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27 ノリ・メ・タンゲレ

「今は野分の話はいいから。優のこと聞かせて」


 少し考えてから、僕は、


「――よく『自分は社会からズレている、適合できない……』という悩みに対して、『じゃあ適合できるよう努力しろ!』という説教が飛んでくるけど、その適合できない理由が自己同一性と深く結びついている場合というのを考えたんだ。まず、陽キャつまり強い人間は『自分自身を変える』ということに躊躇がない、ような気がする。『“これ”がなくなったら生きていくことができない』というような明確なアイデンティティがない、あるいはそんなことに拘泥しない。『適合しろ』という説教は、このことに起因している弱者への無配慮だと思う。というより、そんな強固な自己同一性なんてほんとはない方がよくて、そんなものがあったら絶えず自分を否定され続ける今の複雑化した社会では生きていけない。自分らしさなんて邪魔なものだ。適合しろ。それは正しい。だから陽キャのマッチョイムズってのはある意味では社会で生きていく上での最適解なんだけど、問題になっているのは、そういう心の強度を持たない人間たちについてだよ」


「うん」


「じゃあ、ありのままの、ダメダメなままの自分をそれでも肯定するのか? してもいい気がするけど、僕自身としては『今のまま前へ』というこの考えでいきたい。どちらにせよ、それらは物語られなくちゃならない。何かについて悩み、葛藤し、前へ進もうとするエネルギーを得るために『物語』というのが要請されるんだ。少し見方を変えたり実際的な努力をすれば簡単に乗り越えられる問題に対しては、物語は関与しないというか、それを書いたってしょうがないという気がする。逆にいえば、こういう悩みがない人には、物語も必要ない。それが強い人間ということであって、つまり、美少女、小説、物語が要らない人間。僕はそうはなれないと分かっているから物語を愛するし、いつかは物語から卒業できたらいいなと思っている。それが無意識のうちにできているエルや野分のような強い人間が、ぼくは羨ましいと思う」


「……優から、そういう話が出てくるとは思わなかった」


「ここ数日でこの手の話を嫌になるほど聞かされたからね」


「私のせい?」


「そうだよ、躑躅のせいだ」


「……そうなんだ」


 躑躅はまたもやもぞもぞ動いて、ぐりぐりと、頭をマーキングするみたいに擦りつけてくる。


「でも、優のいうことはすごく重要だと思うんだわ」


 そうして僕の胸にできた大きな黒いかわいらしい塊から、くぐもった声が聞こえてくる。


「優の言ったのはね――」


 あ、マズい、と思った。

 躑躅が例の長話をするとき特有の雰囲気を感じた。

 普段なら自由に喋らせるところだが、今はそういうのじゃない。

 長くなる前に止める。


「躑躅、今は自分たちの話をしようよ」


「先に自分のものじゃない話をしたのは優の方でしょ」


「僕の話は僕の話だったよ」


「『わたしがする誰かの話はわたしのものだ。誰かがするわたしの話もわたしのものだ。だが、わたしがするわたしの話は、いったい誰のものなのだろう。』」


「なにそれ」


「高橋源一郎の『虹の彼方に』」


「また引用だ」


「うるさい」


 言いながら、片腕を僕の体に回す躑躅。そうして僕を抱きしめてくる、というよりは、自分の体を僕にぎゅっと押し付けるみたいに、力を入れてくる。もはやどこの感触がおっぱいのもので、どこがふともものやわらかさなのか、そんな分析もままならないくらいに、どこもかしこも肌と肌が吸い付くようなやわらかさの躑躅がひしと抱きついてくる。


「躑躅」


「なに?」


「つつじ……」


「なぁに?」


「躑躅」


「優」


「うん」


「……すぐる」


「つつじ」


「もっと、もっと呼んで。私の名前を呼んで。もっと優がほしいんだわ」


「もっと、もっと早く躑躅と会いたかったな」


「え……?」


「高校生になるより先に、エルと会うより前に――僕が僕になるより前に、躑躅とこうしていたかった。当たり前にここにいる存在として、たとえば、姉や妹として……」


「あとは……幼馴染とか?」


「幼馴染……そうだな。それも、僕にはいなかったものだ。そうだな、幼馴染だ……躑躅と、幼馴染でありたかった。そうしたら、こんな、こんな風になることもなくて、ちゃんときみを好きになることもできたはずだ。こうしてきみを抱きしめたりなんかしたら、もう心臓がバクバク鳴ってうるさいような初心な男子高校生として、きみと共にあれたかもしれない」


 もしそうだったら、今のように愛を見失うこともなくて。

 母さんに、親として最低の罪を犯させることもなくて。

 いろんな人を不幸にすることもなく、ただの恋する純朴な青年として、ただの純潔の乙女の十六夜躑躅を抱きしめてやれたはずなんだ。


「本当は――……僕だって、自らに課したこの一貫性を若さで以て打ち破り、衝動のままに少女を救済したりしてみたい。若さを盾に取って自意識と恋のために奔走し、そのような無責任な行動は青春の二文字によってただちに赦され、運命と意志の奇跡的な調律によって存在そのものが世界から祝福されるような大立ち回りを演じたい。メタだとか物語だとか《顔》だとかを気にすることなく、メタに対立する項としてのベタすら生まれるより以前の、もっとも純粋な一人称的な韻文的な人生を、僕だって送りたいよ」


 でも――そう、どれだけ思考を巡らせても、やっぱりここに戻ってくる。いつも人間の壮大な空想は、この「でも」という単純にして残酷な言葉によって現在へ回帰する。すべてが反実仮想でしかないことに気づかされ、現前するものはただBでもCでもDでもなくAであることを受け容れざるを得なくなる。そうして再び前へ進まなくてはならなくなる。


 七つのときに母さんとセックスした。母さんとのセックスで初めての勃起を経験した。そのときに精通した。それらすべては現実なのだ。「母親とセックス」だなんていうのがどれだけバカげた字面でも、これが現実なのだということを僕自身が認めなくてはならない。父さんはそんな僕を恐れて家を出ていった。これは現実なのだ。それからまた母さんと何度も、何度も何度も体を重ねたのも、エルと出会ったのも、野分を妊娠させてしまったのも、今こうして躑躅と布団のなかで抱擁を交わしているのも――……


「優……」


 ――その声は、躑躅のものではない。母さんの声だ。


 僕は母さんに呼ばれていた。母さんは僕を呼ぶ――「優」


 そうなんだ。あのことがあってから、母さんはずっと言葉少なになってしまったから。


「うん」


 僕を呼ぶとき、特になにか身体的な接触をしようというときは、ただこうして、


「優……」


 と、僕の名前を呼ぶだけになった。


 声のした方を向けば、ソファに母さんが座っている。僕は母さんのもとへ寄って行って、その膝の上に乗る。八歳くらいの僕は、まだそんな風にしててもぎりぎりおかしくはなかった。僕の身長が伸びたのは小学校も高学年になってからだったから。


「優……」


「うん」


 母さんは、両腕を緩く広げて、僕を待っている。僕は母さんの胸のなかにゆっくりと抱きしめられていく。飛び込んでいくのは恥ずかしかったから、もたれかかるみたいな、仕方なく抱きしめられているんだというような、言い訳の利く体勢で。


 そんなふうに、ちょっとだけ歪な家族の抱擁を交わす。


「優」頭上から声がする。「なに……?」


 上を向くと、母さんが、僕を見ていた。


「え?」


 そのようなことはありえないはずだった。


 僕は、母さんに、約10年ぶりに見つめられていた。ぴりぴりと、焼きつくような熱い痛みを肌に感じる。


 行為中の母の、「あの」非難がましい眼差し――それはありえないことだと、僕自身理解しているというのに。薄暗い寝室で、風呂場で、リビングで、玄関先で、庭先で、僕をきっぱりと拒絶する「あの」目つきだ――!  見たこともない眼差しを、僕は思い出している。僕は今、母さんにじっとりと見つめられている。それはしかし、自らを犯した見知らぬ強姦魔を目の前にして、恐怖に打ち震えながらも精一杯の抵抗として相手を睨みつける女のそれではなく、ただしく僕と血の繋がった母親としての、なんらかの訴えのようなものを感じさえする、倫理的で慈悲深き非難の目つきである。

 どうして突然、こんな母さんの顔を思い浮かべているのだろう。これまでなんども母さんを抱いてきて、本気で拒まれたと感じたことなんて、なかった、のに――? いったい僕は、なにを言っているのだろう。


「母さん……」


 母さんは――泣いている。


「なんで? なんで泣いてるの、ママ……」


 ぽろぽろ、ぽろぽろと、美しい涙を流し続けている。

 僕はこの人の悲しい姿を一秒だって見ていたくなかったから、その涙をぬぐおうとして、母さんの頬に手を伸ばす。


 しかし、僕の手は届かない……。


「……寒いな。躑躅、大丈夫か」


 微妙に締め切られていない襖の間から、隙間風が運び込まれてきているのに、今更ながらに気づいたのだった。酒の熱も冷めた身体が、ぶるりと震えて、突如意識にのぼるようになった母さんのあのありえない眼差し、その甘えるような愛撫のような嫌悪のような目つきが闇のなかに炯々と光る。躑躅は、もう寝たのだろうか。躑躅。つつじ……


「……躑躅」


「うん」声がする。「私はここにいるんだわ」応答がある。


 次いで頬があたたかなもので包まれた。躑躅が、僕の両頬を指先で包むように撫でてくれている。


 暗闇のなか、布団のなか、僕の腕のなかから光る目は、もはや母さんのものではなくなっている。それは少女の眼差しだった。母さんのものとは似ても似つかない、巴旦杏の形をした、黒目がちな、十六夜躑躅のものだった。


「優、もういっかい、私の名前を呼んで?」


 そうしたら、安心して寝られると思うから――。彼女の声が響くようだ。


 僕はなるべくやわらかな声で、彼女の美しい名前を呼んでやろうと努めた。


「つつじ」


「……うん」


「おやすみ」


「うん。おやすみ、優。また明日、だわ」


 躑躅は瞼をおろした。その気高く無防備な面差しをしばらく眺めてから、僕もゆっくり目を閉じる。


「…………」


 なんとなく伝わるものがあった。躑躅は明日、朝起きたら僕がこの場所からいなくなっているのではないかと不安だったんじゃないか。なんたって彼女は、それが怖いあまりに「ずっとここにいて」とすら言えないくらい臆病な少女なのだ。


 僕はただ彼女に、大丈夫だよ、と言いたくて――……彼女の額にそっと接吻を落とす。わずかに彼女の体が痙攣する。それからすっと体から力が抜けて、ようやく微睡みの海を漂いはじめた気がした。


 大丈夫だよ――……僕はここにいるから、安心しておやすみ。躑躅。


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