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23 もうすぐで梅雨入りだし、グッドタイミングでの登場ね!

 週明けの白住学院、休み時間。


「ちょっとこっちに来なさい、名もなき羽虫くんたち」


 躑躅は隣の野分クラスに顔を出し、今日も例の無キャ三人衆を呼びつけていました。


「ど、どうしたの十六夜さん」

「何か用事?」


 そのうちの一人は頭に包帯を巻いています。先日購買で生徒の下敷きになり、頭から流血した被害者その人だったのです。

 しかし躑躅は自らより醜い存在の怪我を気に掛けるほど人間ができてはいなかったので、特に気にするでもなく彼ら三人を自らの教室に引き連れました。


 そうして躑躅は自席で咆哮します。


「第二回、更科優攻略会議ぃぃぃぃぃぃ!」


「あ、それまだやってたんだ……」

「忘れてなかったんだね」


 彼らはあの十六夜躑躅が自分たちを構ってくれること自体が嬉しかったので、その理由はどうでもいいのでした。


「なんかいろいろ、というかスグルが全然分からずやだから、私がスグルの奴隷になることにしたのがちょうど一週間前! それからスグルの応援したり、応援したりしたけど、あんまり奴隷っぽいことができた気がしないわ!」


「え、奴隷……?」

「どういうこと……」

「性奴隷ってこと……?」


 性欲だけ持て余した一般的、もしくはそれ以下の男子高校生である三人は、現代日本ではエロ漫画とTwitterくらいでしか聞かないその単語から、様々な俗悪な妄想を膨らませます。


 彼らは思いました。


 ――僕が先に好きだったのに。


「ツツジちゃんあれホントなのー?」「冗談で言ってるんじゃなかったんだ」「まあ十六夜って冗談言わないしな……」「いつもの調子で冗談にマジレスされると結構イラつくよね」「ああいうところで反感買ってるのに気づかないの愚かすぎて好き」「思わず手が出ちゃうわ」「なんか殴りたくなる顔してんだよねー」「キュートなんとかってやつか?」「あなんかあったよなそういうの」


 数日前、軽い雑談の中でその事情を話されていたクラスメイトらが反応を示します。去年から躑躅と同じクラスだった彼らはいい加減、彼女の天衣無縫な言動に慣れていたのです。 


「そうよ、私はスグルの奴隷になったの」


 胸を張って誇らし気な躑躅。彼女を知らない者からしたら、その姿はいみじくも虎の威を借る狐のように映ることでしょう。あるいはあの更科優に気に入られたという女の幸せを無抵抗に享受している卑しい女のように見えるでしょう。当然この躑躅の喜色はそのような質のものではないのですが、この空間において彼女の姿を正しく見ることのできている人間は約3割といったところでした。


「そ、そうなんだ……」

「まあ、なんか十六夜さんなりの事情があるんだね……」

「美がどうとかいうやつだっけ?」


 例の無キャ三人はというと、他者の内面への無関心から来る愚かさが偶然良い方へ働いて、その3割に仲間入りしていました。


「だから私はなんとしても、奴隷っぽいことをしなきゃダメなんだわ! スグルを惚れさせるために!」

「そこのつながりは分からないけど……」


 しかし三人には躑躅の美と関係に対する形式意欲が理解できなかったのです。なぜなら彼らは見えない人なのですから。


「ノワはなんか普通に恋人っぽいことして好きになってもらおうとしてるみたいだし、私も奴隷として負けてられないわ!」


「そうなんだね」

「がんばれー……」


「そこで! またまた陰キャくんたちの文殊の知恵を借りたいわ! アニメとか漫画では、奴隷の女の子ってどんな感じで主人公と距離を詰めてるんだわ?」


「いや……」

「……ごめん」

「やっぱり俺達そんな詳しくないから、分かんない……」


「やっぱりそうなのね……」


 そういうわけで、躑躅はここから一人で行動しなくてはならなくなりました。


 躑躅は考えている時間すら無駄だとばかりに教室を飛び出し、ゆく当てもなく走り出しました。


「なあおい、十六夜」

「ちょっと待てよ」

「廊下は走っちゃいけないんだぜ~」


「ん?」


 躑躅を呼び止めたのは、野分クラスの不良たちでした。

 彼らは7人程度の群れで、金や銀や赤や紫のメッシュやウルフをバッチリ決めた、イマドキの若者なのでした。


「なにかしら、私急いでるんだけど!」


 はやる気持ちにストップをかけられた躑躅は怒り心頭でした。


「さっきの話マジなん?」

「不知森さんが更科と、って奴」


「え? そうよ、ノワ、スグルがとっても気に入ったみたいだわ! 最近はずっとスグルに付きまとってる! ストーカーだわ!」


「へー……」

「そっか」

「おっけ分かったわ、サンキュ」


 何か上の空な者、真顔の者、嫌味な笑みを浮かべる者、反応はまちまちです。

 ただ一つ決定的なのは、このことが野分にとっては良くない結果を招くであろうということでした。


「そんなことで時間取らせないで! ばいばいきんだわ!」


 面倒に思いつつも、無視できるほど醜い容貌もしていない彼らには一応軽く手を振ってお別れを言う躑躅です。彼女は自らのドグマに忠実なのでした。



   ☽



「んでユカリが『どちらが先に教室に着けるか勝負』とか言い出しやがるもんだから全力ダッシュしたら、江川に見つかちまってよ。せめてあいつも道連れにしてやろうと後ろを向いたら、いないでやんの」

「律儀に付き合ってやってるんだな」

「仕方ねぇだろ。ああいうのは一度なおざりにしたら最後、これまでのすべてが水泡に帰すもんだ。毒を食らわばなんとかってな」

「関係ね……」


 人と人の関係、そういうものにこだわる友人たちが、無性に羨ましい優なのでした。


「……ん?」

「オレのじゃねえぜ」


 その時、優のスマホから着信音が鳴りました。


 彼はスマホを取り出して画面を確認します。


【スグル! デートしましょ!】


 相手は連絡先を交換した覚えのない少女、躑躅でした。


 ――こいつ文章でもこのテンションなのか。ていうか、第一声がこれって。


【誰から僕の連絡先もらったんだ】

【ノワ!】

【まあそうか】

【デートしよ!】

【また今度ね】

【今!】

【本当に奴隷って名ばかりだよね】

【奴隷とデート!】


 ――本来なら、断るんだけど……。


 ――『な、なんでそんなちゃんと褒めてくれるの……?』

 ――『この子を邪険にしてたあなたが悪いわ』


 この時の優は週末の球技大会での一幕を思い返していました。


 ――今更取り繕うのは滑稽だ。だからといって、なにも改善しないってのはひどい、かな。


 要するに優は、少しばかり躑躅に優しくなろうと思ったのでした。


【分かったよ】

【やったっ! ありがとう!】


 子供みたいなやつだ、と優は思いました。

 それからスマホをしまい、陽に言います。


「悪い、ちょっと用事ができた」

「おお。……は? 今からってことか?」

「そういうわけだから、早退するよ。先生に伝えておいてくれ」

「おいおいどうしちまったんだよ。非行化か?」

「もっと厄介なものだよ」


 そうして優は敏速に学校をあとにしたのでした。



   ☽



 例のミニストップの前でスマホをいじっていると、躑躅が手を振ってやってきました。


「お待たせ! 待った?」

「いや全然、君なんて待ってないよ」

「ならよかったわ!」

「ツツジはいつも変わらないね」

「どういうこと? 私は私だわ! とってもかわいい!」

「太陽みたいで眩しくて暑苦しいってことだよ」

「褒め言葉ね! ありがとう!」


 ふと、優は躑躅の「醜いスグルは好きになれない」という言葉を思い出していました。

 現状、奴隷奴隷と言ってもしていることは以前と変わらず、野分を好きになろうという優の目論見もまだ遠いものでした。

 ならば彼女の言うように、多少の抵抗はあったとしても、躑躅にも賭けてみるというのはどうかと優は考えたのでした。


「ツツジ、僕のこと好きか?」

「え? ううん、普通!」

「よし」


 それならば、多少は普通に振舞っても問題なかろう、役割を変えることで見えるものもあるだろうと、優は思ったのです。


「それにしても、どうして急にデートなんだ?」

「あんまり二人きりで会ったことなかったから、こうすればもっと私のこと知ってもらえると思って!」

「そうなんだ。嬉しいよ。実は僕もツツジに会いたくて仕方なかったから」

「……スグル?」

「今までの僕はちょっとおかしかったよ、こんなに可憐な女の子と一緒にいられたのに、冷静な振りでカッコつけてた」


 そう言って、優は躑躅の頤を指で持ち上げて視線を合わせました。


「はわわわ! 顎クイだわ!」

「はは、慌てるツツジもかわいいね」

「スグルがおかしくなっちゃった!」

「逆に、これまでがおかしかったんだよ。君の愛らしさに一度気づいていしまったら、こうなるのが普通なんだ」

「うぅーんでもカッコイイ……すごく積極的だし優しいわ……」

「誰にでもこうじゃないんだぞ。もし僕が優しいと感じるなら、それは君がそれだけ美しいからだよ」

「あわわわわ……」

「それじゃあ行こうか、僕のお姫様」

「きゅううううん!!」


 優の台詞が実際にカッコよかったかは二の次で、この場で躑躅にとって大事なのは「優が自分に優しい」という事実なのでした。


「ねえ~、どうして今日はそんなに欲しい言葉ばっかりくれるんだわ……?」

「なぜかツツジを見てたら、離したくないと思っちゃうんだ。どうしてくれるんだ?」

「わんわんわん……!」

 

 余裕がなくなりワンコ気味の躑躅の手を、優は取ります。


「こ、これ、恋人繋ぎだわ……」

「ダメか?」

「だ、ダメじゃないけど、けどけど、恋人じゃないのにこんなのお……」

「そっか。僕はツツジとこうしてたいけどな」

「いくらでも繋ぎましゅぅ……!」


 躑躅は目をグルグル回していました。


「今日はずっとこのままだぞ」

「はいぃ……絶対離さないわん……!」

「よしよし」

「うぅ……頭なでなで、気持ちいい……」

「いい子だね」

「そそ、そんなことないわん……ツツジわるい子だから、ご主人様にお仕置きしてほしいわん……?」

「お仕置きって、どんなの?」

「そ、それは……その、ご主人様が、奴隷にする、みたいな、みたいな……!」


 優は溜息を吐きました。


「ツツジ、奴隷から一旦離れよう」

「だってそれが私とスグルの関係なんだわ!」

「うーん……」


 優の普通の振る舞いはそう長くは続きませんでした。


「あんまりしっくりこなかったし、いつも通りに戻すか」

「私のこと散々振り回しといて、それはあんまりだわ!」

「悪いな。付き合ってくれてたんだろ?」

「へ? ……そうだわ!」

「素だったんだ」


 二人は恋人繋ぎを解いてしまいました。


「それで? デートなんだろ。どこ行くんだよ。さっさとしろ」

「すっごくいつも通りだわん……」


 謎の安心感を覚える躑躅でもありました。



   ☽



「しーあわーせはー、あーるいてこーないー」

「人を好きになるのって、難しいな」

「だーからあーるいーてゆーくんだわー」

「どうすれば、キミやノワキを好きになれるかな」

「ん? なにか言ったかしら、スグル!」

「ツツジってまあまあ難聴系ヒロインだよね」

「私は人の感情の機微に人一倍敏感な清楚系美少女十六夜躑躅!」

「高速詠唱」

 

 躑躅と優の二人では、どうも会話に締まりがありません。


「ところで、僕たちはどこに向かってるんだ?」

「私のおうち! おうちでーと!」

「マジか」

「っていうか、私の家くらい方角で分かるでしょ? ほら、変態ストーカーなら!」

「なんか久しぶりに聞いたね、それ」

「久しぶりに思い出したんだわ?」


 その言葉で優自身もまた、自分たちの立ち位置を再確認したのです。


「まあそうだよね。僕はストーカーで、ツツジは僕を警察に突き出すために奴隷やってるんだもんな」

「???」

「本気で忘れてたんだ」

「あ! そうだわ、思い出したわ、私はあなたが嫌い!」

「さっきは普通だって言ってたよな」

「確かに! ……なんで? なんかおかしいんだわ?」


 この躑躅のなんでもない当惑に、優は重く鈍い気だるさと、また僅かな緊張を覚えました。だから次にはこのような思ってもないことを言ったのです。


「ほら、それがツツジのいつも言ってる『関係』ってことなんじゃないか?」

「スグルが私のこと好きになりかけてるってことなんだわ?」

「…………」


 なにをまた訳の分からないことを、と返そうとしたところで、優は気づいたのです。


 ――ああ、そうか。ツツジは関係を、美を、そういう風にしか捉えられないんだな。言われてみれば、そうだ。彼女の理屈だと、美ってのが自とか関係とかのことなら、そうじゃないと成立しないか。


 これは一つ大変なことを知った優なのでした。

 ゆえに優は、本来ならば今すぐにでもデートを中断して帰宅するべきであり、また本人はそうしたい気持ちでいっぱいだったのですが、


「着いたわ!」


 翻り、両腕を元気いっぱいに広げた躑躅の背後には、大きな長方形のシルエット。

 

「……金持ちなのか、お前」


 豪邸、というといささかオーバーですが、それでも目の前の十六夜邸は車が二台ほど入る車庫付きで、三階建ての、広い大きい家なのでした。

 そのモダンなガレージハウスのドア前にはたしかに『十六夜』の表札、それも真鍮のプレートに達筆な字で書かれたオシャレなそれは……


「いかにもツツジの家って感じだ」

「そう? あんまりかわいくない、大きいだけの家だわ?」

「急に金持ちみたいな台詞吐くね」


 本当に家のことはどうでもいい躑躅は軽く首を傾げるだけで返事を済ませ、ドアを開けて家の中に入っていきました。


「上がって? あ、緊張しなくても、パパもママも海外旅行でしばらく帰ってこないわ!」

「そういう心配はしてないんだけどね。……おじゃまします」


 そう言いながら靴を脱ぐ優の目に留まったのは、玄関のインテリアとして置かれた小さなバスケットボールでした。


「パパがバスケ選手なんだわ」

「そうなん……ちょっと待てよ、バスケで十六夜って言ったらNBAの……」

「なんか昔上手かったんだって!」

「だとすると、この家がむしろ小さすぎるように思えてくるよ」

「お金とかどうでもいいわ?」

「労働を知らないメスガキの分際で」

「スグルだってそう思うでしょ?」

「まあね。人間の制度なんて、僕には通用しないし」

 

 たわいない言葉を掛け合いながら、躑躅は優をリビングに案内します。


「ただいま!」


 家に誰がいなくとも「ただいま」を言う人はそれなりにいるものです。だからこの躑躅の言動を、優は特に疑問視しなかったのです。が……


「……姉さん? もう帰ってきたんですか?」


 奥の部屋から声が返ってきたことで、優はそれが明確に誰かに向けられたものであることを認識したのでした。


「なあツツジ、さっき家には誰もいないって」

「パパとママはいないわ?」

「お前一人っ子だろ?」

「そんなこと一回も言ってないわよ?」

「いや、性格的にそうかと……」


 優が少しばかり混乱しているうちに、声の主は姿を現しました。


「もしやまた早退ですか? 姉さんはいつもそうやって自由な…………」


 猫のような小顔に純朴なたれ目、茶髪のギブソンタックに大きなリボンを付けたかわいらしい少女。彼女は優の存在に気づくと目を真ん丸に見開きました。


「まあ……! お客さんを連れてくるなら先にそうと言っておいてくださいよ、姉さん。こんなだらしない恰好でお出迎えしてはお客人に失礼じゃないですか」


 しかし、その驚きは決して優が見慣れていて、なにより厭うている、例のあの甘い痺れのような衝撃で女に破滅を齎す性質(せいしつ)の驚きではなかったのです。彼女はまず最初に躑躅を責め立てたのです。


「何かあるときは連絡してほしいと、いつも言ってますよね。姉さんからのLINEが有効活用された例を、私は知りませんよ?」

「スグルはそんなこと気にしないからいいの!」

「気にする気にしないの話ではありません、親しき仲にも礼儀ありというでしょう。どうして姉さんはいつもそう自分都合なのですか」

「私はかわいいからOKなんだわ!」

「かわいいもヘチマもないのです。姉さんがいかなる主義を掲げようと、周囲の方々がそれに付き合う義理はないのですから」

「で、でも、私は十六夜躑躅で、美少女で……」

「だからなんですか。またそうやって身勝手な振る舞いをして、ネットで晒されたいんですか?」

「……だって……」

「たしかにこの世は容姿の優れた者ほど生きやすくできているのかもしれません。姉さんほどともなれば、どれだけ悪事を働いても周囲の人間が庇うなり、見逃すなりしてくれるのでしょう。ですが、それに甘えてはいけないのです。許されるならなにをしてもいいのですか? 違うでしょう、そんな道理は通りません。許されるから、罪にならないからなにをしてもいい……そんな考えで生きる人間を、私は姉と呼びたくありません。姉さん、これを言うのはもう何度目になりますか?」

「………………ごめんだわ、サツキ」

「謝る相手が違います」

「う、うう……すぐる……ご、ごめんなさい…………」


 ――すごいな。暴力もなしに、あのツツジを黙らせたぞ。


 優はたった今、眼前で繰り広げられた光景が信じられずにいました。

 なぜなら優にとって、否、躑躅を知るあらゆる人間にとって、躑躅は殴って躾けるものだったからです。


 そんな優へ、先ほど躑躅のことを「姉さん」と呼んだ10歳ほどの少女は話しかけました。


「見苦しいところをお見せしました。挨拶が遅くなってすみません、私はこれ(ツツジ)の妹の、十六夜皐月(さつき)です」


 初めまして、といって頭を下げる皐月の挙措は年齢離れした落ち着いたもので、その楚々とした雰囲気は躑躅にはまずないものでした。


「すごく、礼儀正しいんだね。いや、妹がいるとは聞いてなかったから、ちょっと驚いたんだ。僕は更科優。君の姉の……友達だよ」

「……へっ?」

「ご友人……! あの姉さんに、ノワ姉とさざれお姉さま以外のご友人ができるなんて……私は感激です……」


 皐月には姉がたくさんおりました。


「今お茶をお出ししますね、どうぞ楽にしていてください」


 そう言って、皐月は上機嫌で奥のキッチンへ移動しました。


 優は言われるままテーブルに着き、所在な気にあたりをぐるっと見回します。

 父の趣味と思われるバスケ選手のポスター、母の趣味と思われるファンシーな調度品や小物の数々。小綺麗で、しかしそれなりに生活感のある、いたって普通のリビング。それが優の偽らざる感想でした。


 とても名のあるスポーツ選手と女優――NBA本登録まで行ったあの十六夜選手といえば、20年ほど前に国民的大女優と結婚したことで茶の間を騒がせた――がここで暮らしているとは思えない、両親が海外旅行と言っていたが、ならば今は二人で生活を回しているのだろうか、それはそれで、金銭以外のあらゆる面が心配になるが……――


「…………」


 そこまで考えて、優は、しかしあまり他人様の家をじろじろ見ての詮索は無礼と思い、それ以上考えるのは止したのでした。

 そこまで来てようやく問題になるのが、先ほどからずっと黙って隣で優のことを見つめている、十六夜躑躅です。

 彼女は先ほど頓狂な声を上げてから石化したように動かないままでした。


「……スグル……私とあなたって、友達、なんだわ?」


 彼女は狐につままれたように放心していて、それを聞くのが精一杯だったのです。

 

「ん、ああ……まあ、ああ言っておくのが無難だと思って」


 君の姉は奴隷で、僕がご主人様なんだ――などと言えるわけがない優は、苦肉の判断でそうしたのでした。そもそも優は奴隷を認めていないのですが。


「なんだ? 奴隷と主人なのに友人なんておかしい、とか言うつもりか?」

「ううん違う、そうじゃないの……」


 躑躅はしばし目を閉じます。自らの胸中を騒がせるその感情の源泉が見つからず、戸惑っていたのです。

 たっぷり20秒ほど経ってから、彼女がぱちりと黒の眼を優に向けたときにはもういつもの躑躅でした。


「そうだわ、関係を一つに絞るなんて愚か者のすることよ! 移ろいゆく世界の内側で、関係の中でゆらめく波のように人と人が衝突したときに舞い上がる曖昧な水飛沫こそが美しいんだから! それが私なんだから!」

「そうだね」

「だから奴隷で、友達だわ!」

「そうだね」

「スグル! 私たち、友達なんだわ!」

「そうだね」

「そうだわ!」


 さきほどの沈黙はなんだったんだろうかと優が呆れるほどに、躑躅は躑躅全開でした。


「姉さん、こんなだからあまり友達できなくて、だから嬉しいんですよ」


 皐月がお茶とお茶請けを持って、テーブルまでやってきました。

 

「私は友達たくさんの極上美少女!」

「はいはい」


 軽くあしらいながら、皐月はテーブルにお茶を置いていきます。いくのですが……


「なにをしているのですか、姉さん?」


 突然躑躅がダイニングチェアから降りて、なにもない床の上に正座しだしたので、皐月と優は不審がりました。


「あ、すみません。どうぞ」

「ありがとう」


 まず優先すべきは客人だと思って、皐月はとりあえず優にお茶を出しました。


「姉さんは……」

「ここでいいわ?」

「いいわけありますか! 行儀が悪いです!」


 なぜか床の上で食事を始めようとする姉を、妹は叱りつけます。


「本当になにしてんだよ。はやく席につけ」

「え……奴隷の私も同じテーブルで食事を取っていいんですか……?」


 ――めっちゃ中途半端に「奴隷」を調べやがったなこいつ。


 と、優は合点がいきました。

 躑躅は待ち合わせ場所に向かうまでの間に、オタク文化における奴隷のなんたるかをネットで検索していたのです。


「あのさ、その方法で上がるのはツツジの僕『への』好感度であって、僕『からの』好感度は上がらないよね」

「……たしかに……!」


 躑躅はすぐに席に着きました。

 

「あ、これ私が好きなどら焼きだわ! もぐもぐもぐもぐ、ずずーっ」

「こらっ! ご友人の分まで食べない飲まないっ!」

「わう……」


「……はは」


 家でもこの感じなのか、と優は思いました。


「もう……あ、すみませんこんな姉で。えっと、更科さん、ですよね」

「え?」

「すっすみません、お名前間違えちゃったでしょうか……」

「いや、合ってるよ。ごめんね」

「そうですか……無礼がなくてよかったです」


 優は自分を知らない人間に生まれて初めて会ったので、それで驚いたのでした。


「それでえっと……ですから、更科さんっ。こんな、こんな色々と大事なものを履き違えて生きている不肖の姉ですが、どうか見捨てないでやってください……。姉さんは誤解されやすい、というかほとんどが誤りみたいな人間ですけど、ほんのちょっとだけいいところもある人なんです。だから……」


 この時の皐月には一生懸命という言葉が非常にしっくりきました。


 初対面の人間に突然このような嘆願をすれば相手は引いてしまうと、ともすればこれがきっかけで不気味がって二度と来なくなるかもしれないと、普段の彼女ならば容易に察せられたことでしょう。

 しかし今、目の前にいるのは姉が友人と呼ぶ存在で、その友人と話す姉はとても楽しそうにしている。


 その光景だけで皐月は胸がいっぱいになってしまって、正常な思考ができなくなっていたのでした。


「うん。分かってるよ。僕もその、ほんのちょっとだけのいいところに影響されそうになってるクチだからね」

「本当ですか! ……ノワ姉たち以外にも姉さんを分かってくれる人がいて、とても嬉しいです……」


 感動のあまり声が震えている皐月とは裏腹に、躑躅はご立腹でした。


「サツキがお姉ちゃんをいじめるわ……」

「ちゃんと聞いてましたか? 姉さんを褒めたんですよ」

「今のは悪口だったわ! いくら私でも分かるわ!」

「私の姉さんはとびきりの美少女だって言ったんです」

「だいたい全部間違ってる人って言われた!」

「でも姉さんはかわいいので」

「だからなんなんだわ! ……あれ?」

「ふふっ。姉さんは難しいこと考えずに、妹の言うことを聞いていればいいんです」


 まるで姉妹の立場が逆転したようなその台詞に、躑躅は焦りました。


「わ、私からお姉ちゃんを奪っちゃだめなんだわっ」

「ならもうちょっと姉らしくしてください」

「わんわんわんっ……」


 ――ツツジのこんな姿は見たことがない。家デートだとか聞いた時はどうするかと思ったけど、これなら付き合った甲斐があったかもしれないな。


 優は躑躅のことをもっとよく知る、という当初の目的が成されたのでおおむね満足していました。


「いや、でも、ツツジはいかにも一人っ子って感じの性格だから、妹がいるって聞いて驚いたけど……二人を見てると仲のいい姉妹なんだって分かるよ」

「~~、更科さん、とってもいい人ですね!」


 優のその言葉に、皐月は有頂天です。嬉しさのあまり顔を真っ赤にして、今にも踊り出しそうなのでした。

 思わぬ反応を示したのは躑躅の方です。


「でも私が一人っ子っぽいのはそりゃそうだわ? だってサツキは、何年か前に道端で見つけてかわいいから拾ってきた子だし」

「そんな犬や猫みたいな言い方しないでくださいよ……」

「…………」


 ――え、これって触れていい話題か?


「では更科さん、私は宿題があるので部屋に戻ります。何もない家ですが、ゆっくりしていってくださいね」


 優が迷っている間に、皐月は最初会った時のようにお辞儀をして去ってしまいます。


「…………」


 ――僕のことを知らず、僕を見ても惚れない、躑躅とは血のつながってなさそうな、妙に礼儀正しい妹……十六夜皐月……!


「何者なんだ……」

「私のかわいい妹だわ?」


 彼女の存在がなにより衝撃的だった優なのでした。

皐月「もしかして姉さんって……ただの面食い?」

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