2 それが善か悪か、今となっては分からない。
音もなく舞い散る粉雪が、桃色のマフラーに儚い輝きを飾っていく。
空を覆う曇天は薄まりつつある。じきに晴れ間が差すかに思えた。
ふっと息を吐いてから、一歩、一歩、綿のような雪の上に足跡をつくりながら階を上っていく。その先には、緋色の神明鳥居が口を開けて構えていた。
社号標の雪で秘されていたのを手袋で払えば、『三手白神社』の刻字が読める。ミタシロ神社――地元で有名な縁結びの神社だ。
今日はここへ祈りに来たのだ。大切な彼女との幸せを願うために。大事な彼女とのこれからを祈るために。……そんなことを考えていたからか、鳥居をくぐる際、僕は自然とお辞儀をしていた。神社の参拝に別段そのようなマナーはないのだが、体が勝手にやったことだった。
なんだか少しばかり浮ついた心で、神さびた息吹が吹き抜ける境内を進む。普段は巫女が立っている社務所も今日はこの天気で締まっている。
凍てつくような冷気に耳の痛みを覚えつつ――拝殿まで歩いて、10円玉を賽銭箱に投げ入れた。
礼をして、賽銭箱の前で、両手を打ち合わせる。
二礼二拍手一礼。この作法はわりに新しい。起源は明治中期で、広く浸透したのは昭和初期とも言われる。だからこの形式はそれほど大事ではない。ただ神様に日頃の感謝と、ひとひらの願いよどうか届けと、そう強く思えばいい。大事なのは祈りだからだ。
ゆっくりと目を閉じて、どこにいるともしれない神へと祈る。
――僕は、更科優は、楽しい高校生活を送ってみたい。
――思い出すのも嫌になるようなことが、これまでたくさんあったけれど。
――思い出す価値もないような日常ばかりが、僕のすべてだったけれど。
――ようやくなんだ。やっと、誰かを好きになることができたんだ。
――だから、今度こそ信じさせてくれよ。今度こそ……
――神さま。
………………。
…………。
……。
心の中で一区切りついたから、再びゆっくりと目を開ける。世界の景色が取り戻されて、目が合ったのは『三手白神社』の扁額だった。
神様も見ていてくれるだろうだとか、宗教をよく知らない人間特有の思い込みに充てられて、少し気分が良くなった。
「……よし」
――踵を返し、鳥居へ向かおうとした時だ。
なんとなく、後ろ髪をひかれたような気がして振り返る。神社に参拝して「呼ばれた気がした」とか言うのはスピリチュアル系の常套句であまり好きな言い回しではないが、悔しいことに丁度そんな感じだった。
見上げた拝殿は変わらず、雪化粧の施された厳かな唐破風が僕を見ていたが――
――スグル。
「…………」
その時、声は確かに聞こえた。
――スグル。
それは僕の名前。
「……誰だ」
頭の中で、チカチカと光が明滅する。僕の世界に異変が生じていた。視界が白く塗られているのはなにも雪景色のせいだけではなかった。
――スグル。
「――っ!!」
……三度目の呼び声に、世界は啓けた。
――視えたのだ。
「…………」
この世のあらゆる不合理の集合が、僕にその歪みを認識させるに至らしめたのだと。
「なっ……」
理屈ではなく本能で、そう確信させるそれは、僕の頭上に。
まるで自分がこの白銀の世界の主であるとでも主張するごとく、ただ当たり前にそこにあるものとして、いた。
『………………』
認識が混乱や動揺を追い越して、僕の脳に情報を伝達する。
――この淡雪にも負けない真白の千早、清廉なる小袖、日の丸を彷彿とさせる緋色の袴、白足袋に浅沓。
神社に奉仕する神職、巫女……風体から判断すれば、それで間違いはない。間違いはないはず――だというのに、脳とは違う別の部分が、その認識に警鐘を鳴らす。
――色艶の強くどこか青みがかった黒髪を、ゆったりと長くおろした垂髪が、冬の風になびいている。
古式ゆかしい装束の、美しい少女――だというのに、眼前の存在からはどこか超然的な脱力を感じて近づけない。
それは無構えの構えにも似た、あたかも触れたものすべてを傷つける妖刀かのごとき無警戒の険。
この「だというのに」という違和感。それが、底に眠っていた古い魂を共鳴させる。それが彼女の正体を導いた。
――神。
彼女が、この御方こそが、三手白神社に祀られる神なのである。
『――白足恋染津媛命』
神が名乗る。その御名を。
三手白神社主祭神――白足恋染津媛命。またの名を、神可美長依帯姫尊。
戦国時代に建立されたこの社の主。縁結びの奇跡。
「…………」
矮小な一個の人間である男は、突如眼前に現れた上位存在になすすべがない。指一本動かせない無力な男は、よくない妖気にでも充てられたのか、思考がまとまらずぼんやりと神を視界に入れるばかり。いくら人の世で天下を取ろうが、もはやここは神の領域――神域なのである。僕の人生におけるあらゆる前例が通用するはずもない。
『――《恋目》』
すると神の指先が宙に尾を描く。僕を指差す。かと思うと、ポッ……と指先に光が集う。集い、集った光の玉は、淡い桃色の耀きを発しながら――僕の右目を焼いた。
「――ぁっ!?」
突然の激痛が僕の意識を確かにする。はじかれたように神の元から飛びのいた僕は、地に片膝をついて目を抑える。
熱い、熱い、熱い――目の中にマグマを流し込まれたと錯覚する痛痒。
ああ――しかし僕は分かってしまうのだ。すでに魂が繋がれているから、この痛痒が肉体の悲鳴でないことに気づいてしまうのだ。
――焼かれているのは想いだ。――焦がれているのは恋心だ。これはつまり、恋心が僕の身を焦がしているに過ぎないのだ――
そこにまで考えが至った時、僕は未だ眼前で浮揚する神にゾッとした。――それと同時に、あまりにおかしくて笑ってしまいそうになった。否、すでに口元はゆがんでいたかもしれない。
あまりに唐突で、底知れず、身勝手な、縁結びの女神。なるほど御利益がありそうだが――こいつは、的外れだ。なにも分かっちゃいない。この神は、僕という人間を何も理解していない。魂のつながりといえど、所詮は心なき人外か。
僕はいつのまにか、この力の使い方を理解していたから。だからこそ断言できるのだが。――こいつは善神ではない。また全能でもない。
そんなもの、なのかもしれない。人が神を抽象物としてしか捉えられないように、神もまた人間を個として認識することなど不可能なのかもしれない。あるいはちっぽけな人間では考えつかないような神の深謀遠慮があるのかもしれないが――
「ははっ――こんなもので。一体、こんなもので僕にどうしろって言うんだ」
――視界に入れた者を恋に落とす瞳?
この神様の両目に宿る力が――たった今、僕の眼にも写されたのだろうと。
すべてが不確かで曖昧な銀世界の中で、ただ一つ真実だったそれは、ひどく馬鹿げていた。
当時を振り返る優「この日はとにかく寒くて、途中で参拝を後悔しかけたよ」