18 とっかえひっかえが間違いだなんて、あなたは嘘ばっかり。
優にも思うところがあったようで、週明け月曜日、午前中の授業はあまり身が入らなかったと見えます。しかし本人の靉靆たる心境とは裏腹に、優の憂いに曲がる眉が一層周囲の人間を引き付けてやまないことは、今日だけでも19人の女生徒と2人の男子生徒から愛を求められた事実が何よりも雄弁でした。
それら顔もよく見えない人々からの告白をぼんやりと断りながら、優は躑躅の言葉を頭の中で反芻すること数十、気がつけばお昼です。
思わず心配してしまいます。優は昔から一人で抱え込むところがありますから、この懊悩はもしや長引くのではないかと、胸が痛んでしまいます。けれど、どんな時でも頼もしく、聡明なのが優です。彼はすぐに自らのすべきこと、進むべき道を見出して、また次の一歩を踏み出したのでした。
「こんな平日の昼間に、何の用?」
先の意趣返しとでもいう風で水分高校の校門前に現れたのは、白銀のツインテールを黒いレースのリボンで結んだ美少女、不知森野分でした。優が校門前に呼び出したのです。
「随分早いね」
「どっかのバカみたいに徒歩で来ないわよ。自転車、近くのコンビニに止めてきたの」
「あそこ頻繁に撤去されるぞ。帰りは歩きだな」
「自転車通学かしら? 乗せていって」
「ママチャリだから後ろにもカゴが付いてるんだよね」
「真偽の分からない戯言はやめて。ほんとうに、何の用? あなたは知らないかもしれないけれど、わたしも学校に通ってるのよ」
「とりあえずこれに着替えて」
そう言って、優は体育のジャージを野分の頭に雑に積みました。
――すとん。
「え?」
すると野分は突然その場にへたり込んでしまいました。優は訳が分からず尋ねます。
「なんだよ突然。汚いぞ」
「……あなたのせいだわ」
「は?」
「あなたに頭を触られて、あのことを思い出して怖くなって腰が抜けたの。起こして」
「なんか毅然に振舞ってるけど、声震えてるよ」
「だってしょうがないじゃない。今だって怖くて泣きそうよ。でもそうしたらあなたまた怒るでしょ。もうあれは嫌だから、急な呼び出しにもすぐに来たのよ。わたしまだ足りなかった?」
野分は優の機嫌を窺うように、恐る恐る訊ねたのです。それで優はピンときました。
――こいつ、過去に何かあったな。おかしいと思ったんだ、普段すましてるのにちょっと水に沈めてやったら泣いて喚いて従順になった、情けない女。ノワキの過去には興味がないが、そういうことなら都合がいい。
「ノワキは、ツツジよりもかわいげがあるね」
「なにそれ。褒めてるつもり?」
「今度こそ褒めてるんだよ」
「いいから、起こして」
「はいはい」
伸ばされた手を取って、野分を立たせた優は後方の小屋を指差します。
「もうじき午後の授業が始まる。あそこでそのジャージに着替えろ」
怪訝な目で渡されたジャージを広げてみると、そこには『更科』の文字がありました。
「ねえ、これ」
「洗濯してから一回も着てないぞ」
「それもそうだけど。そもそもどういうこと?」
「もし見つかった時、白高の制服のままだとツツジの二の舞だ」
「そんなので誤魔化せると本気で思ってるの?」
「ノワキこそ、僕を誰だと思ってるんだ」
「……?」
疑問に思いつつも、例の件が尾を引いて強く出られない野分は素直にその小屋……体育倉庫へ入っていきました。
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「着替えてきたけど……」
いつも通りのそっけない無表情で優のジャージを着た野分が、体育倉庫から出てきました。
「この間のビキニといい、ノワキは何を着ても似合うね。かわいいよ」
「……なに、いきなり?」
これまでになかったストレートな、露骨な褒め言葉に野分が警戒を示します。
「そういえば、僕はノワキのことを見てなかったと思ってね」
「ツツジからわたしに乗り換えるつもり?」
「まあ、端的に言えばそういうことだよ」
もちろん冗談のつもりだった野分は、優から返されたあまりな言葉に、頭を抱えました。
「最低ね。それで困るのはわたしなんだけれど?」
「ノワキの目的は自分がちやほやされることだろ? 更科優を独占できるならそれに勝るものはないよ」
「冷静な自己評価。ツツジはどうするの?」
「もう会わない。というか、振られたようなものだろ?」
「そうかしら」
「そうだよ。彼女の言葉に、僕は答えられなかった。あんな調子で相手を好きになろうだなんて、無謀だったんだよ」
「あなたがどうしてツツジをストーカーしていたかは分からないけど、要するに、その目的は別にツツジが相手じゃないといけないものではなかった、ってこと?」
「まあそんな感じだよ。だから、今度は不知森野分、君を好きになろうと思ってさ」
「ツツジがダメだったからわたし。そういうの、わたし一番嫌いだわ」
「言っただろ。僕はツツジとノワキを同じくらいかわいいと思ってる。順番の違いなんて些細なものだ」
二人は軽く言葉を交わしながら、校舎に入っていきます。すでに五時間目は始まっていて、廊下には人の陰一つありません。
「わたしとあの子じゃタイプが違う。あなたの好みで多少の優劣はあるでしょう?」
それは優にとっては少々口にしづらいことでしたが、野分を好きになると決めた彼に迷いはありませんでした。
「……アニメとかで、作画省略のためにモブの顔を描かないことがあるだろ。のっぺらぼう」
「それがどうしたの?」
「僕には君たちがそう見えてるんだ」
野分は眉を八の字にします。
「……どういう比喩?」
「そのままの意味だよ。人の顔を見ようとしても、ぼかしが入って、上手く認識できない。いや、見えるんだけど……すぐに忘れる? 脳が無意識に、どうでもいいと思ってる感じで、覚えようとしないんだ」
「わたしやツツジと、そこらへんの人間の区別がつかないって言うの?」
「気持ち的にはね」
優には、色をなした野分の態度は想定通りでした。彼女らは自らの容姿に絶大な自信を持っていますから、それをないがしろにされるような扱いはいっとう嫌うのです。それでもこの事実を優が口にしたのは、野分への誠意か、はたまた自棄か。優自身、心の整理がついていない様子でした。
「それをツツジに見抜かれた。全くその通りだったから、僕は反論できなかった」
「それで、なんだっていうの? あなたがツツジを諦める理由になる?」
「……自分を見てくれない相手を好きになるのは、難しいだろ?」
「…………」
野分はたいへん驚きました。と同時に、少し嬉しいと思ったのでした。
「だからノワキには隠すのをやめようと思ったんだ。最初から伝えておけば、相応のやり方もある」
「どうかしらね」
どこまでもつれない様子の野分に優が苦笑を見せている間に、二人は辿り着きました。
水分高校2年D組。優やエーデルワイス、陽らの教室です。
実は五時間目は科学で移動教室だったので、現在この教室には優と野分の二人だけなのでした。
「私立だけあって綺麗ね。うちとは大違い」
「"勉強もできる動物園"と一緒にされても困る」
「へえ、水分のガリ勉たちはうちをそう呼んでるの。陰湿」
「廊下をバイクが走ってるって噂はホントか?」
「百聞は一見に如かずよ。一度来てみたら?」
「僕はまだ命が惜しい」
と言いながら、優は自席へ座ります。
「主人公席ね」
「この席はいいよ。後ろの陽と喋りやすい」
「誰?」
野分にとっては誰かも分からないその席に、彼女は腰掛けました。
「……」
そうして前の席の優を、黙って見つめます。
「どうした?」
彼は問いかけます。
「一瞬、あなたと同じ学校だったらって考えたの」
「どうだった?」
「最悪ね。みんなあなたのことばっかりで、誰もわたしを見ない」
「その割にはニヤついてるぞ」
「……これは自嘲の笑み」
「ならどうして口元を隠すんだ?」
「しつこいわ。わたしをこの学校の生徒に仕立て上げて、なにがしたいの?」
顔の下半分をジャージの袖で隠した野分は、いつまでも自分を呼び出した理由を話さない優にイラついていました。
「実はもう用は済んでる」
「なら帰るわ」
言って、野分は本当に席を立って後ろの出入り口から退出しました。
「――ん、なんだ。こんな時間に。……というか、君は……?」
……しかし、その先で巡回中の教師に見つかってしまったようです。
「あ、えっと。わたしは……」
廊下からは野分の焦った声が聞こえてきます。
「……なにしてるんだよ」
ため息一つ、優は立ち上がり、野分の横に立ちました。
「……更科? お前までなんでここに」
教師の頭には現在、二つの疑問が浮かんでいます。
・なぜ生徒が授業中に廊下を出歩いているのか
・こんな女生徒が自分の学校にいただろうか
それに優は、悩むでもなく答えます。
「……先生」
「お、おお……更科?」
優は教師に少し微笑んで見せます。
……――ただそれだけでいい。躑躅や野分に捕まった時と同様、ただ願うのみ。
「僕たちがここにいても、なにもおかしくないですね」
「……おかしくない、かもしれない」
「こいつは後輩、一年生なんですよ。だから先生もまだ見覚えがなかった。そうですね?」
「そう……そうだ。その通りだ」
「なら僕たちに用はないですね? 職員室に戻ってください」
「……分かりました」
悪いものにでも憑りつかれたような教師は、優に従順。二つ返事で了承し、この場から退場します。
「今、あなたなにしたの? 催眠術みたい」
「君たちに通報をやめさせたのと一緒だよ。僕が命令し、人間はそれに従う。分かるだろ?」
「あなたが更科優だから?」
「ああ。言っただろ、僕を誰だと思ってるんだ」
野分の手を引き、再び教室に招いた優は、念のためドアを閉めておきました。
「大抵の人間はああなる。でもツツジやノワキは自分が美しい者だという自負からか、もうある程度は慣れたみたいだね」
「もしかして、それがツツジをストーカーしてたことと関係するの?」
「どうかな。……でも、そうだね」
煮え切らない態度のまま、優は近くの席に座り、薄い笑みを浮かべます。
「ツツジの猪突猛進さは少し見習おうと思ってさ。僕はノワキを好きになると決めた。それを今すぐ本人に伝えたくなったんだ」
「それがわたしを呼びつけた理由? 自分勝手ね」
「……僕には自分勝手と誠実さの区別がつかないよ。少なくとも、ツツジのあれは……」
「ねえ」
野分は優を見ます。そのどこか冷気を湛えた瞳に、更科優を映さんとします。しかし……
「あなたは言葉が軽いから、どこに本音があるか掴めないのよ。もっと正直になれない?」
「今の僕は正直じゃないのか?」
「……いいわ。――ねえ、ツツジはどうやったの? ……きっとこうね」
「……おい」
椅子に座る優の顔に、佇んだままの野分は触れます。両頬を、両手で包む。たしかに彼女がそうしたように。
「わたしはノワキ。ツツジじゃない。あの子みたいには見てあげられない。でも、だいたい似たことはできるでしょ」
普段は40センチ近くある身長差も逆転し、今は優が見上げ、野分が覗く役です。彼女の銀の前髪は重力に従って垂れ下がり、天蓋のように優の視界を覆いました。二人の視線がしかと交差したのです。
「わたし、目の美しさには自信があるわ。あの子よりずっと綺麗なものばかりを映しているもの。満天の星空みたいだってよく言われるの」
「……そうなんだな」
「でも、あなたにはこの星が……」
「……」
「ツツジみたいに、見えてないのねって言ってあげられない。だってあの子が見てるものが、わたしには見えないもの。でも、それでいいんでしょ? わたしはただ目の前のあなただけしか見えない。あなたもそう。この形ある美しいものしか見えない。ほかの、見えもしない美だなんてもの、この目に映そうとは思わない。それで……」
「それでいいんだ。ノワキは、できればそのままでいてほしい。……いて、くれるか?」
野分は微笑を溢して言ったのです。
「……ねえスグル、あなたわたしのこと好きになっていいわ。がんばって」
「今日のノワキは優しいな」
「だって、あなたがあんまり子供みたいなんだもの。いじめたら可哀想よ」
「……よく分からないよ」
「おかしいわね」
どこか楽し気な二人はこの時たいへん油断していました。
「え……?」
だからほど近くから第三の声がして初めて、二人はぱっと距離を取ったのです。泡沫がはじけ、凪のようだった心が風雲急を告げます。
二人がふっと視線を声の方へ向けると、そこには一人の女生徒が佇んでいました。
「あ、えっと……更科、くん? その子は……」
「…………」
ゆるく波打った長い金髪の少女、源エーデルワイスに、野分が見つかってしまったのです。
自転車を漕ぐ野分「ぜぇ……はぁ……ああもう、これでロクでもない用事だったらただじゃおかないわよ……!」




