第15話 アドルフ・ダスラー
15話目です。よろしくお願いします。
第15話 アドルフ・ダスラー
1
アドルフとケーテは子沢山で、長男のホルスト以降は4人の娘たちに恵まれた。
上から、インゲ(Inge、1938年生まれ)、カリン(Karin、1941年生まれ)、ブリギッテ(Brigitte、1946年生まれ)、ジクリット(Sigrid、1953年生まれ)である。
この長女のインゲがルドルフ・ダスラーの告別式に唯一出席したアディダスの関係者だ。
また、ケーテの妹のマリアンネ・ホフマン(Marianne Hoffmann)も姉の後を追い、ヘルツォーゲンアウラハへ移り、夫のハンス(Hans)と共に姉夫婦を公私ともにサポートしていた。
1978年。
アディダスはアメリカ以外のメーカーで、初の「アメリカスポーツ用品業界」の殿堂入りを果たす。
その数カ月後。
1978年9月6日にアドルフ・ダスラーは死去する。11月3日で78歳になる前だ。
ヘルツォーゲンアウラハの墓地にて。
アドルフは、4年前に死去したルドルフの墓から、最も離れた箇所に埋葬された。
和解は、創始者の兄弟の死をもってしても果たされなかった。
ルドルフとアドルフの晩年の1970年代。
西ドイツは極左過激組織のRAF「ドイツ赤軍派(Rote Armee Fraktion)」による、政財界や駐留アメリカ軍に対するテロが頻発していた。
特にアドルフの死の1年前の1977年には、「ドイツの秋」と呼ばれる、収監されていたRAFの中核メンバーの解放を目指した、大規模な一連のテロ事件が起こっている。
その一連のテロの一つ。
RAFと共闘したパレスチナ解放人民戦線(PFLP)による、ルフトハンザ航空機ハイジャック事件は、ミュンヘンオリンピックの事件後に創設された、対テロ特殊部隊GSG-9により、人質全員の救出に成功している。
現在(2024年)。
これ等のパレスチナの過激派組織は、「パレスチナ解放機構(PLO)」に参加しているが、元々左翼思想から起こったものなので、過激派ではあっても世俗的である。
故に、イスラーム主義から起こったハマースは、PLOには参加していない。
ルドルフとアドルフ。
兄弟の生涯は、10代後半の少年期に徴兵された第一次世界大戦の従軍から、晩年期に国内に吹き荒れた極左テロ、とドイツ近現代の激動の歴史に重なっている。
2
アドルフはルドルフの死から、半ば引退状態だった。
仕事への情熱は完全には失ってはいなかったが、どこかぽっかりと心に穴が開いた感じ。
長兄のフリッツも1975年の12月に亡くなっている。
次第に、職場よりも自宅で庭仕事をしている時間が長くなっていった。
「あの……、アドルフ・ダスラーさんですよね?」
「いや、違うよ。私はこの家で雇われている庭師だ」
そう言って、彼の元を尋ねる人々を追い帰した。
長男のホルストとも、もう長いことまともに会って会話をしていない。
ホルストはフランスを拠点に競泳水着ブランドの「アリーナ(arena)」を1973年に設立し、その経営に忙しい。
アドルフはこれに呆れ返った。
元々彼はユニフォームやトレーニングウェアの製作販売でさえ、あまり乗り気でなかった。
競泳用とはいえ、水着と聞いたアドルフは、ホルストに半ば嫌みのように言う。
「お前は次はアディダス製のランジェリー商品でも作るのか?」
そして、スポンサー権とテレビ放映権の販売をする、スポーツマーケティング会社と取引をし、独自の利益を追求している。
職人のアドルフには、息子ホルストのやっている事が、全く理解できずに亡くなってしまった。
「ルディだけでなく、ホルストとも分かり合えなかったな。偉そうな殿堂など、この口下手で人付き合いの悪い男には似合わない」
アドルフは思い出す。
戦後間も無いアディダスを創業した頃。彼は時間を作っては少年時代のホルストと共に、ヘルツォーゲンアウラハ内をアディダスシューズでランニングをしていた。
親子に会話は無い。只黙々と走る。
そのコースは曾てアドルフがスポーツ靴を開発し始め、スタートとゴール地点には笑顔の若きルドルフがいた、あのコースだ。
一見、成功した事業家であるアドルフ・ダスラーの晩年は、このように少し寂しかった。
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サッカー西ドイツ代表も、まるでアドルフに合わせたかのように少し寂しくなっていく。
クラブレベルではバイエルン・ミュンヘンがUEFAチャンピオンズリーグ(チャンピオンズカップ)で1973年ー74年から1975年-76年に3連覇したが、1977年にベッケンバウアーが、ペレが所属しているニューヨーク・コスモスへ移籍してしまい、77年以降はペレ同様に事実上の代表の引退状態となる。
1976年のUEFA欧州選手権では、西ドイツは決勝でチェコスロヴァキアにPK戦の末に準優勝に終わる。
尚、このPK戦でチェコ出身のアントニーン・パネンカ(Antonín Panenka、1948年~)が決めたチップキックは「パネンカ」と呼ばれ、今でもPKでこれにチャレンジする選手は後を絶たない。
UEFA欧州選手権(ユーロ)は、1980年のイタリア大会からワールドカップのように一国(あるいは複数国や複数地域)で行われるが、それ以前は予選リーグを行い、対戦国のホームアンドアウェーでベスト4まで決め、決勝大会を4チームのトーナメントで開催国にて行っていた。
1960年から始まったユーロ(当初はヨーロピアン・ネイションズ・カップ)は、歴史的にソビエト連邦が強く、初優勝国もソ連だ。
因みにソ連のサッカー選手や指導者にはウクライナ人が伝統的に多く、しばしばソ連のスポーツ関係の高官は「ロシア人選手をもっと入れろ」と圧力をかけていたが、ウクライナ人の監督たちは聞く耳持たず、ウクライナ人選手を優先していた。
単に選手として、ウクライナ人の方が優秀だったからだ。
ユーゴスラヴィアで行われた1976年の決勝大会は、3位決定戦を含め全4試合が延長までもつれ込み、クライフのオランダはチェコスロヴァキアに敗れ、3位で終わる。
1978年のFIFAワールドカップ・アルゼンチン大会の予選で、クライフは本大会への出場に貢献したが、本大会には「個人的な事情」により出場を辞退している。
ベッケンバウアーとクライフの両巨頭のいないアルゼンチンワールドカップは、地元アルゼンチンが決勝でオランダを破り、初優勝を果たす。
西ドイツはオランダと同居した二次リーグで敗退してしまった。(オランダとの直接対決は2ー2の引き分け)
4
アドルフ・ダスラーの死後。
アディダス社はケーテを会長、ホルストを社長とする体制を執るが、ホルストは相変わらず自分の事業に集中している。
1982年。ケーテは、ホルストが取引していたスポーツマーケティング会社の経営にまで、自分たちに相談無く関わっていた事を知る。
ケーテは激怒し、またも家族間の争い、となるかと思われたが、ホルストは4人の妹たちと、アディダス社と自分の関連会社の株式を平等に分割する代わりに、アディダス社の経営権の独占に成功した。
彼も従兄弟で、ライバルのアルミンと同様に敏腕弁護士を雇い、窮地を脱する。
1984年12月31日。
ケーテ・ダスラーは心臓病で死去。享年67歳。
ダスラー家の初代の人々。
あのダスラー兄弟靴工場を造り守り、プーマとアディダスを興した人々は、こうしてこの世からいなくなった。(ルディの妻のフリードルは1979年4月7日に死去)
プーマはアルミン・ダスラー、アディダスはホルスト・ダスラーにより、完全に掌握され、経営される。
第15話 アドルフ・ダスラー 了
こうして、題名の主役2人は亡くなりました。
ですが、あと3話続きます。
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