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33 だからこそ、見えなくたってよかったんだ。なあ、ノワキ。

 ――燃え盛る炎の中を、一条の金色が奔った。


 まばゆいばかりに閃く光と見紛うそれは、一人の少女。


「追いかけっこはおしまいですわ、粗悪品の皆さま」


 炎々と広がる災害現場に揺らめく金の正体は、この国では珍しい彼女の特徴的な髪色が魅せる幻影であり。


「ひぃっ!? く、来るな、このバケモンが!」

「んなもんどっから手に入れやがったんだよ、チクショウッ!!」

 

 またその金髪よりいくらも珍しいのが、彼女が右手に構えている一丁の拳銃であった。


 グリップに施された荒波と三日月の紋は、既存のあらゆるピストルにも見られないものである。


 故にその紋が――海と月の家紋が示すところは一つ。


「この世界には、魔術というものが実在しますの」


 ――その拳銃は科学の産物ではない。


「世界のあらゆる物質は、魔力という不思議な力によって構成されていますわ。科学ではそれを、原子などと呼んでいますけれど」

 

 金髪の少女が片手で悠々と構える拳銃――その銃口から伸びた緑のレーザー光は、15m前方で腰を抜かして怯えている凡夫の額を撫でる。


「わたくしたちが生きて、会話をし、触れ合い、食事を摂り、眠りに落ち、恋に落ちることさえも――魔力の複雑な働きによるものでしかありませんわ」


 少女が優雅に語るは、この世の真実。永い歴史の中で権力者達により迫害され、重宝され、秘匿され続けてきた世界の原動力。


「ですから、気にすることではありませんわよ。魔術の存在を知らない一般人が束になったとしても、わたくしのようなか弱い少女にすら指一本触れることができないのは――それは自然の摂理、仕方のないことなのですから」


 ――バスバスバスッ!


「うっ――」

「がっ――」


 少女がトリガーを引く度に、拳銃の形をしたその凶器は、男たちを一人、また一人と途轍もない衝撃で炎の大海原へと吹き飛ばしていく。


「我が国の魔術師が防衛省と手を組み開発した魔法化学兵器――《(クロノス)(オー)γ(ガンマ)》。よく御覧なさいな、まだ貴重なんですのよ」


 ――バスバスバスッ!


 かかる無惨な光景を眺める少女の双眸に、一切の躊躇いはなかった。限界まで研ぎ澄まされた神経はただ眼前の粗製濫造された者共を片付けることのみに注がれていた。


「や、やめろおおおおおぉぉぉぉ!! ふざけんな、こんなの軽い冗談で――」


「さようならですわ」


 最後の一人が大音声を上げて命乞いをするも、金髪の少女の意志は固い。


「ぁ――――」


 無慈悲にも撃ち放たれた魔弾は男を淡々と地獄の痛痒へと誘う。それはまた、少女にとっての作業が終了したことをも意味していた。


 …………。


「ふぅ……」


 自らの役目を終え、警戒を解いた少女は腰に手を当てて一呼吸。


「さて……あちらは今頃、上手くやっていますかしら。心配ですわ」


 爛れるような熱の中で一人、眉を下げて微笑を浮かべる少女の姿は、嘘のような慈しみに溢れていた。 


「なんだか、とても嫌な予感がしますけれど……」


 それは魔術的な勘か否か、親友たちを想うさざれの胸中は穏やかではない。本来ならばすぐにでも彼女らの元へ向かい、その安否を確認したいところである。


 しかし、ようやく一仕事終えたばかりの彼女に、そのような体力は残されていなかった。


「それにしても……あの集団の中に、運悪く魔力持ちがいただなんて……おかげで我が学び舎は、明日にでも焼野原ですわよ」


 左手に握られた《まほろば02(ゼロツー)》、右手の《(クロノス)(オー)γ(ガンマ)》――どちらも未だ一般には流通しておらず、政治家や魔術師など、裏社会の人間のみ手にすることのできる最先端技術である。旧華族であり現在も政界とコネクションのある御簾納家の令嬢さざれは、魔術の存在を知る数少ない人間だ。


 それゆえ彼女は、この校舎に巡る劫火が酸素分子の化学反応によるものではなく、魔術による代物であって、通常の消火方法などまるで意味を為さないことを知悉していた。いずれ消防隊が駆けつけるだろうが、その活動は徒労に終わるのが決定づけられていた。


 ではどうすればこの火が消えるのか。それはわりに単純な理屈で、この魔術を引き起こした魔術師を止めればよいのだ。さざれに刺激された不良の魔力が暴走したのがこの火災の原因ならば、その不良を正気に戻すか、殺せばいい。さざれは既に彼を気絶させているので、本来ならこの火はとうに消えているはずだった。のだが……


「これだから素人の魔術は嫌ですわ……」


 術式もなにもなく、ただ感情のままに魔力を振りまいた彼の火炎は、術者本人が気を失った後も力を保ち続けていた。つまるところ、暴走状態にあるこの魔力、さざれにはどうしようもないのだった。彼女にできるのは、感情の供給を失った魔力がエネルギー切れするのを待つ、ただそれのみである。さざれの目算では、明日の昼前には炎が自然消滅するはずだった。


「……このままなにもしないわけにも……いきませんわね」


 彼女にはまだ作業が残っていた。先ほど半殺しにした不良たちが、火の海の中で眠っている。それを安全な場所にまで運び出さないことには、彼らを本当に殺してしまうことになる。それでは親友の野分を傷つけられ激昂していたというのに、何のためにギリギリのところで命だけは助けてやったか分からなくなってしまう。殺人を犯すつもりまではないさざれは、焼けるような熱の中を闊歩しながら、そこに伸びている男たちを一人一人、生徒会室まで運んでいくのだった。白住学院における彼女の根城である生徒会室には、魔術による防御壁が施されており安全なのだった。


 酒の肴にもならなそうなつまらない作業を淡々とこなし、とうとう最後の一人を運び終えようかという時、


「……っ!?」


 さざれは空間が激しく揺れるのを感じた。否、それは正確ではない。揺れたのは空間ではなく大気中の魔力である。なにがしかのトラブルにより、場の魔力が一斉に振動したのだ。


「これは……三手白の女神が、術を行使した……いえ、それにしては振動が短いですわね。……その逆で、なんらかの術を解いた……?」


 作業の手を止めて思考の海に潜るさざれ。ちょうどこの時、白住児童公園の一角にて、白足恋染津媛命が身体透過の神術《八雲(やくも)》を解除したところだった。魔力の激震から遠くの女神の行動を言い当てたさざれからは、その優秀さの一端が窺える。


「更科優が魔術絡みの人間なのは薄々分かっていましたけれど……いったいあちらで何が起こっているんですの?」


 眉尻を下げるさざれには、躑躅と野分、二人の状況が気になって仕方ないのだった。



   ☽



 シラガミについて話をするには、全盲(ぜんもう)の少女エーデルワイスが生まれて初めて視界を得た日にまで遡る必要があるだろう。それがつまり、僕と彼女が三手白神社に参拝したあの冬の日ということなんだけど。


 エルには生まれつき視力がなかった。つい半年前まで、エルは先天盲として生きていた。両目も既に義眼だ。後天的に視力を得た今では簡単な色や図、漢数字、ひらがな・カタカナは少しずつ覚えているみたいだが、まだまだ視覚に頼った知識は晴眼者(せいがんしゃ)(正常な視覚を持つ者)のそれに遠く及ばない。例えばこれはほんの数日前の話で、上野動物園に遊びに行った時、彼女はほとんどの動物を初めて目にしたと言った。名前とおおまかな特徴は知っていても、実物や写真を見ることができなかったため、どれがどの動物か分からなかったのだという。事実、狭衣が「バク」を見たいと言った時、彼女は地図に描かれた動物のどれがバクか分からず、困ったと僕に話していた。僕たちもよく「人の名前と顔が一致しない」というようなことをよく言うが、それがあらゆる事物に当てはまっているのが、現状のエルだと思えば分かりやすいだろう。


 ではなぜエルが突然に視力を得たのか。それこそが要するに、僕とエルがこんなにも《恋目(こいめ)》にこだわる直接の理由となる。


 ――あの、三手白神社の境内に白い雪が積もっていた冬の日。


 僕ら二人が縁結びで有名な神社に、夫婦円満ならぬカップル円満を祈りに参拝したあの日――


「ははっ――こんなもので。一体、こんなもので僕にどうしろって言うんだ」


 呆れ気味に疑問を呈す僕を無視して、シラガミは言った。


『私の神眼(しんがん)を、あなたに授けます――スグル』


 突如として現れた女神が、僕の両目を焼くようにしてその魔眼を押し付けてきたのだ。


「だっ、大丈夫!? (ゆう)くん、なにがあったの……!?」


 片手で白杖を持ち、もう片手では僕の腕を抱いていたエルは、突然その腕の主が吹き飛ばされたとあって混乱する。


 目の見えないエルは、シラガミの出現に気づいていなかったのだ。


「ああ、大丈夫だけど……いや、なんて言えばいいのか……」


 両目を押さえながら立ち上がった僕は、しばらく悩んだ後――事実をありのまま伝えることにする。


「今、目の前に神様が現れて、僕になんか……神眼? ってのを送ったらしい」

「…………へ……?」


 エルはそれを冗談だとして一蹴しないくらいには優しく、またそれを素直に信じないくらいには大人だった。そして、僕がエルの全盲をからかうような冗談を言わない人間であるということも、彼女はしっかり理解していた。


「えっと、その、ホント……?」


 結果、リアクションにほとほと困ってしまったエルは、胸の前で両腕をあわあわと振って、かわいらしく慌てる。僕がそれを掴んでくれるのを待つばかりだった。


 ので、僕はエルの腕を取り、続けて言う。


「僕も自分がおかしなことを言ってる自覚はあるよ……でも」


 眼前に漂う巫女服姿の少女に向き直って、やはりそれが夢や幻ではないことを確認する。


『更科優、源エーデルワイス。二人はこれまで神や(あやかし)の類とは縁のない、平穏な人生を歩んできたのです。私の存在をすぐに信じられなくとも、それは仕方のないことです』


「あ……今聞こえた女の人の声が……シラガミ様ってこと……?」


 どうやらシラガミの声はエルにも聞こえているようだ。よかった。これが僕にしか聞こえないものだったら、いよいよ説得が困難なものになっていただろう。


「ああ。信じられないかもしれないけど……いや。エル、今の声、どのあたりから聞こえた?」


 これは僕もエルと知り合ってから知ったことだけど……


 異種感覚間可塑性(かそせい)、というのがある。人間のとある感覚器官が機能しなくなった場合、その分ほかの器官が発達する、という……僕もエルに聞かされただけで、よく分かっていないけど。

 とにかくエルは、目が見えない代わりに、聴覚や触覚など、他の感覚器官が敏感だった。


 もちろん全員がそうというわけではない。変な誤解を生まないように断っておくが、これはどちらかというと、エル特有のものだ。


 だが、そんなエルならば――


「……えっと……え……?」


 シラガミの声が、どの位置から聞こえてきたものかも、把握できるのだ。


 エルは正確に、シラガミがいる方を指さしていた。


「なんで……」


 指差しつつも、自分の感覚に疑問を抱いている。なぜならエルが指差しているのは、中空――明らかに普通の人間が居座れる座標ではない。


「そうなんだよ。浮いてるんだ。地上3mくらいかな」

「……浮い、て……」


 それまで半信半疑のエルだったが、自分の感じた情報まで疑っていたらキリがない。僕がもう一度言うと、今度は信じてくれた。


『それでは、二人が私の存在を信じてくれたところで――』


 そうして、シラガミは――


 僕たちに、この世界の裏側を語って見せた。


 この世界は<魔力>によって構成されていること。人間は皆<御魂>を持ち、魔力の塊であるそれが意思を持って体を動かしているのだということ。魔力を操る<魔術師>が、この日本に数百人ほど存在するのだということ。それよりさらに少ない数、地上にも<神>が存在するのだということ。自分がその一柱であるということ――


 ――どれもおとぎ話、アニメや漫画で聞くファンタジー世界のそれであり、理解に苦しんだ。

 けれども事実として目の前の少女は宙に浮いており、僕の両目になんらかの<魔術>を施したらしいのは、先ほど実感したばかりだ。


 必死に話を理解しようと努める僕とエルに、シラガミは続けて言った。


『私には現在、その魔力が不足しています。ですからスグルに、その私の眼を使って、魔力を集めてきて欲しいのです』


 シラガミが言うことには――


 現在僕の眼には、本来シラガミが有しているはずの、魔力を宿した不思議な眼――魔眼が宿っているのだという。


 片目を開ければ、それは《片恋目(かたこいのめ)》――片思いしている相手を視界に捉えることで、相手の御魂を引き寄せる。人間の感情とは魔力の働きによるものだから――相手の魔力を引き寄せるとはつまり、相手を強制的に自分に惚れさせることができる、ということらしい。


 それが二つ揃えば効果と名称が変わり、《諸恋目(もろこいのめ)》――両想いの相手を視界に捉え、互いの魔力を送り合うことで、その恋心を増幅させる。


 どうやらシラガミは、参拝者に気まぐれでこれらの魔眼を与えることがあるのだという。縁結びで有名な三手白神社――その裏事情を、神様本人から聞かされるハメになったのだ。


 シラガミの要求はこうだった。


『その《片恋目(かたこいのめ)》を使えば、引き寄せられた恋心(まりょく)は眼を通じて私に還元されます。そうして私はこの社の創建から数百年間、この場所から参拝者の縁を結ぶ手助けをすることで、魔力を供給してきたのです。……しかしここ百年は参拝者が減少し、私の魔力はわずかに残されるばかりになってしまいました。それでこの上なく美しい容姿を持つスグルに、私の眼を使って、多くの魔力を集めてきて欲しいのです』


 常識を超越した彼女の言葉をなんとかかみ砕きながら、僕は何を質問するか考えていく。


「それは、なんだっけ……《諸恋目(もろこいのめ)》って方じゃダメなのか? 僕とエルは恋人同士なんだ。事情はよく分からないけど、それでいいならこの場で使ってやるぞ」

『《諸恋目(もろこいのめ)》は想い合う者同士が魔力(おもい)を送り合う手助けをする眼なのです。その魔力(おもい)を私が奪ってしまったら、互いの想いが届かず、誰も望まない結末になってしまいます』


 手っ取り早くていい案だと思ったのだが、どうやら魔術の仕組みというのは複雑らしい。却下されてしまった。


「そ、それって……」


 そこで、今まで黙っていたエルが口を開ける。


「《片恋目(かたこいのめ)》って……要するに、優くんが他の女の子を好きにならないと使えない……んだよね」

『はい。片思いの成就を手助けする力ですから、そういうことになります。既に想いを成就させているエーデルワイス相手には効力を発揮しません。私としても心苦しいのですが』

「…………」


 エルは優しい少女だ。僕も彼女も、まだ何が何やら事情が呑み込めないものの……なんとなくシラガミが困っているのは理解しつつある。要はその魔力というのが足りなくて途方に暮れているのだ。できるならばシラガミに協力してやりたいと、エルはそんなことを考えているのだろう。


 だがそれは同時に、僕がエル以外の女性と恋愛関係を持つということを意味する。それはイヤなのだろう。


 アンビバレントな感情に苛まれたエルは、またそれきり黙ってしまった。


 自然、答えを出すのは僕の役目になる。とはいえ、返事は最初から決まっていた。


「残念だけど、シラガミ。それは無理だよ」

『……そうですか』

「誤解しないでくれよ。僕だって君に協力したいさ。でも……自分で言うのもなんだけど、『僕が片思いをする』……というのが、そもそもありえない話なんだ」


 本当に、自分で言うのもなんだけど。僕はおそらく、この世界でいちばんカッコイイのだと思う。……いや、ナルシストとかではなく、周囲の反応が、それを否が応でも実感させてくるのだ。

 僕を見た女性は、まずその場で僕を好きになってしまう。もしならなくとも、二言三言交わすうちに、僕を好きになってしまう。僕が言ったことに周囲の人間は決して逆らわない。極端な話だが、僕がそこらの見ず知らずの人に「自分の親を殺せ」と命令すれば、そいつは理由も聞かずに実行するだろう。


 はっきり言って、異常だ。僕はおかしいのだ。


 そんな異常者が。相手を知る前に相手の方から自分に惚れてくるような、そんな僕が……片思い? できるわけがない。僕が片思いする前に、あっちが僕に惚れてしまうのだ。どうしたって、無理な話だ。


「だから、もしやるならエルになるんだけど……僕もエルにそんなことはしてほしくない。悪いけど、他を当たってくれ」

「ごめんなさい、シラガミ様……力になってあげたいけど、でも……」


 頭を下げて、僕たちにしてやれることはなにもないと告げる。


 そんな僕らを見て、シラガミはこう言った。


『魔眼とは、相手を視ることで効力を発揮する力です。故に私の眼には、ただ普通にモノを見るための力も備わっています』

「――!」


 その、シラガミの言葉に……


 僕とエルは思わず、その場で顔を見合わせてしまう。


 もしこの女神の言うことが、真であるなら……


「……エルが、視覚を手に入れられるって言いたいのか?」

「…………」


『はい。その通りです。実際にやって見せましょう』


 そう言って――シラガミは――


 ――ポゥ――ポゥ――と周囲に光の玉を出現させていく。


 桃色に光るその球は、まず、僕の両目に襲い掛かり――


「ぁぅっ……⁉」


 魂が引き抜かれるような奇妙な感覚だけを残して、僕の頭を抜けていった。おそらく、魔眼が取り除かれたのだろう。


 ゆえに今、空中を漂う桃色の光が――その魔力が向かう先は、エルだ。


「ひゃっ!?」


 突如、エルの目元に光が集い――


 ――その光が収まった時には、エルは、眩しそうに眼をぱちぱちと瞬きしていた。

 

「――……え……」


 と漏らしながら、その綺麗な、正常な瞳孔の眼を、動かす。


 眼球を摘出されいるため、動かないはずの義眼の両目。


 それが意思を持って、動いている。


 ――それが。


 ――それが意味するのは。


「……エル……?」


 バクバクと心臓が拍動する。


 何が起こっているのか理解しかけている脳のいたずらで、僕は自分事のように緊張してしまっている。体が強張り、上手く動かない。


 ――エルは――


 その桃色の光を灯した黒い眼で、自分の手元を見た。腕を見た。服装を見た。足元を見た。境内を見回した。空を見上げた。空に浮かぶシラガミを見た。


「……優くん」


 そして僕を見た。

 

「……見えるよ……」


 エルはセカイを見ていた。


「見えるよ、私……優くんが分かるよ……これが優くんなんだよね……」


 震える手つきで、エルは、僕の頬に触れる。冷え性な彼女の指先の冷たいのが、片頬に伝わってくる。


 これまで、エルが自分からそうすることはなかった。いつも僕が彼女の手を取って、やんわりと誘導していた。


 それが今は? エルはその眼で僕を見つけ、全く自分の意思で僕の頬を撫でているのだ。


 それが。


 たったそれだけのことを……彼女が。


 源エーデルワイスという少女が、どれだけ夢見たことか。どれだけ希い、その分だけ傷ついてきたことか。


 目が不自由な人への冒涜だと思われるだろうか? この少女だけが、魔術だとかいうふざけた力で、例外的に視覚を得ただなんて。


 だというなら、それでもよかった。なんと思われても良かった。


 エルの痛みを僕が知っている――なんてことは、冗談でも言うことはできない。究極的にはそれは、僕には及びもつかない世界だ。安易な共感も同情も理解も、できるはずがない。


 それでも――僕は何度も見てきたのだ。エルの悲しい涙を。心の痛みを。


 その痛みが今、これまでのすべてを洗い流すように……

 透き通った、一菊の、優しい激しい涙となって、エルの目元を濡らしていく。

 

「優くん……」

「……ぁぁ……!」


 感動のあまり、言葉が喉の奥で詰まるようだ。僕は上手く声が出せず、不格好な感動詞をわずかに返すばかりだった。


「……優くん……」

「ああ……エル、エル……」


 奇跡が起きたのだと思った。


 だが僕たちは、それが奇跡でないことを知っていた。


 互いのぬくもりを確かめ合う僕たちの、頭上に佇むその神が、エルにその眼を与えたのだと理解していた。


『ではその眼は、平時はエーデルワイスに預けておきます。但し、スグルが魔眼を発動させようと思えば、そちらが優先され、エーデルワイスからは一時的に視覚が失われるのです。そのように術式を編纂しておきました』

「ああ……分かったよ、シラガミ」


 だから――


 僕たちはなんとしてでも、この神の手助けをしようと思った。この多大な恩を、どれだけ苦労してでも返していこうと思った。


 ――この時に初めて僕は、絶対にエル以外の女の子を好きになり、《片恋目(かたこいのめ)》を使って魔力集めをしようと心に決めたのだった。

さざれ「ようやくこのシーンまで戻って来ましたわね。お疲れ様ですわ」

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