第13話 ペレ協定とクライフ問題
13話目です。よろしくお願いします。
第13話 ペレ協定とクライフ問題
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ペレこと、エドソン・アランテス・ド・ナシメント(Edson Arantes do Nascimento、1940年~2022年没)は、サッカーの歴史上、いやスポーツの歴史上で最重要の人物であろう。
1958年のFIFAワールドカップ・スウェーデン大会。
当時、18歳になっていなかったペレは、故障もあり基本控え選手だったが、次第に出場機会を得て行き、同大会で6得点をあげ、ブラジルの初優勝に貢献している。
54年のブラジルは、ハンガリー相手の醜いラフプレーと乱闘騒ぎ。
50年の地元開催では決勝で、ウルグアイに敗けるなど、どちらかというとペレ以前のブラジルは「やらかす」チームだったが、彼の登場を「分水嶺」として全てが変わった。
彼の背番号10は、たまたま抽選で付けただけだが、これ以降現在でも10はサッカーにおけるエースナンバーの一つで、ペレを象徴する背番号だ。
1962年のチリ大会では、ペレは途中で負傷で試合に出られなくなるも、ブラジルは連覇を達成。
1966年のイングランド大会では、度重なる相手チームのラフプレーでまたも負傷し、グループリーグで敗退してしまう。
ペレは1970年のメキシコワールドカップに全てを掛けていた。
南米予選をブラジルは全勝で出場を決めている。
サッカーをするものなら、彼が当時の最大級のアイコンであった。
プーマとアディダスが「ペレ協定」を結んだのは、ペレにスパイクを提供すると、異常なまでの契約金が発生するので、両社はそれを控えたのだ。
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「ペレ選手と契約を結べ。アルミン」
70過ぎの男が、アルミンと呼んだ息子に命じる。
「そして、ペレ選手には試合前にスパイクの靴ひもを直す仕草をさせるように頼むんだ」
自宅でテレビを見ながら、老人は息子に更に命じた。
「分かりました。直ぐにコンタクトを取ります」
アルミンはブラジルを拠点に南米地域を担当している、懇意のドイツ人サッカージャーナリストに国際電話をかけ、一連の説明をする。
ルドルフ・ダスラー。
プーマ社の創業者。
彼は異常なまでにライバルのアディダス社を敵視し、同じくアディダス社を出し抜けたい息子のアルミンも承知する。
彼のスポーツマーケティングの才は、老いても全く衰えていなかった。
このアルミンが委託したジャーナリストは「協定」を破棄し、ペレ側との密かなコンタクトに成功する。
結果は上々だった。
思っていた以上の金額も要求されなかった。
恐らく前回のワールドカップでプーマを履いたエウゼビオが得点王に輝いた事も影響したであろう。
こうして1970年5月31日から、FIFAワールドカップ・メキシコ大会が始まる。
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アディダス社側は騒然とする。
ペレがプーマのスパイクを履いているのだ。
それも試合開始前。センターサークルのペレは、主審に頼み込み靴紐を結び直す。
テレビ中継される画像は、ペレが紐を直すプーマのスパイクが大写しとなる。
これ以上の宣伝効果が他にあるだろうか?
自宅でテレビを見ていたアドルフは怒りに震える。
ブラジルはメキシコ大会を全勝で優勝し、地区予選を含めて、引き分けなしという空前の快挙を成し遂げた。
プーマのスパイクが世界中のサッカー少年たちを魅了する。
アディダスとて無策ではない。
ペレと同じくスポーツ界の重要人物、モハメド・アリ(Muhammad Ali、1942年~2016年没)にボクシングシューズを提供する。
スリーストライプスのシューズを履いたアリは、ジョー・フレージャー(Joseph William Frazier、1944年~2011年没)と、マジソン・スクエア・ガーデンでの「世紀の一戦」を1971年3月8日に対戦する。
結果は、フレージャーの判定勝ちで、アリはプロ初黒星を喫したが、アリのスリーストライプスのシューズはテレビ映えした。
そう、箱(テレビ)が最大の宣伝効果だと、スポーツメーカーは本格的に気付き始める。
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ペレは1971年7月18日のマラカナン・スタジアムで行われたユーゴスラヴィア戦で、代表引退を表明する。
サッカー界は次代のペレを探すが、プーマは既に見つけていた。
ヨハン・クライフ(Hendrik Johannes Cruijff、1947年~2016年没)というオランダ人プレイヤー。
1973年まで所属していたAFCアヤックスで、1970-71年から1972-73年まで、所謂UEFAチャンピオンズリーグで3連覇を達成。
71年と73年はバロンドール(Ballon d'Or)を獲得している。
因みに間の72年はEURO1972で優勝した西ドイツのフランツ・ベッケンバウアー(Franz Anton Beckenbauer、1945年~2024年没)だ。
プーマはクライフと契約する際に、契約条項に次のような一文を付けた。
「公の場で他のスポーツメーカーを連想させるものを身に付けないこと」
サッカーオランダ代表は、アディダスと契約し、ユニフォームやトレーニングウェアは、あのスリーストライプスとなった。
クライフはペレやアリとは違った曲者である。
具体的には彼の代理人が主に行った事だが。
プーマが「アディダスの3本線を着ないように」と言って来れば、「じゃあ、俺はアディダスに鞍替えする」とプーマに言い返す始末。
オランダ代表に対しても、「俺にスリーストライプスのユニフォームを着せるのなら、代表の試合は一切出ない」と平然と主張。
これにはプーマもアディダスも困った。
曾て、アルミン・ハリーが双方のシューズを履いて物議を醸したが、クライフのやり方は一枚上手である。
結果、プーマもアディダスも双方折れ、クライフが代表の試合に出場する際には、アディダスの技術者が特別にスリーストライプスを、2本線にしたのを用意する。
こうして、1974年6月13日。FIFAワールドカップ・西ドイツ大会が始まる。
第13話 ペレ協定とクライフ問題 了
すっかりサッカー小説と化してきました。
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