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ルドルフとアドルフ  作者: 大野 錦


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第16話 アルミンとホルスト その2

16話目です。よろしくお願いします。

第16話 アルミンとホルスト その2



 ホルスト・ダスラーが経営に携わっていたのは、SMPIというスポンサーシップとテレビ放映権を販売する会社である。

 これを発展的に解消して、1982年にISL(International Sports and Leisure)と改め、ホルストがスイスのルツェルンを本拠とする、後継会社を設立した。(2001年に経営破綻)


 ISLはFIFAやIOCとの密接な関係を持ち、ワールドカップやオリンピックのマーケティング利権やテレビ放映権を握っていた。

 何故ここまでホルストはスポーツ界全体に影響力を及ぼしていたのか?


 彼の基本はメルボルンオリンピックで成功した無償提供である。

 アフリカに有望なアスリートが多いと分かると、アフリカ諸国に無償でシューズを初め用具を提供していた。

 そして、繰り返しになるがアスリートは引退して、後進の指導やその国のスポーツ関係の役員になる。

 彼らとの絆を維持して、じわじわとその国の市場と人脈を広げていく。


 冷戦時代。

 60年代から独立して行ったアフリカ諸国は、スポーツ関係の「票」の要であった。

 開催地などの投票で、どうしても資本主義陣営と共産主義陣営で分かれるので、アフリカ諸国の役員と顔が利くホルストが両陣営から頼みとされたのは説明するまでも無い。


 驚くべき事にホルスト、いやアディダス社は、ソ連を初め東側陣営とも太いパイプを持っていた。



 ホルストがアディダスの完全な経営を握るまで、実はアディダスはヘルツォーゲンアウラハと、フランスのエルザスにあるランデルスハイムを本拠としたホルストとの、ある意味二重会社だった。


 東側諸国とのパイプは元々ヘルツォーゲンアウラハ側が持っていた。

 それは、アドルフとケーテの三女であるブリギッテによる。


 彼女は若い頃からロシアや東欧の文化に興味を持ち、そしてロシア語を学び、その語学の知識を活かして、東側諸国との繋がりを独自に築いて行ったからだ。


 ホルストはこの妹のブリギッテと協力して、80年代初頭にアディダスはソ連に工場の設立まで成功させている。


 ホルストは更に東ドイツとも関わりが深かった。


 東ドイツのスポーツ関係者だけでなく、東ドイツの国家元首であるエーリヒ・ホーネッカー(Erich Ernst Paul Honecker、1912年~1994没)とさえ懇意になる。


 ホーネッカーにより、東ドイツはスポーツでは、スリーストライプスの国となる。

 東西ドイツの統一に先んじて、スポーツビジネス面では、奇妙な事に既に統一されていた。


 東ドイツにはツェハ(Zeha)というスポーツメーカーがあり(当然共産国なので国有会社)、長らく東ドイツだけでなく、シューズを初め多くの国々が採用していたが、ドイツ統一後の1992年に操業が停止される。


 ツェハはシューズに施された2つのツーストライプスがトレードマークで、2002年からツェハ・ベルリンとして復活を果たしている。

 


 アルミン・ダスラーは決して無能ではない。

 彼がプーマを相続してから、約10年で売り上げを5倍に伸ばしているのが、その証左である。


 だが、この種のホルスト独特の人脈の作り方に対してはどうしても劣る。

 プーマも実は東ドイツに接触しようとしたが、ホーネッカーどころか、その前の東ドイツのスポーツ界の大物にも辿り着けなかった。


「全く駄目だ。東ドイツは完全にアディダスのものだった」


 担当したアルミンの弟のゲルトは嘆息する。


 プーマがやっていたこの頃のプロモーションは、自国のハードロックバンドのスコーピオンズに、ライブやテレビ出演時に自社のスニーカーを履いて欲しい、と頼んだくらいである。


 また、プーマは特別なスター選手との、まるで一本釣りのような契約を継続しており、この頃だとサッカーではディエゴ・マラドーナ(Diego Armando Maradona、1960年~2020年没)、テニスではボリス・ベッカー(Boris Franz Becker、1967年~)が有名だ。


 一方、ホルストは多分自身が死ぬまで気付かなかっただろうが、東ドイツのシュタージ(Stasi、東ドイツの秘密国家警察)の監視対象であった。


 とある、東ドイツ出身の無名のスポーツ関係者がホルストの周囲に常にいたのだが、この男が定期的にホルストの取引内容をシュタージに伝えていたエージェントであった事が、かなり後になって判明する。



 つまり、ホルストも全て先見の明をもって成功した訳では無い。


 1974年に行われた、FIFA第7代会長選挙。

 彼は現職(第6代会長)である再選を目指すスタンリー・ラウス(Stanley Ford Rous、1895年~1986年没)を支持していた。

 

 ラウスはサッカーのルールブックの更新や優れた審判として有名で、ホルストはこの実父アドルフより年上のイギリス人と、友人として親しくしていたからだ。


 ところが、対抗のジョアン・アヴェランジェ(João Havelange、Jean-Marie Faustin Goedefroid de Havelange、1916年~2016年没)が有力だと伝えられ、ホルストは狼狽した。


「どうなっているんだ!?」


 実はホルストの基盤でもあるアフリカ諸国が、アヴェランジェ側についていたのである。

 ホルストはこれをまったく見落としていた。


 このベルギーにルーツを持つブラジル人は、若き日に水泳選手として活躍し、ベルリンオリンピックの出場経験を持っている。


 アヴェランジェは、ワールドカップの非ヨーロッパ枠の拡大、後進地域のスポーツ設備や医療の充実、何より南アフリカ共和国に対してアパルトヘイト(人種隔離政策)を撤廃するまで、FIFAから締め出す事を強調していたからだ。


「アヴェランジェの支持に回るべきです。今からでも遅くはありません!」


 側近に言われたホルストは即座にアヴェランジェ支持に回り、アヴェランジェもこの金のかかる公約を果たすためには、ホルストの支持が必要だと感じ、両者の利害は一致し、アヴェランジェが第7代会長に当選する。(任期:1974年~1998年)


 この経験を活かしてホルストはIOC会長のキャスティングボードも握る。

 フアン・アントニオ・サマランチ(Juan Antonio Samaranch Torelló、1920年~2010年没)の後押しだ。


 カタルーニャ出身のサマランチは、自国スペインのフランコ体制(1939年~1975年)の終結後、当時スペインはソ連に大使を置いていなかったので、自らスペインの駐ソ大使となる。


 彼の目標はモスクワオリンピック(1980年)中に行なわれる、会長選挙の勝利だ。


 東側と顔が利くホルストのおかげで、サマランチはIOC会長となる。(任期:1980年~2001年)


 しばしば、次のロサンゼルスオリンピック(1984年)が、所謂「商業オリンピック」の始まり、とされる。

 このアメリカを初め西側諸国が、ソ連のアフガニスタン侵攻(1979年)を理由にボイコットした、このモスクワオリンピック時に、商業化を推し進めるサマランチの会長が決まった。


 東側諸国を中心に行われたこのオリンピック中に、商業化への第一歩を踏み出したのは、何とも皮相である。  



 アルミンとホルストは意外な形で共に写真に納まる。


 そのきっかけはアシックス社長の鬼塚喜八郎(おにつかきはちろう)(1918年~2007年没)であった。


 1986年の東京。

 WFSGI(世界スポーツ用品工業連盟)の役員会が行なわれていた。


 議題はWFSGIの会長職の選出だ。大陸間ごとに会長職を回すことが決められていたので、当時会長の鬼塚の次はヨーロッパ大陸から、と既に決まっている。


 そして、鬼塚はアルミンを次の会長に推した。

 ホルストは激怒する。


「鬼塚さん。それだけは絶対に受け入れられない!」


 ホルストのホテルの部屋を訪れた鬼塚とその通訳に、ホルストは連名の離脱まで仄めかす。


「まぁまぁ。落ち着きなさい。あなたたちは家族じゃないですか。家族間で良き行いをすれば、それが周り巡って、あなたたち家族に良き事が来るのです」


 ホルストは滔々と述べる鬼塚に渋々承服した。


 翌日。

 鬼塚は会長に選出されたアルミンとホルストが同じテーブルに着き、握手をした姿の撮影すら要求する。


 これには両者とも嫌がったが、鬼塚は構わず続ける。


「家族と仲良くする事。これは人の務めであり、あなたたちのような世界に影響力のある方々は、率先して行うのです」


 こうしてアルミンとホルストは握手して写真に納まった。


 1986年5月31日。

 FIFAワールドカップ・メキシコ大会の開会式。


 それを貴賓席で見ていたホルスト・ダスラーは中途退席し、ニューヨークへと向かった。


「急な会議が来た」


 そうホルストは周囲に説明したが、左目の奥に癌細胞が見つかり、それを取り除く手術のためニューヨークへと向かったのは、ごく一部の関係者しか知らなかった。


第16話 アルミンとホルスト その2 了

鬼塚さんは本当にアルミンとホルストを仲直りさせたかったようです。


そして私が欲しいスニーカーは、ツェハ・ベルリンです!


それにしてもスコーピオンズって……。

この小説はミリタリーものの皮を被ったサッカーもので、サッカーものの皮を被ったハードロック・ヘビーメタル小説なのです。(な、なんだってー!?)



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