22 少しはツツジの笑顔を見習ったらどうだ。癪だけどかわいいからな。
ふらふらとした足取りで帰路に着く。
心を埋め尽くすのは、茫漠たる虚無感、暗澹たる喪失感。僕は一人だった。
少し頭を冷やす時間が必要だろう。
僕があの家で見たものに対して。感じたことに対して。正確な理解が求められる。
ざあざあと、厚い雨雲から槍のように雨が降っては僕の全身を濡らしていく。傘を差すのも億劫だった。
不幸中の幸いは、この雨により人通りが少ないことだ。
今はもう、誰にも会いたくない――
『スグルはどうしたのでしょうか』
「……お前」
と思った傍から、面倒なやつに出くわしてしまう。面倒なやつなので、彼女の方を向くのも僕は面倒になって、半ば無視するような形で歩き続ける。
鈴を転がしたような綺麗な声なので、顔を確認しなくたって誰だか分かる。
しばらく行方が分からなくなっていたはずの、女神――白足恋染津媛命。シラガミだった。
『スグルがそのような悲しい顔をしていると、私はとても悲しくなります。どうにかしてあげたいと思うのです』
「そりゃどうもだよ」
いったいなんの気まぐれでそんな風に思うのか知らないが。
とにかく放っておいてほしい僕は、彼女に努めて素っ気ない素振りを見せる。
『ノワキの家にて起きた惨事を、私はずっと見守っていました』
「……勘弁してくれよ」
『スグルが望むのなら、もう一度《片恋目》を――』
「いらない」
『そうですか』
「ズミたちの元から逃げ出したって聞いてたけど、今更になってどうしたんだよ」
『私はスグルが心配になったので、会いに来たのです』
「……心配?」
思わず、シラガミへ視線を向けてしまう。
相変わらず、ため息が出るほど美しい女神だ。
現代じゃ大河ドラマくらいでしか見ない古風な長い髪は、雨粒に打たれて常よりいっそう青みがかっている。
その造形は間違いなく日本人のものなのに、水晶のような輝く瞳が、彼女から人種とかそういう陳腐なものを超越した、完全な美を感じさせるのだ。
……本当なら僕は、今は誰にも会いたくないし、話したくもないんだが……
まあ、いいか。女神だしな、シラガミは。なんかこいつ、とり憑いた(?)人の心とか読めるらしいし、余計な気を遣わなくていい分、人間を相手にするよりは疲れないだろう。
「……そういえば、お前はヨウにも魔眼を渡したって聞いたけど……バカなことしたな。あいつが使うわけないだろ」
『そうでしょうか? 彼は迷っていました。私の力を使えば、スグルの美しさを超えることができるかもしれない――と』
「そりゃあ、迷うくらいはするだろうね。人間なんだから。でも、思いついても、迷っても、実行はしないやつなんだよ、ヨウは。あいつは誠実だからな」
僕とは違って。
『私はアキラを真の意味で理解できていなかったようです』
「お前、人の心が読めるんじゃなかったのか」
『私が本当に分かってあげられるのは、スグルのことだけなのです』
「お前みたいな女神に分かられた覚えはないんだけどね」
『スグルは私のことが嫌いなので、そのように冷たく当たるのです』
よく分かっているようだった。
「それで、なんの用だよ。僕もヨウも魔力を集められなかったから、焦ってまた僕のところに来たってわけか?」
『それは違います。私はただスグルが心配になって会いに来たのですから』
「だから……なんでだよ」
なんで。……それは考えてみれば、ずっと思っていたことだった。
この際なので、訊いてみる。
「なあシラガミ、なんでお前は魔眼の提供者に僕を選んだんだよ。人間嫌いの僕に『片思いしなくちゃ使えない力』を与えたって、意味ないのは分かるよね。はっきり言って、人選ミスだよ」
その答えはきっと、この女神が僕に執拗に構ってくる理由とも同じものだ。
僕はその理由をずっと、シラガミが僕に惚れているからだと考えていた。
……しかし。
今はなんとなく。そんな頭に染み付いた考えを……傲慢だ、と思ってしまう。
本当に、シラガミが僕に惚れたのか? 僕の美は、それほど絶対的なのか? もしそうなら、どうして彼女は、僕を優先してくれなかったのだ……と。
『スグルの疑問を直ちに氷塊するような回答を、私は確かに持ち合わせています。しかし、口頭で告げられる言葉というものは、あまりに実感を伴わないものです。いかに聡明なスグルと言えど、私が発する言葉に込める意味の裏の裏まで読み取れというのは、それこそ人の心でも読めない限りは、酷な話なのです』
「長い。つまりどういうことだ」
『教えたくありません』
「…………」
彼女の顔を軽く睨むように見つめるが、シラガミは怖いくらいの真顔をまったく崩さない。無表情の比喩とかじゃなく、能面でも被っているんじゃないか? この女神は。
『スグルがそのように感じるのは仕方のないことでしょう。しかし、感情というものが肉体に表出するには、神の御魂は些か――』
「勝手に人の心を読んでぺちゃくちゃ語り出すな。僕は聞いてないから」
『……にこー』
いきなりシラガミが、僕の話も聞かずに、笑顔になった。
いや……笑顔と言っても、ただ表情筋をX軸上で動かしているだけだが。目が全く笑っていないのでとても不気味なものだ。
「なにしてるんだ」
『スグルが私に表情による感情表出を求めていたので、私は自らの感情に従って表情を変質させることにしました。スグルと会話ができて嬉しい私は、満面の笑みを浮かべています。……にこー』
めげずに、不気味な笑顔。目が笑ってないので満面ではなく半面の笑みだ。
「神というよりアンドロイドみたいだな、お前」
『にこー?』
シラガミが本当に機械仕掛けの神なら、過程などすべて無視して今すぐ僕に平穏な結末をもたらしてほしいところだが……まあ、所詮は八百万いる神のうちの一柱、それも恋愛の神だ。シラガミにそんな大それた所業を期待するのはお門違いなのだろう。
『スグル、「八百万の神」というのは、「八」という数字が持つ末広がりの意から、「数えられないほど多くの神々」と言う意味の言葉であり、実際に800万の神がいるということではありません』
また心を勝手に読まれた上に知識マウント取られた。
こいつといるとムカつくだけなのでさっさと家に帰ろう……と思い、早足にしたはいいんだが。
……そもそも今、こいつはどういう状態なんだ? 魔術なんてなにも分からない僕の想像だと……こう、神ってのは神社の本殿に安置された神体に取り憑くようにして祀られているイメージがあるんだが……僕の横をついて歩くシラガミは、自由にそこらをほっつき歩いている。さざれやズミは神社から逃げ出した的なこと言ってたけど、なら、連れ戻した方がいいんだろうか。
『私はずっとスグルを見守っています』
またまた心を読んでこんなことを言っているが、どこまで信用できるか分かったものではない。
やはり、シラガミと行動を共にするのは危険だろうか。
『神のことについて何も知らないスグルが、私を警戒するのは当然でしょう』
本人(本神?)もこう言っているし、早急にこいつと別れて帰るべきだ。
『しかし、スグルに信用してもらえないことに、私は少なからず悲しさを感じてしまいます。……えんえん、しくしく』
……帰るべき、なんだが……
「笑顔だけじゃなくて泣き真似も下手なんだな」
『神である私の感情表出が不得手であるはずはないというのに、スグルは異なことを言います』
まあ……信用できないやつを、野放しにしておくわけにもいかないしな。
シラガミのド下手な泣き真似に絆されたわけではないが、ここは柔軟に対応していこう。
「ついてこい、シラガミ」
『……にこー』
雨模様の空の下に、無機質な笑顔が咲くのだった。




