26 これがわたしのセカイ。
「あの橋は人が少ないわ」
「分かったよ」
言葉足らずなわたしを、彼はすぐに解したらしい。
優は、透明な白い頬骨をふっくらとさせて笑った。
「ツツジ、お前はどうする? あっちへ行くと、動物が見れないけど」
「どうせ合流するから、私は普通に回るわ!」
と言って、躑躅は一人で、真白の胴に隈取の紅い目元を持った鸛の方へと、弾むように歩いていく。その度にサイドテールが跳ねるのは、石蹴りに興じる童女のようで、なんともいとけなく、可憐に映る。躑躅の艶やかな黒髪は、その躍動によって、髪飾りの岩躑躅の緋色や満天星のまばゆい白やを、際立って魅せていた。
わたしは優を引き連れて、「弁天橋」と書かれた人通りのない橋の上を、静かに歩いていく。これが真夏ともなると、桃色に薄く染められた白い蓮の花がたくさん浮かぶようだけれど、季節を外した水無月の不忍池とあっては、若々しい緑の蓮葉が波を描くような縁取りで茂り、水面を覆い隠して、その合間をこげ茶の尾長鴨が、暢気に漂うばかりだった。
「あのエーデルワイスとかいう女こそここに相応しいわね」
「というと?」
「はすっぱ」
「友達の好きな人をあんまり悪く言うな」
思い出されるのは、山際から覗く春の暁のような金の長髪と、前髪の影がかかるほど長く揃ったまつ毛の、あの飾らない異国の風情を自然に着こなした、見事な乙女だった。数時間前の源何某が、儚げな女の目つきで、いかにもか弱そうによろめきながら優に寄る媚態が、わたしには我慢ならなかった。それは妬みや嫉みじゃない。あいつの鷹揚な所作の奥に潜んでいる、どこか超然とした態度が、気になって気になって、わたしには気に食わない。あの女の見ているものが、わたしには分からなかった。エーデルワイスは、優や後輩やわたしと話しながら、その顔の美醜なんてまるで気にしないみたいだった。わたしを嫌っていて、わたしを見ないようにしているならまだ分かりそうなものを、あいつはあの奇跡の美丈夫を前にしてさえ、その耐え難い官能の美を笑顔で無視してみせたんだから、これはありえなかった。そうと来れば、答えはもう決まっている。あの女は16、7にもなって、人の優しさとか、助け合いとか、都合の善い空想ばかり追いかけているメルヘン女なのだ。きっとわたしが優の容姿の美しさについて力説しようものなら、こう言うに違いない。「人の美しさは心で決まる」と。そんな言葉を耳にしたらば、わたしはまた抑えきれない哄笑で彼女を怒らせてしまうだろうから、この質問は、彼女の存在と共に忘れた方がいいのだろう。
「ツツジと見て回らなくてよかったの?」
「動物は少し苦手なんだ。たまに僕に惚れるから。ツツジはもっと苦手だけど」
「おかしいわね」
「おかしいんだよ」
素っ気なく答えた優だけれど、その引き締まった顔つきからは、普段は見せない暗い厳しさが醸されている。この彼の痛ましい翳りを、わたしはなるべく見たくなかった。
「……違うのよ」
「? なにが」
「すぐ自分ばっかり悪いみたいに言うのは良くないわ」
「なんのことだよ」
「…………」
辺りは静かだった。こうして眠くなるような歩みで橋を渡っていても、鳩か鴨かの単調な地鳴きが時折あるだけで、先ほどまでの喧騒は、わたしの過度な疲労が齎した幻聴かと思われた。
「あなたはなんにもわたしたちに教えてくれないのね」
「それはプールの時に……あ」
「さすがにもう平気」
意外にも慌ててくれた優に、わたしは過去の失敗の記憶が、段々と薄れていることを伝える。あの水の中の息苦しさは、人の噂も七十五日で、今のわたしからは消えたようだった。
「あの時聞いたのはストーカーする理由でしょ。そんなのどうだっていいの。わたしが知りたいのは、あなた」
わたしは彼の美しい顔を見上げる。流れるような黒髪から、透明な額、くっきりと凛々しい眉、鼻梁の高きにまで、彼の一通りではない半生が示されているようだった。かの尊顔は遠く、わたしの矮躯では彼の首元と立ち襟にこもるいきれ一つさえ確かめるのは難しい。生半な理由では彼に近づくのも憚られるというような、重たい雰囲気がどこかあった。
「これ以上僕の何を知るんだよ」
「ねえ、わたしの誕生日はいつ?」
「あのオカピより遅いんだろ」
「知らないでしょ。わたしもあなたの誕生日を知らないの」
「友人の誕生日って意外と知らないもんだよ。僕もヨウのがいつかなんて知らない」
と優は、莞爾とした微笑みを向けて、わたしを安心させたがる。口の端に懸る清やかさには、心臓の脈搏がどうしようもなく激しくなるのを感じるけれど、彼はそういう女を嫌うので、わたしは努めて鈍感な、そつがない女を装った。
「ちなみにツツジの誕生日は3月18日よ」
「覚えてるのか」
「薄情なあなたと違うの」
これしきの軽口では、彼は涼しい顔を保ったまま。ほどよく悪意に関心がないから、わたしはつい甘えてしまう。
「というかさ、そういうのって『ハイじゃあ今から話します』って伝えるものじゃなくて、たわいないやり取りの中で自然と知っていくものだろ」
「わたしの誕生日は2月2日。プレゼント楽しみにしてるわ」
「話を聞いてくれない」
子供の拗ねるように言うけれども、彼はまったく笑顔のまま、わたしに歩調を合わせている。
しばらくわたしたちは黙って歩いた。上野の日盛りの陽は、不忍池に浩々とする乾いた閑かさを丹念に、具に潤すように降り注いでいた。
「なあ」
と彼が呼ぶので、わたしは片頬だけ寄越す。
「ノワキはなんで僕に優しくしてくれるんだ。僕のことが好きなのか?」
「あ、か、勘違いさせちゃったかなっ? ごめんね、そんなつもりは全然なくて……ホントそういうの無理だから……!」
「いやそうじゃなくて」
「……そうね」
彼は怯えていた。女の心をひたすらに磨り潰して、その嘆きで以て恋と為す自らの面貌が、また一つ罪を犯してやいまいかというので、彼の心の音もなく蠕動しているのが分かった。わたしの次の言葉は決められていた。
「安心して。わたし、あなたのこと好きでもなんでもないから」
「ならいいんだけど」
歩きながらも不躾か、なるたけ彼の心安くあれと、どれほど雨風に晒されたか、埃にまみれた細い頼りない欄干に凭れてみると、広がる景色はかつては無窮を極めた蒼穹の、突然その行く末を不調法なオフィスビルの山に切り取られたので、この不自由はひどくせせこましく、物寂しい感じがする。視線を下げた先の、優の瞳、この黒の硝子玉に映る水の色は、頭上のそれと比べても、よほど自由、よほど遥か、隅々まで澄んでいる。明鏡の青空に吸い寄せられたわたしの目は、自然、優のそれと線を結ぶことと相なった。
「まず、優しくしてるつもりがないの」
「自称自己中なんだろ。それはもういいよ。僕が知りたいのはノワキの厚意の出どころさ」
「……あなたがツツジの友達だから、とか。あなたとわたしが、容姿の問題とは別のところで少し似ているかもしれないから、とか。いろいろ、それっぽい理由は出てくるけど」
不意に言葉は、臆病風から喉の奥で絡まった。血潮は腕白で落ち着きなく、ちりちりと、糸が擦り減って熱を帯びたみたいに燃ゆる肌の、これが赤らんではいやしないかという懼れもまた烈しく……とにもかくにも、この火照った肉体が煩わしくて嫌だった。わたしはずっと秘し隠してきた恥じらいが全部、ここに暴かれるような心地がした。涙だけ我慢して言った。
「あなたのことが、好きでもないけど、嫌いでもないのよ」
「意外とまともな返事だ」
彼は泰然自若の笑みを崩さない。足元のすぐ傍を泳ぐ鴨の一羽が羽搏き、白い水飛沫が舞った。すぐに広がるはずだった水面の波紋は、蓮葉の陰に隠れて見えなかった。
「わたしはね、まともなの」
「美人にまともなやつはいないって聞いたぞ」
「誰によ」
「不知森野分」
「あら」
あたらこの美少年は、わたしに惚れるきっかけをまた一つ逃したというのだ。
野分「わたしはね、綺麗なものしか見たくないの」




