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34 愛を与える

 2025年1月26日



 躑躅と二人、昼下がり、共同銭湯からの帰り道のことである。


「ん」


 と、躑躅がすっと手を差し出してくる。


「なに?」


「ん!」


 不得要領の僕に彼女はイライラ、眉をぐんにゃりくねらせて、お菓子コーナーの幼女みたいに地団駄踏んで、


「ん!!」


 元気よくひらいたおててを、ぐいっと僕の眼前に突き出してくる。そうしてまたもや「ん!」、その愛らしい唸り声がなにかを求めていることは明々白々。問題はその「なにか」を彼女が頑なに言葉にしてくれないことなのであるが。


「……えっと」


 これでいいのかな。あまり自信はなかったけれど、僕は躑躅のちっちゃな右手に、自分の左手をおっかなびっくり重ねてみる。これで予想が間違っていたら、そのまま彼女の不満が大爆発して閑寂な膝折温泉郷は次の瞬間には跡形もなく消えてしまうんじゃないかとさえ思われたのだが、


「……えへへ」


 躑躅は僕の手をきゅっと握って、ぎゅっぎゅとなんども握り直して、ようやくできあがったのが昨日までだって何度もしていた、ただの恋人繋ぎ。

 そんな、なんにも変わり映えしないくだらない行為一つで、この少女ときたら、


「えへへ……」


 昨日までの屈託はどこに置いて来たのか、幸せそうに頬を染め上げて、にへらとだらしのない笑顔。るんるん鼻唄なんか歌っちゃって、僕と繋がった生っ白い腕をぷらぷら揺らしちゃって、指と指がぴったりくっついたその手を中空に掲げて眺めながら、やっぱり彼女は、


「えへへへへっ」


 誰だこいつ。


「やっぱり優ってすごいんだわっ、私の心なんかぜーんぶお見通し、まんまる肌かんぼうのすっぽんぽーんなんだわ!」


「すっぽんぽんではないよ。人間は服を着る生き物なんだから、その下のことは僕には分からない」


「そんなこと分かってるんだわ。ただ、私が手を繋ぎたいって思ったら、優にちゃんと通じたのが、それくらい嬉しかったってこと……」


 めちゃくちゃフィーリングで会話してるんだけど、いまの返し合ってたのかな。とっても不安なので、彼女の表情で答え合わせ。


「うぇへへー」


 とりあえず合ってたっぽい。


「……優、どうしたの?」


 早足になった僕を、雨の日に捨てられた子犬みたいな目で見つめてくる。


「トイレ」


 さっきから我慢してたので、少しでも早く宿に戻りたかったのだ。


「急がば回れだわ」


「回ってるあいだに漏らしちゃうよ」


「ずっとここにいて」


「いや、さっきもそうやって君に妨害されて、もう僕、限界でさ、」


「やだ。……どこにもいかないで」


 ぐいぐいと僕の腕を引っ張ってくる。体がぐらぐら揺れて、そのたびに膀胱が悲鳴を上げる。


「早足でついてきたらいいじゃないか」


「そういう問題じゃないんだわ!」


「じゃあどういう問題なんだよ」


「心が私の方を向いてないのが、寂しいんだわ。一緒じゃなきゃヤだ」


「……はあ」


 ……かれこれ朝からずっとこんなである。


 さすがに昨日のプロポーズ(?)が原因だとは思うのだが、いくらなんでも急変がすぎる。


 まるで以前の彼女のように、わいわい騒いで、ぴょんぴょん跳ねて、楽園世界に閉じこもっている。


 嬉しいのだろうか。幸せなのだろうか。僕という初めての彼氏ができて、浮かれているのだろうか?


 だからこんなふうに、いかにも恋に熱を上げた可憐な乙女然としているのだろうか? 

 流し目で、ちらりと僕を見つめて、ぱっと顔を背けて、ぽっと顔を赤らめる躑躅さん。そんな娘々した仕草が似合うような女では、昨日まではなかったはずだった。


 彼女の瞳に滲んでいるのは、あからさまな恋の色である。


 恋を覚えて、幸せを享受して、そのぽかぽかをみんなに振りまく完璧美少女。僕らは長期滞在ゆえ、表の通りではいくぶんか顔も覚えられてきている。彼女のハイテンションは、今日の朝から膝折中の噂である。近くの商店に寄った時なんか、お祝いのおまんじゅうを両手で持ちきれないくらいもらっちゃって、今では全部躑躅の胃袋の中。


 美少女と美少年のカップル爆誕。初々しい彼女の姿に、膝折のおじさんおばさんはお腹いっぱいなのであるが、そんな周囲の鼻白む空気などどこ吹く風、誰もが羨む美少女の人生は前途洋々、恋する乙女は無敵である。


 ――そんな躑躅が、僕には我慢ならなかった。結局のところ、またこれの繰り返しなのかという大きな失望が、胸のうちに音もなく広がっていく。


 どんなに個性的な美少女も、凡庸な恋心の芽生えによってその性質を綺麗に均されてしまうのだ。あの恐ろしい現象が、今まさに起ころうとしている。僕はその光景を嫌というほど目にしてきた。

 

 美少女とは恋の対義語なのだ。彼女たちは、本来的に恋をするべきではない。


 世の中のカップルは、なにがそんなに楽しくて笑っているのだろう?


 僕はなんども彼ら彼女らのようになろうとして、それに近づこうと振舞って、ことごとく失敗してきた。


 恋人を前にしたあらゆる男と女が、お互いに対して「彼氏」「彼女」という幻想を見ながら滑稽な演技をしている。


 恋人関係に陥ることによって、僕たちは「恋人」という役割を天から押し付けられて、元々の輝かしい人格をその鋳型のなかにぎゅうぎゅう押し込められて、その者の個性はきれいさっぱり抹消されてしまう。あまつさえ、そのことに喜びを見いだしているようではないか! こんなのは自傷行為と変わらない。人としての尊厳を肥やしにして空疎な「恋人」を引き受け、虚妄のうちの幸福に満たされる豚である。


 つくづく思う、自分に惚れている女ほどつまらない人間もいないだろうと。こちらがなにを言っても好意的な解釈ばかりで面白みがない。まるで白痴のようである。その上、僕も相手のそんな態度に付き合って、そっか、ありがとう、うれしいよなんて返事をする。うれしいよ、うれしいよ、うれしいよ。その言葉の形を口が覚えるほどに繰り返すうちに、もしかしたらそれが虚心に転じたりするのではないかと期待をしたこともあったが、そんな都合のいいことは起こらない。


 僕はいつも、そっか、ありがとう、うれしいよ、なのだ。うれしいよ、そこまでなのだ。その先の言葉が出てこない。与えてくれたものを、相手に返してあげられない。


 だから括弧書きなのだ。自然な形で彼氏になることができないから、「彼氏」になるしかないのだ。だが、いきなり「更科優」であることを中止させられて、「彼氏」にならなければならないのはあまりに虚しいではないか。


 これはまた僕だけの問題ではない。


 僕のようではない多くの一般的な男性が、また無数の女性がこの演劇に酔いしれている。


 今の躑躅もまた、そうなりかけている。


 「十六夜躑躅」を停止して、この世界に星の数ほどいる「彼女」の一例になろうとしている。そこらへんの適当な彼氏持ちの女をとっ捕まえてきて、躑躅の代わりに喋らせたところでなんら差支えがないような存在に成り下がろうとしている。


 僕のことを知ろうとして、僕の好意を試そうとして、「恋人」をしようとして、みんな同じことしか言わなくなる。


 一体、恋をするということは、「この私」のかけがえなさを手放すことなのではないか?


 僕はずっと昔から、女に対してそのことだけを警戒し、躑躅との関係においてはそのような事態に陥らないように、十分な注意を払っていたのではなかったか?

 

 どうして油断してしまったのだろう。こんな躑躅は見たくなかった。


 僕に対して恋人のように振舞う躑躅、僕に好意的な躑躅など、もはや躑躅ではないではないか。


「だから人間は嫌いなんだよ……すぐにみんな、同じことしか言わなくなる……嬉々として自らの個性を手放そうとする……人間は、人間はそんな安っぽいものじゃないはずなのに……」


 ――……と、そこまで考えた僕は、さすがに違和感を覚える。遅すぎたかもしれない。


 躑躅(仮)が、先程から妙に静かなのである。


 普通、人間が二人一緒にいて、片方だけがこんな長々と沈思黙考するなどできないものだ。

 つまり、僕が思考の渦に呑まれているあいだ、彼女はどうやら一言も喋っていなかったらしい。


 いつのまにか、僕と繋いでいた手も放している。


「躑躅? お前、なにしてるんだ」


 見れば、彼女は僕の前に跪いている。


 頭を垂れ、目を瞑り、顔の前で合掌して微動だにしないその姿は、彫刻のように固まっているというよりはむしろ、人間のように精緻な彫刻ともいうべき静謐を身に纏っていた。


 冬空を貫く透明な太陽の光が、躑躅の黒髪を濡らしている。


 過度な集中のためか、この季節だというのに、彼女の頬には一筋の汗が伝っていた。その汗の跡さえ日輪の炎は見逃さず、これ見よがしにきらきらと照っているのだが、彼女がそれを拭おうとする素振りはない。


 ……やがて躑躅がたっぷりと時間をかけながら瞼を上げると、その瞳の中いっぱいに光を湛えて、こんなことを言い放つ。


「神さまに、祈りを捧げていたんだわ」


 彼女の姿はたしかに、誰がどう見ても祈りのポーズではあったけれども。


「よ、よく知らないけど、お前、神を信じられなくなったんじゃなかったか。それも――」


 ――それも、こんなところで。祈りってのはもっとこう、人がいない場所で、ひっそりと行うものじゃないのだろうか。第一、そんな体勢じゃ、祈る相手がまるで違う――


 そんなふうに言葉を続けようとしている僕の雰囲気をはねつけて。


 躑躅は、一音一音を噛みしめるように、威厳さえ滲ませながら口を動かす。


「――だから、神さま」


 真正面から、躑躅の眼差しが僕を射抜いている。


 彼女の瞳に満ちた光は、よくよく見ると僕の姿に他ならなかった。躑躅の目には僕が映っている。僕だけが映っている。それ以外の何物をも見ようとはしていない。幼い頃から神の花嫁となるべく教えられてきた、敬虔な修道女のように一途である。


「なにを考えてるんだ、躑躅。いや」


 ……しかし、どういうわけか、嫌な気はしない。僕しか見えなくなった女に特有の、あのねばつくような澱みの感じは、躑躅からは一切しないのが不思議だった。


「なにが、どうなってるんだ、躑躅」


 明らかに僕の理解を超える働きが、彼女の心に出来していた。


 混乱し、頭が熱くなり、呼吸がおぼつかなくなる。

 予想外のことを前に、僕はすぐ焦ってしまう。


「私ね、久しぶりに生きてるって思えてるんだわ。ちゃんと呼吸してる。体の重みを感じる。この身体に、激しい陽射しを浴びてる。ここにいる。私はここにいる。あなたの前にいる。たった一人のあなたへ、この私の有限な生の時間を与えています。これが私。これが私の愛。母親の罪を引き受けて、母の苦しみを自分の苦しみとして苦しんでいたようなあなたが、私と共に生きようと言ってくれました。感謝します。私はそれに応えます。この私を与えます。……」


 それから躑躅は昨日までの躑躅に戻った。


 もとに戻った躑躅と、数日かけて、キスとセックスをした。なんだかよく分からなかった。特別だった気もしたし、大したことない気もした。とにかく僕たちは、自分たちの恋愛関係ということについてよくよく考えてみて、躑躅を好きだという僕はどうしても自分ではないような気がしたし、僕を好きだと言う躑躅もどうしても躑躅じゃないような気がして、ようするに僕たちは「恋」をすることについてとうとう理解ができなかった。なぜなら、僕たちは一度だって相手のことを思って胸を苦しめたことがないし、相手のために他のなにかに対して怒りを向けたことも、「自分が理解している相手」の部分に目を向けることで幸福を得るということすらも経験できなかったからだ。僕たちが互いに与え合っていたものは、相手のことはどうしたって理解し尽くせないというもどかしい確信だけだったのである。それでやっぱり恋人というのは「面倒くさい」という結論に至って、またそのような状態でなおも恋愛を続けることは真実の恋に対して不義理であると思ったので、僕たちはもう静かに愛し合うことにした。この静かに愛し合うということが、以前の僕たちの関係となにも変わらないことに気が付いた時、僕たちはようやく自分のとるべき基本姿勢を悟り、そのようにすることに決めて、ついに心安らかになった。2月10日の夜のことである。

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