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第3話 ベルリンオリンピック

3話目です。よろしくお願いします。

第3話 ベルリンオリンピック



 既にルドルフはフリードル・シュトラッサー(Friedl Strasser、1905年生まれ)という女性と1928年に結婚をしていて、翌1929年には長男のアルミン(Armin)が生まれた。

 フリードルは典型的な保守的な女性であった。


 つまり、当時の基準で好ましいタイプ。

 夫に従順で、出しゃばらず、貞淑で大人しい性格。

 陽気で外交的なルドルフと正反対なので、多分気が合ったのだろう。


 ダスラー兄弟は工場の隣の家で、シェアハウスのように共に住んでいるが、アドルフは特にこの静かな兄嫁を何とも思っていなかった。


 アドルフは1932年から33年にかけて、ピルマーゼンス(Pirmasens、ラインラント=プファルツ州にある靴の生産で有名な街)で靴職人としての本格的な教育を受けていた。

 その当地で知り合ったのか。34年にケーテ(Käthe)こと、カタリーナ・マルツ(Katharina Martz)という、この年に17歳になる女性を妻として家に迎える。


 ケーテはフリードルと真逆のタイプ。

 明るく、ハキハキとして、自分の意見をしっかり言う性格。

 慎重で内向的なアドルフと正反対なので、多分気が合ったのだろう。


 兄弟の家は賑やかになるか、と思われたが、ルドルフはこの気の強いケーテを嫌い、また大人しいフリードルもケーテとはそりが合わなかった。



 ルドルフは忙しい。

 彼は政権を握ったNSDAPが、ドイツを経済復興させ、スポーツ大国にするものだと思っていたらしい。


 事実ナチスは教育制度も支配下に治めて行き、教育の一環であるスポーツも組織化していく。

 つまり、ルドルフはナチスのスポーツ担当の責任者に会い、体育やスポーツには自分たちのダスラー製の靴を使って欲しい、と頼み込んでいたのだ。


 これが兄弟が共にナチス党員になった理由である。

 同じ党員なら話が早い。ただそれだけのビジネスの理由で、彼らはNSDAPに入党したのだ。


 そして、ルドルフの見立て通り、1936年の夏季オリンピックに向けて、大規模な空前の演出の準備が始まる。

 さて、この演出は世界中の人々にスポーツの祭典を楽しませるものだったのか、単に国威発揚のプロパガンダだったのか……。


 オリンピックは1992年まで、冬季と夏季は同年に行なわれていて、1936年の冬季オリンピックもドイツのガルミッシュ=パルテンキルヒェンで、2月に既に開催済みである。


 稲田悦子(いなだえつこ)(1924年~2003年没)という、12歳になったばかりのフィギュアスケート選手に対して、観戦していたヒトラーは、競技を終えた彼女と笑顔で固く握手をしたが、後に「あの子供は何をしに来たんだ?」と側近に述べた逸話がある。


 1936年7月。開会が近くなり、世界中の選手団がベルリンに集まる中、普段は工場で靴の製作をしているアドルフは、多くの陸上競技用のシューズと調整具を車に乗せて、ベルリンへと当時建設途上のアウトバーンを主に使用して出発した。


 この年の3月にはアドルフとケーテの長男ホルスト(Horst)が生まれている。

 赤子を抱くケーテがアドルフを後押しした。


「アディ、あなたも工場に篭ってないで、セールスをやってみたら?」


「うん、そうだな。国内だけでなく、国外にも目を向ければ、売り上げは飛躍的になる」


 実は、これが後に意外な結果をもたらす。



「どうです。このシューズを履いてみてください。もちろん、普段の練習だけでもいいですが、もし気に入ったら、どうか競技で使用してみてください」


 普段、口数が少ないアドルフは、何と各国の陸上選手に対して、自ら自社のシューズのプレゼンに回っている。

 もっとも言葉が通じないので、身振り手振りでの説明が主だが。

 アドルフがベルリンの選手村や練習場に入れたのも、やはりナチス党員の特権か。


「う~ん。悪くはないけど、やっぱり使い慣れてる方がいいですね。あなたの言う通り練習用には使いますよ」


 大半は実際の競技での使用を断られたが、ある選手がダスラー製のシューズを高評価してやまない。


「すごいですよ! このシューズ! えぇと……、ヘァ・ダスラーでしたね?」


 英語と片言のドイツ語で反応した選手に、アドルフは笑顔でやはり片言の英語で応える。


「アディと言われています。ミスター・オーエンス」


「じゃあ、私もジェシーと呼んでください。競技で使います。アディ!」


 ジェシー・オーエンスこと、ジェームズ・クリーブランド・オーエンス(James Cleveland "Jesse" Owens、1913年~1980年没)。オリンピックで初の4冠(4つの金メダル)を獲得した選手。

 このアフリカ系アメリカ人のアスリートは、4冠をダスラー製のシューズを履いて達成したのだ。



 100mと200mと4x100mリレーでは、簡単に金メダルを獲得したオーエンスだったが、走り幅跳びでは、実は苦戦していた。

 単純に速く走るのと、速く走った速度を前方へ跳躍する、という競技の質が、普段のシューズと異なるものを履いて出てしまった影響か。


 予選時にオーエンスは最初の2回の跳躍を失敗し、あわや決勝進出を逃すところだった。

 その時、ある選手がオーエンスにアドバイスを送る。


「ミスター・オーエンス。それだけ飛べるのだから、踏みきり位置を少し後方にしても大丈夫じゃないかね?」


 アドバイスしたのは、ルッツ・ロングこと、カール・ルートヴィヒ・ヘルマン・ロング(Carl Ludwig Hermann „Luz“ Long、1913年~1943没)。

 ドイツの陸上選手における走り幅跳びの英雄である。


 そして、走り幅跳びの結果は、1位がジェシー・オーエンス。2位がルッツ・ロング。3位が田島(たじま)直人(なおと)(1912年~1990年没)であった。


 尚、田島直人は三段跳びで金メダルを獲得している。


 こうしてベルリンオリンピックは1936年8月16日に閉幕する。


 ダスラー製のシューズは、このオリンピックの影響で需要が高まり、ヘルツォーゲンアウラハ駅に近い本工場とは別に、アウラハ川の対岸のヴュルツブルガー通り(Würzburger Straße)に第2工場を1938年に建設する。


 1939年9月1日。秋の気配が漂うヨーロッパ。

 ドイツ軍はポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まる。


第3話 ベルリンオリンピック 了

アディとケーテが結婚した1934年。

アディ34歳。ケーテ17歳。


えっ……!



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【短編、その他】

【春夏秋冬の公式企画集】

【大海の騎兵隊(本編と外伝)】

【江戸怪奇譚集】
― 新着の感想 ―
[一言] この規模の段階だと海外進出ではなく、ドイツ国内のシェアを奪いに行くのが1番の目的になることを考えたら、国威発揚のためのスポーツ大会や体育で、シューズを履いてもらうっていうのは、良い選択だなぁ…
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