34 これが私のセカイ。
水分高校の屋上に着くと、放課後である今はもう太陽が沈み始めていて、空の色もすっかり変わっている。「茜色の秋空」「焼けるような茜色の夕空」なんて表現は何度も読んできたけど、この空の色が「茜色」だって分かるようになったのは、つい最近。
「えっと……話ってなにかな、芝蘭堂くん」
――シラガミ様の、力になってあげたいな。
最初のうちは、そう思っていたけど。
今では、こんな思いをするくらいなら、目が見えない方がよかった……なんて、ちょっと前の私だったら絶対にありえないようなことまで、思ってしまう。
ちょっと考えれば、分かりそうなことだった。……というのも、今だから言えること。
だって、あの時は思わなかった。想像もつかなかった。
優くんが他の女の子と仲良くしてるのを「見る」のが、あんなに辛いだなんて。
「お、おお。来てくれたか……源さん。……」
――シラガミ様の助けになろうと思い立ったあの日、私と優くんは、どうすれば優くんが私以外の子に片思いできるか、二人で相談していた。……すっごく変なことしてるのは、分かってるんだよ?
でもその話し合いで、優くんが異性に片思いする上で欠かせない、二つの条件がはっきりした。
・美人を見慣れている優くんでも好きになれるくらい、とびぬけてかわいい子であること。
・優くんを見ても一目惚れしないくらい、癖のある子であること。(美醜の感性が人と大きく違うとか、私のようにそもそも優くんの顔が見られないとか、そういうの)
人を判断するのに容姿を重視する晴眼者の感覚が私にはないから、本質的なところでは理解してあげられなかった。私は以前、他者を視覚以外で判別してたから。
でも、優くんの顔が他の人より「整ってる」のは分かってた。彼の顔を触れば、輪郭がシャープで、唇の端から端が平行で、鼻先から目尻までのラインも、両方等間隔なことは、確かめられたから。顔の造形が整ってるのがかっこいいとかイケメンである基準の一つなら、たしかに優くんは晴眼者からするとイケメンなんだと思う。もちろん、私だって優くんを一番かっこいいと思ってる。特に好きなのは彼の声。男らしくて、渋すぎない低さの綺麗な声で、エル、エル、ってたくさん私の名前を呼んでくれるのが好き。会って間もない頃、私に話しかけてるってことを分かりやすくするためにそうしてもらってたのが、今も続いてるの。あの声で耳元で囁かれるの、私すっごく弱くて、全然慣れなくて……
「いや、その、なんだ。さすがにアレだってのは、オレも分かってるんだが……いや。そうじゃないな。……ふぅ」
……そうじゃない。バカバカ。今は優くんの声はどうでもいいの。よくないけど、いいの。
そうじゃなくて、えっと……だから、優くんがとってもかっこよくて、その分だけ女性関係で苦労するのは、私でも分かるってことを言いたかったんだ。きっと人類はみんな優くんのことが大好きなんだよね。それはしょうがないことだと思うよ。だってかっこいいもん、優くん。
……と、とにかく、だからその二つの条件は大事だって言うのは、私も納得できた。
そして、その条件にぴったり合致する……かもしれなかったのが、一人だけいたの。それがあの子だったんだよ。ちょっと前に、【夜のアザレア】って綽名でTwitterで話題になってた、十六夜躑躅。
躑躅の噂は、水分でも……というか、この街にいれば嫌でも耳にする。引っ越してきてからびっくりしたけど、曰く、普通に犯罪者。他者の判断基準が外見のみというひどいルッキズムの人間で、容姿に優れない人の財布を盗んだとか、自転車で轢いたとか、家に火を放ったとか、そういうのをよく耳にした。かわいいから許されてるだけの野蛮人だって聞いた。逆に言えば、それだけかわいい。何をしても許されるくらいの、ものすごい美少女だってことになる。
だから優くんは……十六夜躑躅を好きになろうと決めた。それだけ噂される美少女で、癖も強いなら、優くんの姿を前にしても、自我を保っていられると思ったから。
でも、やっぱり優くんは心配だったみたい。たくさん期待して、たくさん裏切られてきたという優くんは、今回もその少女に期待して、それでまた落胆させられるのが、怖かったみたい。
『だから、ひとまず様子を見ようと思う。直接会うのは避けて、まずは十六夜躑躅がどんな人間か、この目で見極めるんだ』
『どうやって?』
『それは…………』
――それが、優くんのストーカー生活の始まりだった。どうかと思う。実際にそう言ったら、その日は優くんにたくさんいじめられた。ひどい……。
それからしばらくの数か月間、優くんは躑躅の登下校を尾行した。
「――源さん、好きだ。オレと付き合ってほしい」
少し離れたところから、十六夜躑躅という女の子が、どんな見た目で、どんな風に喋って、どんな子と付き合いがあるのか……それを元に、面と向かって話してもいい相手かどうか、決めようとしてた。
だから……あの日は本当に驚いた。約一か月前、
『ごめん、エル。ストーカーバレちゃった』
『えぇ!? だ、大丈夫なの……? 通報とか……』
『うん。僕がお願いしたら、言うこと聞いてくれたよ』
『……それってことは、あの子……やっぱりダメだったの?』
優くんの顔色を窺うように、そう聞いた。十六夜躑躅が、優くんに一目惚れしちゃって、だから言うことを聞いたんだと思ったから。
『いや、そうでもないみたいだ。ツツジと……あと、隣にいたやつも。僕を見てたしかに驚いてたけど、他の女とはやっぱり様子が違った。あんまり好意的に振舞うとアウトかもしれないけど、そっけない感じでいけばあるいは……』
『そっか、よかった。ううん、よくないけどね? 本当はなにもよくないんだよ?』
私は少し嫌な気持ちになって、優くんにぎゅっと抱き着いてしまった。
『そうだな……まあ明日あたり、会話くらいはしてみるよ。それでダメならそれまでだ』
『うん……』
それからはしばらく、順調だった。
『優くん、今日のプールで介抱してた子って、もしかして……』
『あいつが不知森野分だよ。ほら、スタバの』
『協力してツツジを惚れさせよう、みたいなこと言ってきた子……だっけ』
『まあどこまで本心かわかったもんじゃないけどな。あいつも癖のある女だよ。もしかしたら、ノワキも好きになれるかもしれない。ツツジがダメになったらあいつで試すよ』
授業中に突然やってきたり、部活中の優くんを見にきたり、球技大会に紛れ込んだり……躑躅と野分の二人は、とにかくやりたい放題だったけど。
『……ねえ……他の子を好きになるのはいいけど……それで私のこと、どうでもよくならない……?』
『バカなこと言うなよ。あいつらとはどうせ《片恋目》が使えるようになるまでの関係だ』
『そうだよね……』
『僕は……エルと、母さんと……あとヨウとズミあたりがいてくれたら、他はどうでもいいよ。せいぜい便利に利用するだけして、捨ててやるさ』
『嘘つき。優くんは、自分で思ってるよりも悪いことするのがへたっぴなの、知ってるから』
『……実は、ちょっと悩んでるよ。割り切った関係のつもりだったのにな』
『じゃあ、今日は私で全部忘れちゃっていいよ』
『……そんな誘い方、いつ覚えたんだよ』
『……えへへ』
でも、それはそれだけ順調だってことだった。それだけ優くんと一緒にいて、二人はまだ正気を保ててる。優くんに惚れてない。それはそれで見る目なさすぎるなって思うけど、私たちにはいいことだった。
『今日の動物園、どうだった?』
『優くんと一緒に回りたかった……』
『僕はヨウの恋路を本気で応援してるだけなのに』
優くんは少し頭がおかしいから、私のことが好きで取られたくないはずなのに、芝蘭堂くんの恋は全力で実らせようとしてる。
部活の件だって、今回のデートだって、優くんが芝蘭堂くんのために仕組んだものだって聞かされてる。
私が今、芝蘭堂くんから告白されてるのも、どうせ優くんは知ってるんだよね?
『恋人と親友、どっちも大切だろ? 僕はエルを取られないように頑張る。あいつはエルを振り向かせるために頑張る。僕はそんなヨウを応援する。ただそれだけだよ』
『……優くんは嫌じゃないの?』
『嫌だよ。でも、そんなのはエルの彼氏である僕の都合だ。ヨウの親友である僕は、あいつを応援したがってるんだよ。そこに矛盾はない。少なくとも、僕の中では』
二重人格みたいなこと言ってるけど、優くんは別にそんなことなくて、ただちょっと頭がおかしいだけ。多分、本当に言葉通り。どっちも大切すぎて、それでおかしくなっちゃったんだと思う。
『どれだけ優くんが頑張っても、私、優くん以外を好きになんてならないからね?』
『なんでだよ。ヨウ、いい奴だぞ』
『それでもっ』
私はまた、優くんに甘えるようにもたれかかった。
『……優くんからツツジの匂いがする』
『躑躅の花って匂いしなくない?』
『そうじゃなくて……! もう……っ』
優くんが笑う。それで私も、自然と笑顔になってしまう、人って、笑うとこんな顔になるんだって、ようやく知ることができた。優くんの笑ったところが見れる。それだけのことが私にはとても嬉しい。
……でも、それだけじゃない。
シラガミ様からもらったこの眼は……私が見たくないものまで、はっきりと映してしまう。
「ごめんね。隠してたけど、私、更科くん……優くんと付き合ってるの」
小うるさいツツジに鬱陶しそうな顔を見せながらも、なんだかんだで楽しそうな、優くんの姿。
明らかに好意のある素振りでべたべたくっつくノワキを、特に嫌がるでもない優くんの姿。
――嫉妬。醜いって、子供みたいだって思うけど、抑えられない。
知らなかった。自分がこんなに嫉妬深かったなんて。
知らなかった。私以外に笑いかける優くんを見るのがこんなに辛いなんて。
全部全部、この魔眼のせい。優くんが見えなかったら、こんなこと思わなかったのに。
そんな、以前だったらありえないようなことを、思ってしまう。
「………………………………は?」
だんだんと、私と優くんがなんのためにこんな馬鹿みたいなことをしてるのか、分からなくなってくる。自信がなくなってくる。自分たちの行いが、間違ってるんじゃないかって。見える分だけ、不安になる。この先にあるのは、破滅なんじゃないかって。
今も優くんは、二人とデートしてる。
私が芝蘭堂くんに呼び出されている今この時も。芝蘭堂くんが呆気に取られたように真顔になってる今も、優くんは――
「ね、ね、これ白住だよね?」
「ん……あ、ホント――え、火事? あそこ燃えてんの?」
「なんか生徒が火つけたって書いてる」
「なにそれ……さすがに治安悪すぎでしょ……」
「というかこれ……『白住に更科優来てるー!✨ 校舎は燃えたけどもう全部帳消し、御尊顔拝めてマジでラッキー☺』……更科くんの目撃情報出てるんだけど」
「あ、なんか腑に落ちた。あれだよ、更科くんに片思いしてた例の十六夜躑躅」
「ハンカチ拾ってもらって惚れちゃったって子?」
「そそ、あの子が失恋の悲しみで火ぃ付けたんだよ!」
「だとしたらヤバすぎるけど……」
――――え。
その声は、四階の教室から聞こえてきた。普通の人には聞こえないかもしれないけど、私はちょっと耳がいいから、屋上からでもクリアに聞こえる。多分Twitterかなにかを見てるんだと思う。
そんなことはどうでもよくて……今の、話の内容。
白住が燃えてる?
そこに優くんがいる?
……なんで?
優くんは今、躑躅たちとデート中じゃないの? なんでそれで白住に……
……分からない。分からない……。
もう私、よく分からないよ。優くんがあの二人と知り合ってから、こんなのばっかり……。
なんで?
私はただ、優くんと幸せでいたいだけで……。
シラガミ様の眼だって、本当はそのためのものだったはずなのに……。
これじゃ、全部、真逆。
むしろどんどん、嫌なことばっかり増えて――
「――」
我慢が限界に達した私は、すぐにそこへ向かおうと決めた。分からないこと、この目で全部確かめる。それで、この胸のもやもや全部、優くんにぶつける。もう私は、シラガミ様とか魔眼とか、どうでもよくなってた。
「それじゃえっと……急いでるから! ごめんね芝蘭堂くん、また明日ね!」
「あ……ああ…………」
青ざめた顔で反応も薄い芝蘭堂に一礼して、私は全速力で階段を降りていく。
――待ってて、優くん。
――今行くから。この目であなたのこと、見つけてみせるから。
――ごめんね。今から全部、台無しにしちゃう。
――シラガミ様、恩を仇で返すようなことして、ごめんなさい。
――でも、もう私……あんなの見たくない。だから……。
いろんなことを考えながら、私は白住学院を目指して走った。
エーデルワイス「そういえば私、白住の場所知らない……!」




