37 ……?? つまり自分に甘かったってことなんだわ? できるまでやればいいだけなんだわ!
――期待されるのがしんどかった。
最初は全力で、家族のために、頑張ろうと思っていた。何があっても、三人でやっていこうと決意した。
家には妻と娘がいる。生まれ故郷から離れて、全く知らない世界でたった三人。けれど三人、たしかな絆で繋がれた三人ならば、あまりに無謀なこの挑戦も、乗り越えられるものだと思っていた。
世界は厳しかった。誰にも平等だった。思うようにはいかなかった。俺は世界を知らなすぎた。
村での俺らが、どれだけ守られた存在だったのか、身に染みて実感した。金を稼ぐ、飯を食う、落ち着いた気持ちで笑い合う――これらのちっぽけな幸せが、どれほどの努力と苦悩の末につかみ取れる幸福であるか、俺は知らなかった。
俺は、端的に、人生を舐めていたのだ。
それを悟った時から、俺のなかには焦りが生じはじめた。もしかしたら、無理なのではないか。あいつらの期待に応えることは、できないのではないか。
俺は――大切な二人すら笑顔にすることのできない、ろくでなしなのではないかと。
心に生まれたそんな弱気を、俺は何度か妻に吐き出していた。そうすることでいくらか楽になれると思っていたし、妻もまた、俺に一人で悩みを抱え込んでほしくないと思う女性だったからだ。多少は情けないところを見せても、支え合って生きていける、それが家族というものだと思っていたからだ。
たしかに最初のうちは、それでよかった。自らの無能から生じる苦しみも、妻にそれを明かし、時には慰めてもらうことで、多少は和らぐのだった。それでしばらくはまた、気持ちを切り替えて頑張ることができた。こんな俺でも愛してくれる妻と娘を、悲しませたくなかったから。あいつらの期待に、好意に、応えてやりたかったから。
――だが、その気持ちは長続きしなかった。
どれだけ苦労を重ねても、状況が好転することはない。なにか策を打つためのスキルもなければ、頼れるコネや伝手なんてものも当然皆無。俺は家を出たら、もう一人で頑張るしかなかった。
その変わり映えのしない地獄が、徐々に俺の感覚を、麻痺させていった。
最初は妻の存在が、あまりに愛おしかった。娘は宝物のように愛らしかった。二人のためならば、俺はいくらでも頑張れると信じていた。
けれども、俺の意思と反して、現実は一向に良くならない。妻が、娘が、愛してくれている。家で信じて待っていてくれている。
……だというのに、俺はその期待に応えられない!
――ダメだった、その次もダメだった、しかし次こそは、そんな決心に意味もなく、さらにさらに次こそはと前を向いても、現実は頑として動かず、さらに次の決意も、無情にも折れ……今度こそは、この次こそは、明日こそは、明日さえ、一度でもなにか希望があれば――……
俺は一体、何をしているのか分からなくなった。
野風は! 野分は! 俺の愛すべき家族は、俺をこんなにも信じてくれているというのに……どうして俺は、その期待に応えられないのか。その愛に報いることが、できないのか。
不甲斐ない、情けない、自分が許せない。果てしない無力感が、俺の世界を覆い尽くした。
――だというのに、愛しい妻は、そんな俺をいつまでも信じ続けてくれる!
まるで幼子のように無垢な瞳で、ただ俺のために存在するのではないかとすら錯覚してしまうほど、俺のことばかり考え、俺と娘だけを愛してくれる妻。
――だというのに、俺は二人を幸せにしてやることができない。
ノカゼは俺を愛してくれる。
――だというのに、俺はそれに何一つ返してやれない。
ノカゼは俺を信じてくれる。
――だというのに、俺はそれを幾度も裏切り続けている。
そのことが、そのことばかりが胸の内を支配する。どうして俺はこんなにも非力なのか。どうして俺はこれほど果敢ないのか。
考えれば、考えるほど、どん詰まりになっていく。
ノカゼにノワキに応えたいと思っていた心が、だんだんと鈍っていく。
頭のなかを、暗い未来が立ち込める。
最初は希望だったはずのそれが、頑張る理由だったはずのそれが、ゆっくりと姿を変えていく。
俺の生きる意味。それのためならば、どれだけ苦労しようと構わないと思えた、存在理由。妻と娘、二人からの愛情。
それが……いつの間にか、重い、重い枷のようになって、俺を縛り付ける。
二人を幸せにしてやりたい、二人のために頑張りたい――だというのに、俺はそれに応えられない。そんな現実が、そんな思いが大いなる重圧となって、俺に襲い掛かる。
――それなのにそれなのに、ノカゼはまだ俺を見放さない。ノカゼは変わらず俺を愛してくれる。
その愛が、俺には痛みとして伝わってしまった。
ノカゼに愛されるたびに、無能な俺を責められているような気持ちになる。
ノカゼが信じてくれるたびに、不甲斐ない俺を嗤っているのではないかと疑ってしまう。
――もう、やめてくれよ。
――もう、愛さないでくれよ。
――もう俺は、今にも潰れちまいそうだ。
――これ以上、その愛で、俺を縛らないでくれ。
『……無理だ。……俺には無理だよ、できなかったよ……ノカゼ……』
俺はもう、疲れ果ててしまったから。
俺はお前らのことを、幸せにはできなかったから。
だから……不幸なのは俺だけでいいから。
立ち止まってしまった俺なんか置いて……お前ら二人だけでも幸せになってくれ。
でないと、それすらも聞いてくれないと言うなら――俺はもう、どうなってしまうか分からないから。
ツツジ「鬱は甘えだわ」




