第14話 ルドルフ・ダスラー
14話目です。よろしくお願いします。
第14話 ルドルフ・ダスラー
1
バイエルン州北部のヘルツォーゲンアウラハのアドルフ・ダスラー邸にて、ある若い男がサッカースパイクを手に取り、チェックをしている。
「どうだ、フランツ。この新作は?」
「ダスラーさん。相変わらずいい仕事をしますね」
フランツと呼ばれた男は感嘆して頷く。
フランツ・ベッケンバウアー。バイエルン州の州都ミュンヘンを本拠地とする、FCバイエルン・ミュンヘンの選手であり、西ドイツ代表選手。
どちらもキャプテンを務めている。
バイエルンも西ドイツ代表もアディダスと契約しているので、ベッケンバウアーは最大の広告塔だ。
そして、ベッケンバウアーはしばしばこのようにアドルフ・ダスラー邸を訪れていた。
「然し、スポーツの大会であのような惨劇が起こるとは。私も、いや私たちも若い頃は何も考えず、国民社会主義者ども(ナチス)に協力していたから、偉そうなことは言えんが……」
アドルフはため息をつき呟く。
兄と共にあの愚かな党の党員になった事と、それからの自分たちの愚行を反省するように。
1972年のミュンヘンオリンピック。
この大会で一番の有名な出来事を上げれば、「ミュンヘンオリンピック事件」であろう。
パレスチナ過激派組織の「黒い九月」が、イスラエル選手たちの宿舎に立て籠もり、イスラエルのアスリートやコーチたち計11名を殺害した事件だ。
故に、1974年の西ドイツワールドカップは、各国の選手たちは厳重に保護され、徹底された治安対策下で行われた。
少し前。
アドルフはルドルフが肺癌を患い、危険な状態だと知らされていた。
「……そうか」
それを伝えられたアドルフは、それだけを言ったのみ。
なので、それ以来、周囲はルドルフの容態についての話は避けた。
2
1974年7月7日。
オリンピアシュターディオン・ミュンヘン(Olympiastadion München)での決勝戦は、西ドイツ対オランダ。
この大会はヨーロッパ勢の活躍が目立った。
大半の選手は40年代から50年代初めの生まれ。
物心ついた時は、親世代は戦後の復興で忙しい。やることと言えば、一日中仲間とボールを蹴るだけ。
特に第二次世界大戦で独ソの分割から始まり、ワルシャワを破壊され、国土に甚大な被害を受けたポーランドが躍進している。
2年前のミュンヘンオリンピックでは、ポーランドサッカーチームが金メダルに輝いている。
大会への予選時には、66年の優勝チームのイングランドを退け、本大会では3位決定戦で前回優勝国のブラジルに勝ち、エースのグジェゴシ・ラトー(Grzegorz Bolesław Lato、1950年~)は7得点を決めて、大会得点王になっている。
ポーランド、西ドイツ、オランダ等は当時技巧派が揃った、驚異のチームだったのだ。
オランダのエース。唯一2本のストライプスのユニフォームを着た、ヨハン・クライフには、ベルティ・フォクツ(Hans-Hubert „Berti“ Vogts、1946年~)がマンマークで対応する。
だが、フォクツは所属するボルシア・メンヒェングラートバッハでは、技巧派の攻撃的サイドバックとして鳴らしていた。
細かい動きが出来る技巧派を、同じく細かい動きが出来る技巧派で封じる。
時折サッカーの重要な試合では、そのような戦術を用いる場合がある。
ベッケンバウアーも、若き日の66年ワールドカップ決勝で、相手イングランドのエース、ボビー・チャールトン(Robert „Bobby“ Charlton、1937年~2023年没)をマンマークしていた。
結局、西ドイツは敗れ、ベッケンバウアーの攻撃センスを無駄にしたこの戦術は、西ドイツでは長く批判されるが、この試合でチャールトンがほぼ抑えられたことは事実で、半ば監督であるベッケンバウアーは自身の体験から、この対クライフ戦術に確信があったのかも知れない。
3
試合開始早々。西ドイツはボールに一切触ることなく、センターサークルからウナギのようにヌルヌルと、西ドイツのペナルティエリア内へドリブルで侵入したクライフを、ウリ・ヘーネス(Ulrich „Uli“ Hoeneß、1952年~)が倒してしまう。
このPKをヨハン・ニースケンス(Johannes Jacobus „Johan“ Neeskens、1951年~2024年没)が冷静に真正面に決め、開始2分でオランダが先制する。
前半25分。
オランダのゴール前までドリブルで侵入したベルント・ヘルツェンバイン(Bernd Hölzenbein、1946年~2024年没)を、今度はオランダの選手が倒してしまう。
このPKを一際異彩を放つ風貌の、もじゃもじゃの髪とひげ面のパウル・ブライトナー(Paul Breitner、1951年~)がこちらも冷静に決めて、西ドイツは同点に追いつく。
前半43分。
ライナー・ボンホフ(Rainer Bonhof、1952年~)が右サイドをドリブルで突破し、オランダゴール前まで迫り、マイナスの折り返しを入れる。
このボールの先には誰もいなかったが、瞬時に反応した選手がいた。
自身の背後に転がるボールに、共に並走していたオランダの選手を、バックステップして振り切りターンしながら、右足を振り抜くとボールはオランダゴールに吸い込まれる。
決めたのはゲルト・ミュラー(Gerhard „Gerd“ Müller、1945年~2021年没)。
その異常なまでに得点に特化したプレーぶりは、„Der Bomber der Nation“「国民の爆撃機」と呼称される威力。
クライフは最初のPKを貰ったプレー以外、ほぼフォクツに抑えられ、2-1で西ドイツの2度目のワールドカップ優勝が決まった。
4
この年。
既にルドルフ・ダスラーは肺癌に蝕まれ、余命いくばくも無い状態であった。
西ドイツのワールドカップ優勝の数カ月後。
ルドルフ・ダスラーは1974年10月27日に亡くなる。享年76歳。
ルドルフ最期の日。
アドルフはルドルフの家からフリードルの電話を受ける。
「……そっちへ行って、抱擁はしてあげられないけど、『私はあなたとの間に起こった全ての事を許し謝る』。そうルディに伝えてくれ」
これがひょっとしたら、ルドルフ・ダスラーが生涯最後に伝えられた言葉かもしれない。
ルドルフの告別式に、アドルフとケーテは、彼らの長女を参列させたが、アディダスは以下の事務的な声明を出したのみ。
「ルドルフ・ダスラー氏の逝去を悼みます。故人に関してのコメントを当社は控えさせていただきます」
奇妙なのは、ルドルフは遺言で後継者に次男のゲルト(Gerd、1939年~2020年没)を指名していた。
長男のアルミンはアディダスと、いやアドルフの息子のホルストと激しい争いをしていた。
ゲルトはプーマのフランス支社の責任者なのだが、同じフランスに住む、3歳上の従兄ホルストのやり手ぶりにただ驚嘆するだけ。
時にはホルストからパーティに招待され歓待も受けた。
ホルストからすると、アルミンとの後継者争いをさせる後押し的なものだったが。
恐らく、アディダスとの、アディ一家との闘争に、病を得てから疲れ切ったルドルフは、両家の和解への一縷の望みとして、ゲルトを指名したのか。
但し、株式の大半の所有と、敏腕弁護士を雇ったアルミンは、プーマの分裂を防ぎ、二代目として君臨する事に成功する。
第14話 ルドルフ・ダスラー 了
ルディとアディは70年代の初めに数回こっそりと会っていたようです。
ただ、人目に付くところだと大騒ぎになるので、グランドホテルや空港のラウンジなどと、慎重に場所を決めて、2人きりでゆったりと会話をしていたそうです。
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