃くなると、この武装親衛隊に属する者たちは、自分たちが国防軍と違い、「犯罪組織」と連合軍から見做されている事を感じ、それぞれに覚悟した行動を起こして行く。
例えば、敵兵を多くでも道ずれにして戦死する事などだが、少なからず逃亡兵も出てくる。
ルドルフは後者であった。
虐殺の有無に関わらず、ナチス党員でもあるのだから、捕虜となれば、重罪は極めて高い。
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31日。ワルシャワ手前でソ連軍は進撃を停止する。
補給の限界と、流石に撤退し軍を再編させたドイツ軍が、強固な阻止線を形成したのが理由である。
以前より、ソ連のラジオ放送はワルシャワの蜂起を呼びかけていた。
ワルシャワ内の「ポーランド国内軍」は、8月1日に決起し、それに合わせソ連軍が進撃してくるものと思っていた。
このポーランド国内軍は、ロンドンを拠点とした「ポーランド亡命政府」の指導下の組織である。
要は西側陣営である。
8月1日17時。
ポーランド国内軍約5万は蜂起を開始する。
国内軍に対するワルシャワでまともに戦闘が可能なドイツ軍は5千に満たない。
だが、国内軍はほとんど武器がないため、ドイツ軍の兵舎の占領と武器の奪取を狙う。
連絡を受けたヒトラーは、ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Luitpold Himmler、1900年生まれ)親衛隊全国指導者に、親衛隊での鎮圧を命ずる。
前月の7月20日に国防軍のヒトラー暗殺未遂事件が起こったので、ヒトラーは完全に国防軍を信用しなくなった。
陸軍参謀総長のグデーリアン上級大将が、軍での速やかな鎮圧を提案したが拒否している。
近隣から集められた武装親衛隊が鎮圧、というより略奪と破壊をワルシャワにもたらす。
10月2日の停戦合意時。
ワルシャワ内の建物は7割がた破壊され、国内軍は約2万もの死者を出し、民間人に至っては約18万人の犠牲者が出た。
ヴィスワ川の東のソ連軍は何の動きもせず傍観し、翌1945年1月に廃墟のワルシャワを占領する。
ソ連軍はこの間にルーマニア、ハンガリー、ブルガリアなどの枢軸国の切り崩しに集中していた。
ウッチも同年1月にソ連軍に占領されたが、既にルドルフは逃亡していて、故郷のヘルツォーゲンアウラハに戻っていた。
第8話 第二次世界大戦 バグラチオン作戦、ワルシャワ蜂起 了
ワルシャワゲットー蜂起は1943年の4月から5月です。
ワルシャワゲットー蜂起とは、強制収容所への移送に対するユダヤ人の抵抗です。
映画「戦場のピアニスト」の主人公はこの両蜂起に遭い生き延びたんですね。
あっ、この後書きで音楽の話ばっかしている!
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