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ルドルフとアドルフ  作者: 大野 錦


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第10話 そして、2つの会社へ

10話目です。よろしくお願いします。

第10話 そして、2つの会社へ


はじめに


 長々と戦争の話が続きましたが、こうしてスポーツの秋として、シューズやスポーツメーカーの話が書けます。

 ですが、基本的に人は死にませんが、陰湿なスポーツビジネスの話がメインなので、やっぱりどうしても明るくなりません。



 アドルフ・ダスラーはナチス党員だったため、当初は非ナチ化委員会の監督下で、仕事を再開していた。

 彼が政治的な活動をしていなかった事が認められたのは、1947年2月。

 ここから完全に自由にオーナーとしての本格的な操業が始まる。


 一方、釈放されたルドルフは、アドルフやケーテとは最低限の会話しかしない。

 彼は弟夫婦が自分を陥れ、ダスラー兄弟靴工場を独占するものとの疑惑に駆られていた。


「なぜ俺は犯罪者として、1年間も拘留され、お前は何の制裁も受けないんだ!?」


「……」


 アドルフは黙る。

 ルドルフの拘留中。ルドルフは自分がこのように逮捕されたのなら、弟に至っては武器製作を自ら主導して、同じくナチスに深く関わっていた同類だ、と主張していた事をアドルフは聞いていた。

 アドルフが長く非ナチ化委員会の監督下にあったのは、ルドルフのこのような証言による。


 ルドルフは遂に禁断の言葉を発する。


「お前たちは俺だけがNSDAPの信奉者で、SS(親衛隊、Schutzstaffel)に関わりが深い、と占領軍に吹聴したのだろう!」


「ルディ! 俺たちはそんな事をしていない!」


 流石に口の重いアドルフも叫ばずにはいられない。


「うるさい! フリードルや俺の子供たちも忌々しく思っていたんだろう!」


 戦時中、防空壕の中でアドルフが「やつらが来た」と罵ったのを、フリードルはルドルフに伝えていたのだ。


「違う! 勘違いだ! ルディ、お前は勘違いをしている!」


 1948年4月。ルドルフとフリードルと子供たちは、ダスラー家のシェアハウスを出て行く。

 ダスラー兄弟靴工場は分割され、ルドルフはアウラハ川の対岸のヴュルツブルガー通りの第2工場を本拠地とする。

 これ以降ルドルフとアドルフは、生涯顔を合わせて会話をする事が無かったとされる。



 ルドルフと共に移った従業員は僅か14名。

 しかも、殆どがルドルフ直下の部下たち。つまりセールスマンだ。技術者が少ない。


 そこでルドルフはアドルフの工場の技術者を、密かにヘッドハンティングしたり(これがますます兄弟の不和を加速させる)、他の地域の靴職人を迎え入れ、どうにかスポーツ靴工場の体裁を整えた。


 当初は「ルーダ(Ruda、Rudolf Dasslerの姓名の頭から)」という社名だったが、程無くもっと軽快な感じが好ましいと思ったルドルフは、若い頃の自分のニックネームだった「プーマ(Puma)」にする。


 対岸のアドルフは自社を「アディダス(Adidas、Adi Dasslerの姓名の頭から)」と名付け、「ダスラー兄弟靴工場」の名は消え去った。


 1952年。

 プーマはサッカーシューズで画期的なスパイクを開発し発売する。

 それは世界初のねじ込み式のスタッド付きスパイクだ。


 だが、アディダスも同種の製品を開発する。

 ゼップ・ヘルベルガー(Josef „Sepp“ Herberger、1897年~1977年没)という西ドイツサッカー代表監督が両社に関わっていたのだ。


 ヘルベルガー監督は最終的にアディダスをパートナーとすることに決める。

 理由としては以下だ。

 

 些細なことでルドルフはヘルベルガーと口論をして怒らせた事。

 アドルフが自分と同じく物静かで、共に気が合った事。

 そしてアドルフの妻のケーテの存在だった。



 ルドルフの妻のフリードルは平凡な主婦である。

 夫の仕事には口を出さないし、そもそも口を出せる知識がない。


 一方、ケーテはアドルフと出会ったピルマーゼンスで、靴と商業の教育を受けていて、何より彼女の明るい性格は、ヘルベルガーを初め、多くのスポーツ関係者を虜にした。


 アドルフはルドルフという有能な営業マンを失ったが、あっさりとケーテがその代わりとなり、従業員の悩みを聞いてあげたり、小売業者との対応を見事に熟す。


 こんな事があった。

 あるスポーツ店の小売業者が、プーマかアディダスのシューズどちらかにするかを決めないまま、ヘルツォーゲンアウラハへと、車での長旅で訪れた。

 到着した時は日曜の夜近くで、雨が降り続けている。


 先ずこの男はルドルフ・ダスラー家のベルを鳴らす。

 出て来たフリードルは日曜の夜とあり、このような対応をした。


「分かりました。明日、夫に伝えておきます」


 そのままこの男はアドルフ・ダスラー家に赴きベルを鳴らす。

 出て来たケーテは、笑顔で男を家に迎え入れ、シャワー室へ通し、その後に暖かい夕食の席に着けた。


 この小売業者がどちらのメーカーを選んだのかは明白であろう。


 つまり少し違えば、サッカードイツ代表はプーマがパートナーだった世界線もあったかもしれない。

 これも「分水嶺」と言うべきか。



 両社はそれぞれシューズにある工夫を加えていた。

 先ず、アディダスはシューズの保護のために、側面に3本のストライプスを付けた。


 更に当時のシューズの色は黒が大半だったので、アドルフは自社のシューズだと、遠くからでも分かるように、ストライプスを目立つ白にする。

 こうしてアディダスのトレードマークが生まれた。


 今度はプーマがそれに対抗する。

 あの独特な曲線のストライプをシューズに施した。


 先のスパイクのねじ込み式スタッドや、このシューズの側面保護等は、当然両社は特許を出している。

 そのため、「自分たちの方が先だ」、「相手がデザインを模倣した」等と弁護士を介して、ルドルフとアドルフはいちいち細かいところを取り上げては、長らく訴訟合戦を繰り広げる。


 ゼップ・ヘルベルガー監督率いるサッカー西ドイツ代表は、1954年FIFAワールドカップ・スイス大会への予選を勝ち抜き、出場権を手にする。


 ワールドカップは1938年の大会を最後に中止されていたが、1950年にブラジル大会で再開される。

 だが、このブラジル大会は戦争直後とあり、多くの国々が参加を辞退し、西ドイツと日本に至っては予選開始までFIFAから除名されていたので、強制的に不参加であった。


 さて、スイス大会で優勝候補と目されたのは、前回大会優勝国のウルグアイ。ウルグアイはワールドカップ本大会でまだ1度の敗戦も喫したことがない。

 そして、「ゴールデン・チーム」(所謂マジック・マジャール)と称され、1950年代初頭に無敵を誇ったハンガリーである。


 アドルフ・ダスラーは西ドイツ代表のアドバイザーとして、チームに帯同しスイスへと向かう。


第10話 そして、2つの会社へ 了

アディは初め「Addasアダス」と名付けるつもりでしたが、類似の名前を持つ会社からの申しだてを受けて、「Adidas」にしました。



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【春夏秋冬の公式企画集】

【大海の騎兵隊(本編と外伝)】

【江戸怪奇譚集】
― 新着の感想 ―
[一言] ハンガリー代表のマMジックマMジャールとか、MMシステムとか、MWフォーメーションというのは、流石に、よく分かんないんですよね ただ、3-2-2-3あるいは、3-4-2-1なら、なんとかつ…
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