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30 いまここにある非日常

 2025年1月15日


 

 昼間から布団に仰向けになってぼんやりしていた躑躅が、口を開いた。


「ゲイはゲイでも広島に原爆を落としたゲイってな~んだ?」


「……エノラ・ゲイ」


「……………………」


「……………………」


「アフリカのま●こ割、女性器割礼」


「……………………」


「あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ……」


「躑躅」


 僕は傍にしゃがんで、天井を見つめて「あ」としか言わなくなった躑躅を、抱き寄せる。


 たまにこうして差別発言とか不謹慎なことを言い放ってはたちまちに狂ってしまうことが、彼女にはあった。あるいは、そういう演技をすることで正気を保っているのかもしれない。どちらも同じことである。発症時は、ぎゅっと抱きしめてやると治まる。


「ありがとう、優」


「うん」


「もう少し、このままがいい。ぎゅってしてて」


「うん」


 そのまま僕の肩に頭を預けて、彼女はまた唐突に、


「女性向けのえっちな漫画を読んでると、優みたいな人がよく出てくるんだわ」


「僕みたいって、どんなの?」


「イケメンで、えっちが上手くて、セフレがいっぱいいるんだけど、だからこそ本当の愛というのが分からなくて、相手から愛されるのを面倒だと感じちゃう。定期的に彼女を作るんだけど、しばらくすると相手から『私のこと好きじゃないでしょ』って振られるんだわ。本人は一応、愛してるつもりだったのに、みたいな」


「悪口すぎる」


 自分の特徴をキャラクター的な類型に当てはめて語られると、いつもとはまた違うダメージがある。


「そういう回避型の愛着障害みたいなキャラは、漫画だと、主体性・積極性の塊みたいな女か、適度な距離感を保ったまま長期の付き合いを続けられる我慢強い女の、どちらかに攻略される傾向があるんだわ」


「躑躅は前者だな」


「《十六夜躑躅》はそういうキャラクターだから」


「今また以前の躑躅みたいにはできたりするのか?」


「できるけど……してほしいの? 《十六夜躑躅》の私の方が好き?」


 躑躅は僕の首に両腕を回してくる。こういうところは分かりやすい。


「今の方がいいよ」


「よかった。私も……これが自然体だから」


「躑躅みたいなキャラも、たまにエロ漫画に出てくるよ」


「どんな?」


「エモぶってる感じの質感エロ漫画とかに出てくる」


「は?」


「鬱・エモ・サブカル」


「ねえ本当にやめて」


「……にしても、躑躅がそういう精神病分析みたいなワード使ってくるの、ちょっと意外だな。そういう型に嵌めるようなの、嫌いだと思ってた」


 彼女は分析哲学的な明晰な言語化やカテゴリー分けのような行為をあまり好まない性質だった。


「そうだけど。今のは多分、さっきまであなたのTwitterのアカウント眺めてたから、その影響だわ」


「……? そんな感じのツイートしてたっけ」


「これ。三年前のツイート。『他者の好意に対して上手に応えられない上に、その発露の仕方が明らか定型発達のそれではないんだよね。俺って愛着障害のアニメキャラなんかなぁ』……17いいね、2ブックマーク」


「ああ。懐かしいな、それ」


 そこまで話して、急にいろんなことが怠くなってしまった僕は口を噤んだ。口を噤むと起き上がっているのも辛くなって、躑躅を抱いたまま僕は布団に寝ころんだ。


「えっ、ちょっと」


 目を瞑る。


「優……?」


 なんだか震えていて、なんとも不安そうで、なんとなく落ち着かない感じのよく分からない彼女の声が、僕の枕元に落ちる。


「なんか眠くなった」


「まだお昼だわ。不規則な生活はだめ」


「抱き枕になってくれ」


「事後承諾なんだわ」


「事前に言ってたら了承してくれたのか?」


「してたわ」


「なら、明日からは事前に言うようにするよ」


「…………」


 数秒の沈黙ののちに、


「…………やっぱり、別にいいんだわ」


「そうか」


 返事をすると、今度は無性に起き上がりたいような気持ちに駆られた。


「よいしょっ……」


「きゃっ」


 勢いをつけて、抱きしめた躑躅ごと上体を起こす。


 なんとはなしに、ちゃぶ台の方に目を遣ると、机の端に置かれた急須のまわりが水浸しになっている。半刻前に躑躅がこぼしてしまったのが、そのままになっているのだ。


「あれ片付けて、それからお昼ご飯食べに行こうか、躑躅」


「うん」


「それと、あれだ。その前に温泉」


「行ってらっしゃいだわ」


「提案なんだけどさ、躑躅」


「?」


「一緒に内湯に入らないか」


 躑躅の双眸が僕を映した、気がした。彼女の視線はそのまま、僕の顔へと固定されて、たっぷり10秒……


「…………なんで?」


「なんとなく」


 ぱちくりと、躑躅が瞬きをするのが、視界の端に見えた。


「私と、一緒に、入りたいの?」


 彼女の頬が、ほのかに赤くなっているのが分かった。


「分からない。なんとなく」


「じゃあ、入らない」


「そっか」


「…………」


「…………」


「本当に、入らないわ」


「うん、聞こえたよ」


「いいの?」


「うん」


「優」


「なんだ」


「私を見て」


 僕は彼女と目を合わせた。


「よかった」と、僕は思わず口に出していた。


「なにが?」


「きみが、泣いてるんじゃないかと思ったんだ」


「それ、誰を思い出してるの?」


「…………」


「私を見て、って言ったんだわ」


「…………」


「……みたいなことを言われると、優は、面倒だって感じるんだわ?」


「それで、なんだ今の発言は冗談か、とはならないよ」


「だ、大丈夫だわ。だって、私、別に優のこと好きじゃないから……」


「別になんでもいいよ」


「ねえ、好きになんて、なってないからね」


「ムキにならなくていいよ」


「……うん」


「ご飯食べに行こう?」


「うん」



 ◇◆◇◆◇


 

 たしかに僕は、彼女たちのことを考えていた。


 自分が愛されていないのだと気づいた時の、彼女たちの顔を、その目を、その言葉を。


 なかでも絶えず頭のなかを覆い尽くしては靄のように消えてを繰り返しているのは、最も記憶に新しい、彼女のあの目つきだ。


『私のこと嫌いになったなら、言ってくれていいからね』


『ねえ、優くん、私に飽きちゃった? 私、なにか足りなかったかな……?』


(エル……)


 彼女は今どうしているだろう。


 年末までは、頑張って忘れようとしていたのに。最悪の初夢を見てしまったおかげで、小正月になってもまだ脳裏にこびりついたままだ。


 彼女はこの約一か月の間に、母を失い、恋人を失い、妊娠の発覚した親友一人を抱えて、大学受験を……。


(その並びで、大学受験ね……)


 笑ってしまう。人によっては就職や結婚よりよほど真剣に向き合うべきイベントだというのに、あの境遇でせっせと受験勉強をしている現在のエルを想像すると、なにを暢気なことを、などと思ってしまう。そういえば、三日後には共通テストである。彼女が受けるのだとしたら、その姿はたいへん滑稽なものになるだろう。もしかしたら、勉強なんか手に付かなくて、一日中ぼーっとして……。……いや。……無意味か。今ここにいない人間のことを、想像であれこれ語っても。


「はあ……」


 果野に帰れば、一目で全てが分かるのだ。ズミが、さざれが、エルが、野分が、母さんが、今どうしているのか。これまでなにをしていたのか。

 そのタイムリミットは、刻一刻と迫っているのだ。躑躅はともかく、僕はじきにあの場所に帰らなければならなくなる。近づいてきているのだ、これまでのすべてを背負う、あるいは捨て去ることを決断しなければならない瞬間が。


「僕たちにいちばん足らないのは、空想力かもしれないね」


「空想力?」


「そう、だから僕たち、こんなに窮屈なんだよ」


「…………」


「本当はもう自由なのに、なにに対して自由になっていいのか思いつかないから、不自由に感じちゃうんだ」


 躑躅は、僕の言いたいことを理解したとばかりに、小さく頷いて、


「消極的自由ばかり追い求めて、その先で積極的自由に目を眩まされるという混迷の在り方は、私たちが近代から受け継いだ課題の一つなんだわ」


 躑躅が小難しいことを言う度、僕は何度も「もう少し簡潔に」と言っている。そのせいか最近、彼女は簡潔にまとめすぎるようになっていた。


「さすがに、もうちょっと喋ってくれないと分からないよ」


「教えてあげる。ご飯食べたら、その後でたっぷり」


 なんとなく、彼女らしくない語り口だと思う。これは、躑躅が本当に空腹の時だ。空腹時の彼女はちょっとだけイライラして、あまり細部にこだわらなくなる。そんな彼女を見るたびに、僕は《十六夜躑躅》を思い出す。さすがに食べるのが大好きな《キャラ》まで《十六夜躑躅》の作り物ではなかった。


 ……そうして僕たちは食堂の暖簾をくぐる。雪山の厳しい寒さから一転、瞬く間に暖気にくるまれて、身体だけでなく心まで弛緩していく気がした。


 これは全く関係ないことなのだが、躑躅はレヴィナスが好きすぎて、膝折に来る前に一度、僕とサイゼリヤで夕食を取ったことを「イリヤの夜」と略したりするところがある。そのようなネーミングセンスに倣って、僕はこの店を『近さ』と呼んでいる。なぜなら宿から近いからである。この命名は躑躅も気に入ってくれた。まあ、単にそれだけでは終わらず、そのあとデリダ的に命名の持つ原エクリチュールとしての原暴力的性質についてだらだらと話を展開し始めたのが躑躅らしかったのだが(この「躑躅らしい」というのも彼女がバグる言い回しの一つである)(バカなんだろうか)。


 ちなみに、この宿から近い『近さ』は蕎麦屋だ。観光地を歩けば1キロ圏内に10軒はあるで御馴染みの蕎麦屋だが、ここ膝折では『近さ』が唯一の飲食店だった。


「去年……一昨年の夏に海水浴場で食べたのも、蕎麦だったな」


「その話もう4回目なんだわ」


「来る度に言うようにしてるんだ。僕たちが苦手な、場を繋ぐための無意味なトークの練習だよ」


「ずるい、私もやってみたい」


 席に着いた僕たちは、店長が表に顔を出すまでの間、その話をすることにした。


「いいよ、なんでも話してみて」


「えっと……A-1 Picturesのお仕事シリーズとはなんだったのか」


「無理に僕に合わせて来なくていいよ。いや、それで正解の場面もあるのかもしれないけど、なんかこう、アフォーダンス的というか、その場に適した話題の引き出し方を練習しようよ」


「じゃあ……蕎麦打ちAVの広がりから見るネットミームの実態」


「公共の場でする話じゃない」


「うーん……」


「ごめん、否定ばっかりして。会話に正解なんかないのに。僕と躑躅が楽しめたら、それでいいのに」


「……こういう話、前にホズミックちゃんたちとしたことがあるんだわ」


「なんかみんな、結構僕抜きで女子会みたいなことしてたよね。何の話してたの?」


「だから、その、バーバルコミュニケーションについて、みたいな……。水分の空き教室で話してたんだけど、途中で退場させられちゃった」


「退場? 何したんだよ」


「多分、こういう話を、したかったんだと思う」


「そっか」


「でも、あの頃はまだ、よく分かってなかった。自分でも、自分をどうしたいのか」


「今は違うのか?」


「……ちょっとだけ。今は、優がいてくれるから」


「…………そっか」


 店長が出てきたので、話は終わった。


 僕たちは手打ちの十割そばを頼む。サービスで、山菜のおひたしを持ってきてくれた。躑躅がこれを大好きだった。

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