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ルドルフとアドルフ  作者: 大野 錦


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第17話 2つの会社、ダスラー家から離れる

17話目です。よろしくお願いします。

第17話 2つの会社、ダスラー家から離れる



 アメリカ人のフィル・ナイト(Philip Hampson Knight、1938年生まれ)。彼はオレゴン大学時代に中距離走者として鳴らしていた。


 後に、彼はスタンフォードビジネススクールに入り、興味深い論文を発表する。


「日本製のスポーツシューズは、日本製のカメラがドイツ製のカメラにした事を、ドイツ製のスポーツシューズにする事が出来のるか?」


 1962年。秋深まる日本の11月。

 彼は以前より興味を持っていた神戸に向かう。

 目的は鬼塚商会(後のアシックス)のランニングシューズであるオニツカタイガー。

 それを手に取ったナイトは、自身の著した論文に確信を持つ。


 代表の鬼塚喜八郎と直ぐに取引をしたナイトは、オニツカタイガーのアメリカ西部での販売権を確保した。


 1964年1月25日。

 ブルー・リボン・スポーツ社というオニツカタイガーの販売代理店が設立される。


 同年の10月10日から24日の秋に開催された東京オリンピックでは、日本の選手たちにオニツカタイガーが配布されていたのは言うまでも無い。

 

 ナイトと共同創設者として、ビル・バウワーマン(William Jay Bowerman、1911年~1999年没)がいた。

 彼はナイトが在籍していたオレゴン大学の陸上部のヘッドコーチを長く務めていたが、生まれ年から分かるように第二次世界大戦の従軍経験を持っている。

 大戦中はイタリア戦線に配属され終戦を迎えている。


 また、1972年のミュンヘンオリンピックでは、アメリカ陸上チームのコーチをしていたが、宿舎を襲われ辛うじて脱出に成功したイスラエル人選手たちを、自分たちの宿舎で保護した。

 

 さて、こうして設立されたブルー・リボン・スポーツ社は、シューズの製作は鬼塚商会に任せ、売り上げはマーケティングに全振り。


 プーマとアディダス。

 その前のダスラー兄弟靴工場からの長い歴史を一気に短縮する行為である。


 ブルー・リボン・スポーツ社のある社員が、ギリシア神話のニーケー(Nike)から社名の変更を提案した。


「ナイキ(Nike)というのはどうでしょう?」


 1971年5月に社名をナイキに変え、同時期にあの有名なスウッシュロゴが作成される。

 鬼塚商会との提携も終了し、自社でのシューズ生産体制を整える。


 ナイトもバウワーマンもはっきりと言っていた。


「私たちはこの業界で、アディダスを倒す!」



 エア・ジョーダン。

 説明不要のバスケットボール界のGOAT(Greatest Of All Time)である、マイケル・ジョーダン(Michael Jeffrey Jordan、1963年生まれ)は、ナイキ社と1984年10月26日に契約を結ぶ。


 ジョーダンに対しては、アディダスやコンバースも契約の打診をしていた。

 そして、ジョーダンは学生時代からずっとアディダスのシューズ愛用していたので、アディダスと契約する心算であった。

 

 彼は渋々母親と共にナイキの本社があるオレゴン州へ向かったが、そこで驚愕をする。

 契約金もさることながら、ナイキの特殊なプレゼンが待っていた。


 スポーツというのは意外と保守的な面がある。特に服装面で。

 例えば、テニスやゴルフなら規定に沿ったウェアが決まっている等。


 ジョーダンが新人年の1984年のNBAもシューズの規定があり、大まかにこんな感じである。


 チームの他の選手と一致した色であること。

 白地を半分以上配すること。


 シカゴ・ブルズのユニフォームは赤と黒である。

 そして、ジョーダンに提示されたエア・ジョーダンIは、赤と黒が大胆に配されたものである。

 この規定無視のシューズに、ジョーダンは初め難色を示したというが、ナイキ社の説得に心打たれたようだ。


「もしこのシューズを規定に反している、と注意を受けたとしても、このシューズを履いて活躍すれば、誰もがあなたをスターと見るでしょう。もし罰金が科せられるのなら、私たちが肩代わりします!」


 公式戦でジョーダンが履いていたシューズは、実は辛うじて白地が半分以上を占めていた。

 なのでジョーダンは罰せられなかった。


 だが、完全にアウトのシューズ(エキシビションマッチなどで履いていた)は、NBAのコミッショナーから注意を受けていたので、「ジョーダンがシューズを履くのを禁止された」との噂が広まった。

 そこでナイキとジョーダンは、それを逆手に取った宣伝を行う。


「ジョーダンがこのシューズを履くのは禁止されたが、君たちが履くのは禁止されない」


 アメリカのシューズ業界はナイキ一色に染まって行く。

 それは世界を染めるのとほぼ同義である。



 アディダス社のホルストは世界市場の優位を守ろうとするも、それは果たせなかった。

 彼が無策だったからではない。

 時間がもう無かった。


 ホルスト・ダスラーは1987年4月9日に癌のために若くして亡くなる。享年51歳。

 この前年に発病し手術をした癌は、完治せず、全身に転移していた。


 そして、アディダスは急速にアディ系のダスラー家から離れて行く。


 アディダス社の株式は、ホルストがアディダス社の全権を握る代わりに、兄妹に5分割されていたことを前に述べた。


 ホルストの株式はホルストの2人の子供に分配されたが、4人の妹たちは全てをベルナール・タピ(1943年~2021年没、Bernard Roger Tapie)というフランス人実業家に1990年に売却した。


 タピは当時、フランスのサッカチームのオリンピック・マルセイユのオーナーだったので、アディダスと縁の深いベッケンバウアーを監督に迎えている。

 ベッケンバウアーは1990年に監督として、西ドイツをFIFAワールドカップ・イタリア大会の優勝に導いている。


 因みにこの時の西ドイツのキャプテンは、ローター・マテウス(1961年生まれ、Lothar Herbert Matthäus)だ。

 彼の父親がプーマで働いていた関係から、彼はプーマのスパイクを愛用していた。


 マテウスのユース時代。

 彼が所属していたのは、ヘルツォーゲンアウラハにあるチーム。

 このチームは「1.FCヘルツォーゲンアウラハ」といい、ルドルフ・ダスラー健在時は彼の全面的な支援を受けていた。(現在(2024年)は6部に当たるリーグに所属)



 さて、こうしてあっさりとアディダスがアディ系のダスラー家から離れた。

 ルディの話が出たので、プーマがルディ系のダスラー家から離れる過程を追う。


 プーマは1986年7月に、アルミンの主導で株式会社に移行する。


 ドイツの主な企業形態についてである。

 株式会社をAG(Aktiengesellschaft)。

 合資会社をKG(Kommanditgesellschaft)。

 有限責任会社をGmbH(Gesellschaft mit beschränkter Haftung)。


 企業としての風土や規模は、どれも大差は無い。

 大企業でも有限責任会社である場合が多く、例えばテディベアで有名なシュタイフ社はGmbHだ。


 プーマは1959年からKGだったが、AGとなり、フランクフルト証券取引所とミュンヘン証券取引所に上場する。


 だがしかし、アディダス同様、プーマもアメリカ市場で苦戦をする。

 ナイキの影響力はプーマも直撃した。株価が下がって行き、アルミンはドイツ銀行から取締役の退任を強く要求され、1987年に辞任に追い込まれる。


 そして、アルミンもこの苦境下で体調を崩して行き、ダスラー家が持つ株式の全ては1989年に売却され、プーマは完全にルディ系のダスラー家から離れてしまった。


 1990年10月3日の秋。

 東西ドイツは再統一される。(Deutsche Wiedervereinigung)


 それから数日後の1990年10月14日。

 アルミン・ダスラーは61歳の若さで肝臓癌により死去する。


 アルミンの妻のイレーネは嘆く。


「夫は癌ではなく、プーマを失ったショックで亡くなったようなものです」


 アルミンの長男のフランク(Frank、1956年~2020年没)は、弁護士資格を持っていたので、その後アディダス社に入り、長くアディダスの法務部門で働く。


 孫世代になって、ドイツの統一と合わせるかのように、どうやら和解の一筋の光が見え始めた。


第17話 2つの会社、ダスラー家から離れる 了

2代目がそれぞれ早死にした話でした。

次で最終話となります。


ベッケンバウアーは厳密には監督(Trainer)ではありません。(ライセンスを持っていなかったので)

彼の役職の>>Teamchef(チームシェフ)<<とは、「チームのボス」とでも訳せばいいのでしょうか?(ドイツ語の「シェフ(Chef)」とは「チーフ(Chief)」みたいな感じです)


アディも社内では>>Chef<<と「ボス」呼ばわりされていました。



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【短編、その他】

【春夏秋冬の公式企画集】

【大海の騎兵隊(本編と外伝)】

【江戸怪奇譚集】
― 新着の感想 ―
ジョーダンは、2流メーカーを1流まで引き上げたって言われていますよね。 呂比須ワグナーさんが、ガンバ大阪の監督をした時が、ベッケンバウアーさんと同じですね。 クラブヘッドコーチって名前だったそうで…
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