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10 成長痛

 湿った夜の汀にて、おにーちゃんとエーデルワイスが話をしています。 


 私は《八雲(やくも)》で姿を消しながら、遠くの遮蔽から二人の会話に聞き耳を立てていました。


 ……しかしどうやら、二人の様子が気になったのは私だけではないようでした。


 それは間違いなく、この数か月の間におにーちゃんに起こった変化です。このようにおにーちゃんの悩みに気づいて、心配してくれるような少女など、以前までは私とエーデルワイス以外にはいなかったのですから。


 私はなるべく驚かさないよう、少し離れたところで姿を露わにしてから、彼女へ声を掛けます。


『……ノワキも夜風にあたりに来たのですか』

「あら……レンちゃん」


 彼女は首をこちらに向けて、声の主が私であると分かると、強張らせていた肩の力を抜きました。


 物陰を背に体育座りをするノワキの隣まで、私は近寄ります。


『ノワキは私のことをそのように呼称すると決めたのですか?』


 先月初めて彼女と顔を合わせた時は、私のことをシラ二号などとナンセンスな綽名で呼んでいたように記憶していますが。


「だって、あなたは白恋なんでしょ。事情はよく分からないけど、ユキとスグルがそう言うなら、わたしは気にしないわ」

『ありがとうございます、ノワキ』


 人が神という存在をいかように受け止めるか。そのような事例はあまりに前例が少なく、予想しえないことでした。にもかかわらず、私を邪険にしない彼女には感謝しなくてはならないでしょう。


「レンちゃん、あなたも二人の盗み聞き?」

『はい。おにーちゃんがどのような話をしているのか、何を考えているのか、私はたいへん気になるのです』

「あなたは素直な神様なのね」


 自分で自分が素直かどうかは断言しかねますが、私はいついかなる時でもおにーちゃんへの気持ちを隠さず、正直であろうと心掛けているつもりです。それがノワキには素直な姿として映ったのでしょう。


「レンちゃんはスグルが好きなの?」

『はい。きっと世界でいちばんおにーちゃんのことが大好きです』

「そんなことないわよ」


 自分の方がおにーちゃんを好きなのだと言いたいようです。ここでそのような事実はありえないのだということを懇切丁寧に説明してもよいのですが、年長者である私はその程度のことでは対抗意識を燃やしたりしないので、特に否定するようなことはしないでおきました。


「声、意外とここまで届くのね。海風のおかげかしら」

『それに加えて、ノワキは不知森野風よりカネコリサマの力を継承したことで、五感が鋭敏になっているのです』

「……そんな実感はないけれど」

『本人が意識しなければその感覚は訪れません。今はノワキが二人の声を聴こうと耳を澄ませているため、聴覚のみが研ぎ澄まされているのです』


 そう、と彼女は、特に気にした風でもなく軽く頷くのでした。そして今度は私に言われて意識的に、二人の会話を拾おうと、耳をそばだてました。


 ――「――ねえ、優くんは、どっちの世界が好き?」


 海風に乗って、エーデルワイスの慈しみに溢れた声が、こちらまで届いてきます。


「…………」


 どうやら彼女もその声を、しっかりと聞き取ることができたようでした。


『ところで疑問なのですが』


「……なにかしら」


 そこで私は、しばらく訊ねる機会を窺っていた疑問を口にするのでした。


『ノワキはどうして、それほど泣きそうな顔をしているのでしょうか』


「………………っ」


 彼女は暗闇の中でも一目で分かるほどに、顔を歪めてしまいます。


 一見無思慮にも思えるこのような質問をわざわざしたのは、ノワキにもっと明確に、自身のその感情に向き合ってもらいたかったからです。私はそれを訊ねずとも、答えを既に知っていました。


 なにせ私はそれについてだけは、誰よりも鮮明に心の声を読み取ることができるのですから。つまり私は()()の神なのであるからして。


 私の糧でもあるような――恋にまつわる感情だけは、寸分たがわず聞き取ることができるのでした。


「……バカみたいよね。勝負に負けたんだから大人しく部屋で待ってればいいものを、好奇心にも負けてあいつの後をつけてきちゃって。それでこんな聞きたくもないことを聞かされてるんだから世話ないわ」


 自嘲的の声色が、地面に沈殿する闇の底へと静かに沈んでいきます。 


「幼稚な感情だと思ってたわ。スグルがあいつと二人でいるところを見たって、何とも思わないって。ただわたしは自分の愛情を伝えればいいだけで、それでスグルが幸せになってくれたらいいって、そう思ってた」


 彼女が顔を俯かせると、銀色の前髪が暖簾のようにはらはらと垂れ、その表情をひた隠してしまいました。


「……思ってた、はずだったのよ」


『ノワキは、嫉妬しているのですね』


「嫉妬……」


 彼女は自身の感情を確かめるように反復します。


「そう、これは嫉妬。わたしのどうしようもなくわがままな心が、産声みたいな悲鳴を上げてるのがとってもよく分かる……」


 ねばつくような熱帯夜の潮騒は、彼にも彼女にも平等に鳴り渡ります。


 どこか死を予感させる濤声には闇が塗り込められています。それで彼女の心の面紗は剥がれ落ち、昼の間には秘されている本当の気持ちが露わになってしまうのです。


 夏の夜の海は、人の心を最も無防備にしてしまうのでした。


「でも……」


 自分の気持ちに触れた彼女は、()()と続けます。


 嫉妬の心はたしかに痛みを訴えていて、それだけで彼女は潰れてしまいそうになっていました。


 ですがそれだけではないのです。


 彼女は――



「でも、それ以上に……悔しいの……!」



 皺ができるのも気にせず、彼女は浴衣の裾をぎゅっと掴むのです。


「昼間のわたしは全力だった! 全力でスグルのために、今のわたしの気持ちを伝えたつもりだったのに……エーデルワイスの言葉の方が、よっぽどスグルの支えになってる……!」


 実際におにーちゃんがどちらの言葉により救われたかなど、彼女には関係ないのでしょう。


 既にノワキの心は、そのように感じてしまっているのですから。


 嫉妬の感情などとは、比べるべくもない大きな激情。


 本当は、エーデルワイスのことなど、どうでもよいのです。彼女と自分を比較する必要などないのだと、彼女は分かっているのですから。


 なによりも大切なのは、彼女に勝ることではなくて、彼のためになることなのですから。


「悔しい……悔しい、悔しい……っ」


 誰よりも彼を想う彼女は――なによりも自分自身の不甲斐なさに、打ちひしがれているのでした。


「今のわたしじゃ、スグルを幸せにしてあげられないのが悔しい……!」


 彼女がゆっくりと顔を上げると、銀色の前髪の輝きとも異なる、小さな光が煌めきながら、ぽろぽろと零れていきます。


「あいつは自分なりのやり方で、あんなに綺麗にスグルを励ましてあげられてるのにっ! あれと同じことが、わたしにはできないって分かるから悔しい……! あいつにできてわたしにできないから悔しいんじゃない……わたしにはできないから悔しいっ!」


 やり場のない感情を、彼女は地面にぶつけます。掌を砂浜に叩きつけ、夜の大気に冷たくなった砂を握りしめました。


「わたしだって……あいつと同じくらいわたしだって、スグルが好きなのに……! それなのに……今のわたしじゃ、あの人の拠り所に……なってあげられない……」


 一握の砂を夜空に散らすのではない、とてもそのような気分ではないのですから、ただその僅かばかりの砂は、さらさらと深い陰のなかに消えゆくばかりです。


「スグルと過ごした時間の分の過去だけ、あいつがスグルを想うなら……わたしはせめて今のこの気持ちを、上手に伝えてあげないといけなかったのに!」


 それは、つねに『理想の自分』を実現し続けてきた銀髪の美少女が初めて抱いた、理想と現実の自分の乖離に対する、情けなさでした。


 陳腐な言い方をすれば、彼女は恋をして変わったのです。恋をして新たな世界と出会ったのです。

 ようやく辿り着いたと思われていた景色は決して終着点などではなく、むしろそこからが始まりであるような世界なのだということに、彼女はようやく気付いたのです。


「どうして今まで平気な顔していられたのよ……変わらなきゃ……こんな不甲斐ないままで、いいはずがないでしょ……!」


 独りであった頃には抱くことのなかった、心がねじ切れてしまいそうなほどの、途方もない口惜しさ。


 彼と出会うことがなければ目を向けることすらなかった、腹立たしいまでの自身の未熟さ。


 それらの自覚が強く、彼女の背中を押すのです。


「もっとかわいくなりたい……! スグルが頼りたいと思ってくれるような彼女になりたい……! もっとスグルの力になりたい……! スグルの支えになってあげたい……! もっと、もっと……!」


 それはきっと、彼女がこれまでの人生で、疑うことすらしなかった――

 

「もっといい女になりたい……!」


 ――不知森野分という美少女の絶対性を脱ぎ捨て、前に進み始めた瞬間なのでした。



   ☽



 その後まもなく、年若い男女が夏の大三角の下で乱れ始めてしまったので、私とノワキは急いでその場を後にしました。普段からそれを見て慣れているはずの私も、なぜだかこの時ばかりは気まずさを感じてしまいました。私もまた知らず知らずのうちに、夏の夜の特別な雰囲気に中てられてしまったということなのでしょうか?


『ノワキ。心の成長の褒美として、旅館の売店でアイスを一つ奢ってあげましょう』

「どこ目線なのよ」


 海水浴場と旅館の間の街道を、私たちは並んで歩いていました。


 もはやここまで波の音が響くこともありません。

 べたつく飴のように湿度の高い夜を支配するのは静寂です。チカチカと明滅する街灯の明かりに照らされた静謐な空気を、私とノワキの歩みがいたずらに引き裂いていくようでした。


「じゃあ雪見大福がいいわ」

『自分のキャラに合わせて無理をしていませんか? もっと自分に正直になっていいのですよ』

「わたしは芸人じゃないのよ」


 ノワキはすっかり泣き止んでいました。少しばかり目元が赤くなっていたり、頬に刻まれた涙の跡を電灯の光が晒してしまっていることは、もうしばらく言わないでおきましょう。指摘したらこちらを向いてくれなくなってしまうでしょうから。このような時おにーちゃんなら、美少女が弱りきった姿には筆舌に尽くしがたい魅力があるのだ、と言うはずでした。


『私はモナカが好きです。先日おにーちゃんが買ってきてくれたので』

「そうなの。なら、雪見大福とモナカ、売店にあるといいわね」

『モナカしかなかった場合、一欠片だけ分けてあげます』

「ふふっ、ありがとう。優しいのね」

『逆に雪見大福しかなかった場合は、一つもらいます』

「まさかわたしが奪われる側になるなんて思わなかったわ」


 互いの好きなアイスを知った私たちは、その後も詮無い話を続けながら、ゆっくりと旅館まで戻ったのでした。

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