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39 皐月・郎女・八千代

「神さま、ですか……?」


 行き倒れていたバニーガールの女の子と、ひとまずお話をすることにしました。満足に手足も動かせないと主張する女の子を背負って、私は近所の狭い公園へ移動します。彼女をベンチに降ろしてから、私も隣に腰掛けました。


 そうして彼女は開口一番言ったのです。『初めまして皐月、私は神さまです』、と……


『誤解のないよう言っておきますが、おそらく皐月が考えているようなデウスではありません。私はそのような神を知りません』


「そう……なんですか?」


『はい。キリスト教徒の皐月に対しては、私はむしろ自らを人間だと名乗る方が適切かもしれません。なぜなら私とあなたのあいだには、存在の核となる御魂の密度の他には、なにも違いはないのですから』


「よく分かりませんが……とっても偉い人ってことですか」


『そう捉えてもらっても、なんら差しさわりはありません。私はとっても偉いのです。にこーっ』


 私は私の教えられたことの外側に、ものを考えることがさほどありません。それは私が十六夜家の一員となる上での自然な成り行きでそうなったものであり、他方ではまた、私と姉さんとの目に見えない愛の形でもありました。


 ゆえに私は、目の前の、表情に乏しい、けれどもとびきりかわいらしい女の子を、さる高貴なお方のように思って、それで済ませるのでした。


 ……さて。


「まず、いくつか聞いてもいいですか?」


『はい。私はどんな質問にも答えることを皐月に約束します』


 特に気を悪くした風でもなく、彼女はまたしても笑ってくれました。とても心の優しい子なんだと思います。


「えっと、じゃあ、どうして私の名前を知っていたんですか?」


『私が皐月のことを知っていたからです』


 答えになっていないような気がして、首を傾げてしまいました。ですが、


「あ」


 私は思い当たる節があり、横に置いておいた手提げ袋から雑誌を取り出します。そのページはちょうど折り目がついていたので、すぐに開くことができました。


「もしかして、これですか?」


 私が指差したのは、雑誌の右下に小さく載っている写真……お母さんと、姉さん、そして私の三人が揃って写っている写真です。私たち姉妹が公の写真に写ったのはこの一度だけですが、こうして雑誌やネット記事などにたびたび掲載されているのでした。

 私は、この少女が写真経由で私を知っていたのではないかと、そう考えたのですが……


『いえ。十六夜八千代のことはもちろん知っていますし、躑躅とは友人ですが、それだけです。私はその写真が撮影されるより以前から、あなたのことを知っていました』


 その可能性は否定されてしまいました。


『むしろ、あなたのことだけは、私は誰よりも知っていますよ。現在、この世界でただ一人、あなただけが私を見ることができるように。私もあなたがあなたであるからこそ、知ることができるのです』


 少女が私を見つめます。その黒い眼のなかに私を収めます。それはどんどん近づいてきて、世界ごと、運命ごと私を呑み込んでしまうようでした。 


 でもそうはなりませんでした。少女は事実、私に近寄っていたんです。長いウサ耳をぴょこぴょこ揺らして、黄昏時の鈍い光を纏いながら、その白い両腕をのばして…… 


 ……ぎゅっ……。


「…………え?」


 私のことを、その身で抱きしめてくれます。懐にある大事なものを、もう二度と手放さないように、離さないようにと――その幼い体躯からは想像できないような強い力で、包み込むのでした。私はすこしだけ苦しくて、声を漏らしてしまいます。


『――あなたの母は、皐月の誕生を心から喜んでいました。私はそれをしっかりと見ていました』

 

 私を抱きしめるバニーガールは、相も変わらず感情の読み取れない声色でそんなことを言います。


 私の、お母さん……?


『十六夜八千代のことではありませんよ』


「……私の、本当のお母さん……」


『はい』


 まったく同じ相槌を打ち続ける彼女は、ゆっくりと私の体を離します。そうしてその顔で私を真正面から見てくれます。


 私のその言葉は、どこか彼女の顔に引き寄せられるみたいに紡がれました。


「私の、ご先祖さまなんですね」


『にこーっ』


 どこか作り物めいた笑顔。けれどもとっても感情豊かな笑顔。


「……あなたの名前を」


 いてもたってもいられなくなって、私は訊ねるのでした。


「教えてほしいです。改めて、私は、十六夜皐月です」


 すると彼女は、ここにきて初めて、少しだけ考える素振りを見せました。


 なにやら迷いがある様子でしたが、しばらくすると心が決まったようで、


『では私のことは、イラツメと呼んでください。それ自体は個人を指し示す名ではないのですが、いちいち大そうな名で呼称されるのも憚られますから』


 ◆◇◆◇◆

 

 私はイラツメに訊ねました。どうしてバニーガール姿なんですか、と。


 彼女は答えました。これはパジャマです、と。


 パジャマらしいです。


『似合っているでしょうか。ぴょん』

 

「とってもかわいいです!」


『にこーっ』


「でも、どうしてパジャマなんですか?」


『近くの浅川で水浴びをしていたのです。もっとも、手足が上手く動かないので、半ば流されるような形にはなりましたが』


「冬にあんな小川で!? なんということでしょう……!」


『おかげで綺麗になりました。にこーっ』


 とてもよく笑う子なのだと思いました。


「それで、イラツメはどうしてあそこで倒れていたんですか?」


『ある日、《恋目》でチビチビかき集めていた魔力が、とある神術を行使した際にとうとう底を尽きてしまいました。そうして私の御魂は消滅し、“神格そのもの”だけがこの世界に残され、私の神体が安置されている三手白神社の境内に引き戻されたのです。剥き出しにされ、野ざらしの神格は形を持たず、この世界の人間には認識することができません。ゆえに私の姿は誰にも見えず、魔力がないため力も出せず、私は一年以上、ここ一帯を彷徨っていたのでした』


「なんだかよく分かりませんがとっても不憫です……!」


『皐月が同情心を示してくれることはとても嬉しいのですが、私は私の判断によって術を発動させ、このような体になったのですから、必要以上に入れ込む必要はありません』


「そのような物言いはいけませんよ。困っていたら、困っていると言っていいのです。イラツメ、今日はおうちで一緒にご飯を食べましょう?」


『むぅ』


 次に、どうして私だけにはイラツメの姿が見えるのか訊ねました。


『その血に流れる、極めて微弱な、しかし本質的に私と同質の神格のためです。正確には、この私は今ここにいるのではないのです。皐月は、私の不在を見ているのです。ここにはいない私を、皐月のなかに巡る私の神格越しに透かし見ているにすぎないのです。ここに私の御魂はありません。不在の私には、皐月の神格を通して意思だけがあるのです。私の存在を皐月が認識しているのではありあません。皐月の認識によって、私は存在しているのです』


「難しいことは分かりませんが、血のつながった子孫だから見えるということですね!」


『そういうことなのです。それで私はずっと皐月を探していたのです。この世界で唯一、いまの私を眼差す者である皐月に私を見つけてもらい、こうして我が身空を話さないことには、私はいつまでもこのままでい続けなければならないと考えたためです。それには限りない位相の近接が要されました』


「つまり……あえて私の歩行ルート上にいたということですか?」


『超速理解助かります』


 イラツメは首肯してくれました。いくら雑誌を読んでいたからとはいえ、道端で伸びている人間がいたら私だって気づきます。あの瞬間、厳密には、イラツメはまだいなかったということでしょう。歩行中、私とイラツメの存在する空間の位置がおおよそ重なったために、私にもイラツメが見えるようになったということらしいです。


 そのために、一年以上もかけて私の通学路へ移動していたとのことでした。


『神体が祀られる三手白神社から抜け出すことは、今の非力な私には年単位の大仕事なのでした』


 大変だったようです。助けてあげたいです! そして、優しくしてあげたいです。


 私にはすでに、この小さな頑張り屋さんがなんだか愛おしく思えてくるのでした。


『今回は皐月のいささか過剰すぎる感受性に助けられる形になりそうです。私は先んじて礼を言うことにします。ありがとうございます』


「はい、どういたしまして。……えっと、にこーっ?」


 ぽかぽかぽかぽかっ。


「あははっ、痛い、痛いです、イラツメ」


 真似をしないでください、と怒られてしまいました。


 ◆◇◆◇◆


「あの、お母さん」


「ん? なによ」


 イラツメを連れて帰宅した私は……


 私以外の人間にはイラツメが見えていないと知っていながらも、やはりどこか後ろめたい部分があって。


「もし、私が捨て犬を拾ってきてたりしたら……怒りますか?」


「なにあんた、犬拾ってきたの?」


『誰のことを言っているのでしょうか。わんわん』


 姿の見えない女の子の居候を、遠回しに許可してもらおうと、こんなことを言ったのです。 


 当然のことですが、イラツメの姿も声も、お母さんには認識できていません。


「拾って来たなら正直に言ったらいいじゃないの」


「い、いえっ、そうではないんですが、ないんですがぁ……」


「………………」


「あ、あぅ……っ」


 お母さんの、訝るような眼差しが怖くて、もう泣きそうです……。


「まあ、仮に隠してたとしても、別に怒こりゃしないわよ」


「ホントですかっ」


『私は捨て犬ではないのですがわん』


 叱られるかと思ったら、お母さんは笑顔を見せてくれたので、ホッと胸をなでおろします。


「だってさあ皐月、あの狂おしいほどに愛くるしいバカがあんたを拾ってきたの、ちょうどあの子が今のあんたくらいの頃だったでしょ」


「…………」


 七年前。私と姉さんが初めて出会った2018年――


 姉さんは、小学六年生でした。姉さんは3月生まれなので、今の私と、同じ年齢……。


「……そう、なんですね」


 これまで考えたことなかったことで、私は呆然としてしまいます。


 ――私はもうすぐ、あの頃の姉を通り越してしまう。


 それを思うと、なにかこう胸がきゅっとなるのでした。

 

 別に姉さんが死んでしまったわけでもないのに、もう会えないような気がして、遠く離れてしまったような気がして……なぜだか寂しいような心地がします。

 

 あまりにすばやい時の流れに、私は眩暈を起こしてしまったようでした。「老いが根源的に不幸であることはどんな楽天家にも覆すことのできない事実なんだわ」と、そんなことばかり言っている姉さんがなによりも恐怖しているものの正体が、これなのでしょうか? ……。


「だからまさか、あんたまで女の子連れてきて、この子をうちの子にしてください! なんて言い出すんじゃないかって、勝手に身構えちゃった」


「ぎくっ」


「ん? どったの」


「ななな、なんでもないです! そんな非常識な行いをできるのは、姉さんくらいなものですよ! あはは……」


「ま、あんたはその非常識に拾われてきたんだけどね」


「あぅ……」


「だからまぁ、それに比べたら、いいわよぜんぜん。犬くらい」


「ホントですかっ」


「ん」


『わんだふる』


 お母さんは、目を細めて私の頭を撫でてくれます。私の大好きなお母さんでした。


「それで、なに、どこに隠してんの。押し入れ? クローゼットの中? 母さんにも見せてよ、ワンちゃん」


「あ、いえ、それはちょっと……」


『私はバニーガールだ、わん。イラツメだわん。さつきー、にこーっ』


 ……その後、イラツメ(子犬)を探しに私の部屋へ押し入ろうとするお母さんを止めるのに、大そう苦労したのでした……。

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