23 わんわんわん、スグルとの初めての入浴イベント、取られちゃったんだわ!
僕は血迷っていた。なぜなら、シラガミを家に連れてきてしまった。……大した理由はない。ここから神社はちょっと遠かったし、服も濡れていたので、まずは一度帰宅しようという、ただそれだけのことだ。
「……ただいま、母さん」
「おかえりスグル。……あれ、誰かいるの?」
いつもより足音が多かったためか、母さんが片頬に手を当てて首を傾げる。
「うん。友達だよ」
「え……スグル、本当にお友達いたの……!?」
「いるよ!」
ヨウの話はしているのだが、一度も信じてもらえたことがない。エルに関しては存在を秘匿している。僕に彼女がいることを、母さんはまだ知らないのだ。
そのせいで、母さんは僕を学校でぼっちだと思い込んでいる。僕の容姿や過去のことを考えたら、仕方のないことだが。
『おじゃまします』
「しかも女の子!? ……大丈夫!? 正気は保ってるの!?」
と言って、母さんは手探りでシラガミの髪や頬や肩をぺたぺたと触る。
シラガミが僕の顔を見ておかしくなってしまったのではないかと危惧しているらしい。さもありなんだが――
「へ、平気だよ母さん。こいつは、その……」
「……その?」
まずい、シラガミが僕に惚れない理由を考えていなかった。まさか「女神だから人の魅力なんて効かないんだよ」とか馬鹿正直に言うわけにもいかないし……
それっぽい言い訳を考えろ。同性愛者、無性愛者、B専――どれもダメだ。僕の魅力はその手の傾向すらねじ伏せる。人の心がある限り、僕に惚れない道理はないのだ――!
クソ、考えろ、考えろ――!
……と、僕が思考回路をオーバーヒートさせていたら。
『……おにーちゃん』
ぽつりと、シラガミが呟くのだった、至って真顔で、至って平坦な声で。
「へ……?」
「な……っ」
なんのつもりだ、シラガミ……!
☽
僕も彼女も雨でずぶ濡れだったので、とりあえずシャワーを浴びようということになったのだが、シラガミが図々しくも『湯浴みがしたい』などと言い出した。ので、お湯を沸かしてる間に僕がシャワーを浴び……ようとしたら、シラガミに腕を掴まれ、『一緒に入ろう、おにーちゃん』と誘ってきたのだった。……なんでだよ。
そういうわけで、僕は今……湯けむりが漂う浴室に、裸になったシラガミと二人。浴槽に入って、お湯に浸かり、体を温めていた。
『気持ちいいですね、おにーちゃん』
「どういうつもりだよ、お前」
シラガミが脱力したように息を吐き、もたれかかってくる。15歳程度の華奢な彼女の体は、僕の体にすっぽりと納まっていた。
何を考えているのか分からない女神は僕の肩の辺りに頭を乗せて、こんなことを言ってくる。
『親のいる家で私に襲いかかってはいけませんよ。神である私の裸体に興奮してしまうのは致し方ないことですが』
「僕に惚れるような女神に、誰が興奮するか」
『……なるほど。たしかに興奮していないようです』
「おい、今なにで確認した」
確かに先ほどから、シラガミの絹糸のようにすべすべしていて白い肌は、僕の体のあちこちに密着しているし……
今の会話の前後で彼女は、何かを確かめるように僕の懐で身じろぎしていた気もするが。
『私が今、如何にしておにーちゃんの性的興奮具合を確認したのか? それを口に出すのは容易なことです。しかし、おにーちゃんはそれを望まないでしょう。なぜならおにーちゃんは平凡を求める人なのですから』
「……その通りだよ」
よくできた妹だ。
「……で、それだ。妹。なんで妹なんだよ。もっといい言い訳あっただろ」
『一般的に、兄妹は兄妹でしかなく、家族でしかなく、恋愛関係には発展しないものです。言い訳としては上等なものと言えるでしょう』
「いや、妹っていうのは兄が好きな生き物のはずだろ」
『それはおにーちゃんの大好きなエロゲーの話であり、現実の妹が兄に対して恋慕の念を抱くことは稀です』
「も……もし僕に妹がいたら、まず間違いなくその『稀』なケースになるって話をしてるんだっ」
だって…………僕は、実の母からさえ、異性としての愛を向けられてしまったのだから。妹なんて、建前にすらなりはしないだろう。
『では、おにーちゃんには私が正気を失っているように見えるということでしょうか』
「神の世界では、特に接点のない人間に混浴を提案するやつが正気扱いなのか?」
『豊葦原では、偶然出くわした女神を家に連れ込むのがまともな人間なのでしょうか』
「お前は正気みたいだ」
『それでいいのです』
……実際、シラガミと話していたら一目瞭然だが……こいつには理性がある。僕に惚れた女は普通、催眠にかかったみたいに僕のこと以外考えられなくなってしまうものだ。そんなやつらと、懐で気持ちよさそうに目を細めている女神が、同じ状態だとは……考えにくい。
まあ、だとしたらこいつが僕に執着する理由が分からなくなるから、結局謎は残ったままなのだが。
「じゃあ、お前は別に僕のことが好きじゃないんだな」
『いえ、私はおにーちゃんが好きです』
「は?」
『私は――強く、強く、おにーちゃんに恋しているのです。正気のままで、という但し書き付きですが』
……僕はなにを指摘するかしばらく迷い、結局、
「……兄に恋する妹は正気じゃないよ」
なんとも弱弱しい反論をしてしまう。
『その場合、たしかに私は正気ではないと言えるでしょう。それは正しいのでしょう。しかしそうした人間は得てして、このようなありふれた文句を思い浮かべるのです。――正気のままで恋などできるか、と』
「詭弁だ」
『どちらかと言えば開き直りです』
「分かってるなら……、……はぁ」
こちらがどれだけ言っても表情一つ変えないシラガミに、なんかもうどうでもよくなってきた。
「……もういいよ。好きにしろ」
『はい、おにーちゃんを、私のことが大好きにしてみせます』
「神って意外とバカなんだね」
どこぞの美少女たちのような曲解をする。
『ふんふん♪』
「急にどうした」
『気分がいい時の感情表現として、鼻歌を歌っているのです』
「『ふんふん』って声に出してどうすんだ。鼻歌なんだから、ハミングしろよ」
『ふんふん♪』
聞いちゃいない。
「……妹設定なんて、母さんにどう説明するんだよ。最初に友達って言っちゃったのに」
『年下の女友達に「おにーちゃん」と呼ばせている、という設定で問題はないでしょう』
「ありまくるでしょうバカかお前は」
第一、それじゃシラガミが僕に惚れない理由になってない。……もうその辺はうやむやにできそうだからいいと言えばいいんだけど。
「というか、母さんのいないところでまでその呼び方する必要なくない?」
『おにーちゃんはおにーちゃんなのです』
「そうかい」
なんだかもはや、何の意味もない設定のような気もしなくないが……まあいいだろう。どうせシラガミを三手白神社に連れ戻すまでの、今日だけの話だ。
シラガミが僕に惚れることもなく。母さんがシラガミの素性を疑うこともなく。瞬くうちに過ぎ去る台風のような出来事。そして僕は前回日本に上陸した台風のことなんて覚えていない。
――こんなものは、そんなものだ。
だから、大丈夫、大丈夫……
『――大丈夫ですよ、おにーちゃん』
それは、僕の心を読んでいた故か。
図ったようなタイミングで、僕の独白の続きを引き受けるシラガミ。
彼女は僕の肩から頭を離して、その水晶のような輝きを持つ双眸で、僕に比肩するほどの美しい相貌で、僕をしっかりと、真正面から見つめて。
『私は、あの時の更科雅や、最終的に自らの身の破滅を招くこととなった様々な人々とは違うのです。神である私は、私を見失わないままに、こんなにもおにーちゃんを恋いているのですから』
淡々と、坦々と――一定の声色で、シラガミは言葉を紡ぐ。
『そして……それは、不知森野分も同じです』
「……っ」
その名前が出た瞬間、僕の体は震えてしまった。風呂の湯がひかえめに波打ち、少しばかり浴槽から溢れてしまう。
数刻前の……絶望が。思い出しただけで、心臓を締め付けられるような悲しみが去来する、あの光景が。否が応でも、脳裏に過ってしまうのだ。
『不知森の末裔である彼女が、そう易々とおにーちゃんの魅力に屈することはないでしょう。おにーちゃんは安心してノワキと関係を深めればよいのです』
しかし、それと同時に気づくことができた。
シラガミと風呂に入ってしばらくは、彼女のことを……彼女の家で見たことを、忘れることができていた自分に。
「シラガミ、お前……」
もしそれが、眼前の少女のおかげだというのなら。
『おにーちゃん、「特に接点のない人間に混浴を提案する」女神は、正気ではないのでしょうか』
「分かったよ、降参だ。……ありがとう」
『……にこー』
優しい女神の満面の笑みに、僕は深く感謝するのだった。




