21 雪国の温泉地
2024年12月31日
――泣き声……
泣き声だ。誰かが泣いている。
誰かが――
それは、僕自身の泣き声だった。
「……どうしたの?」
暗闇のなかから、やわらかな声がする。
「泣いてるの、優?」
その声の主は……
一瞬、頭に過った顔を掻き消して、僕は彼女を呼んだ。
「……躑躅」
「わっ」
僕は闇雲に両手を伸ばして、彼女を抱きしめる。
「……優……?」
「躑躅、お前はここにいるよな……?」
「どういうこと?」
「夢を、見たんだ」
「どんな夢?」
「この世界がな、現実じゃないんだ。これは、これは物語で。十六夜躑躅は、キャラクターだ。目が覚めた僕は、そのことに気付くんだ。本当は、はじめから、なにもない。誰もいない。僕が《更科優》ではない代わりに、エルも、野分も、母さんも、躑躅もいない。固有名詞は、みんなみんな、妄想だったんだ。本当のことなんか、なにもないんだ。ここにも、あそこにも、なにもないんだ。ただ、僕がいる……もはや、生きてたって意味のないはずの僕一人が、なぜかいるんだ……」
「そう……」
「なあ、躑躅、お前は……」
「人間だわ」
「本当に?」
「本当に。私は、十六夜躑躅は、現実に存在する《美少女》だわ。現実に存在するあなたと触れ合える、いま、ここに生きている、私だわ」
「ああ、躑躅、躑躅。お前は実在する。ここにいる。キャラクターなんかじゃない……虚構なんかじゃない」
「……うん」
「ここにいてくれ、躑躅、ここにいてくれ……」
「うん。ずっと、ずっとだわ」
躑躅の言葉は、まるで僕の愛のように軽い。だからこそ、僕にはそれが心地よかった。
明確に現実的なタイムリミットがあるこの逃避。
それでも、今は――
◇◆◇◆◇
優にこうして泣きつかれると、どうしても無視することができない。まるで私が突き放したらそのまま死んでしまうみたいな顔をするので、つい構ってあげたくなってしまう。なんなのだろう。
「そういえば、もうあと半月もすれば、共通テストだな」
「……そうだったわ」
「どうする? 帰るか?」
「…………」
私が優を驚異と感じて斥けようと努力していた、あの日々はもはや過去である。今の私と優はすっかり、互いが互いの目的語としてもつれ合いながら、その息吹を感じ合っている。それはいつか来たる再帰のときを感じながらも、あるいはむしろ感じているからこそ、互いを強く(ニュートラルな意味で)意識し合う日々である。私は生まれてこの方、このような緊張した日常というものを経験したことがなかった。私の緊張はいつも、《十六夜躑躅》がその偏執的な意志によって無理やり懐へ招き入れた非日常の作り出す虚構でしかありえず、絶えずこの皮膚は外気を鋭敏に感じながらも、精神は恐ろしいほど冷静に事態の静寂を聴き取って、いやましに高まる日常の濃度をこの身に吸い込むことによって没入する、この一般的な「緊張」の経験は、私にとって今回がはじめてのことである。それらすべては、優が私にもたらした劇的な変化だった。私の「劇的な」変化は必ず、優の無意識によって暗々裏に表れた。
目の前に、剣の切っ先を突きつけられている。しかし、私は安堵している……。
「まだここにいたい」
これを楽しもうとすることは、魂の堕落であろうか? 私のこれは娼婦のあかしだろうか?
「まだ、帰りたくない」
「じゃあ、そうするか」
私が優を抱きしめていたつもりが、私が優に抱き竦められていたのだと気づいた。私の肉体の重量はそのまま優に支えられて、われわれがこの世界に存在する限りは必ず引き受けねばならない、あの魂にまとわりつく肉体のずっしりとした感覚はきわめて希薄になっていた。一生を終えた老獪が、目を閉じ、心臓を止めて、あとはもうじっと天使の導きを待つのみとなった瞬間の、永遠とも思われる閑雅、私の持つものはこの世のあらゆるものよりも軽やかな精神だけであるというような純粋な心地に、私は目覚めていた。ここに難しいものはなにもない。ただ楽園が、わずかにこの世界に指をかけているばかりだった。
「うん」
ここで私が奇妙なのは、私の抱く確信が、このセカイが本当らしいということよりもむしろ、他のすべての世界は無味乾燥な偽りであるという実感の方に向けられていることである。このような過剰な消去法へのこだわりは、ひとえに私のつまらない現実主義によってもたらされたものであり、またこの現実主義は他方で、私にこのセカイの崩壊がすでに予期されたものであることを知らせていもした。それは私を逃避だとか堕落だとかの方面から遠ざけようとはたらく理性の、無粋な誇示に他ならない。
この強すぎる理性のはたらきを少しでも弱めるべく、私は優の美しい顔を見つめた。それはすぐ傍にあった。
◇◆◇◆◇
しばらくすると、躑躅は僕の腕のなかで寝入ってしまった。すーすーと寝息を立てて、なんとも気持ちよさそうな寝顔である。もうじき高校も卒業するというのに、まるで女児のようだ。彼女の頬を軽くつついて(とても柔らかかった)、そっと布団に寝かせてから、僕は部屋を出た。
「寒っ……」
日の昇りきった9時とはいえ正月、その上木造建築ともなると、屋内であっても冷え込み方が尋常ではない。僕は半ば無意識的に袖手していた。
「おはようございます」
ロビー――和風建築でもこの呼び方なのだろうか?――へ着くと、女将さんが挨拶してくれた。すらっとした、着物のよく似合う美人である。イマドキ珍しいくらい若女将然とした若女将である(?)。
「お散歩ですか?」
「そう思ってたんですけど、この寒さですし、ひとっ風呂浴びたい感じですね、今は」
幸いタオルは帯に挟んで、持ち歩けるようにしている。
「そうですか。先程からちらほらと雪も降り始めたようなので、そこの傘をお使いくださいね」
玄関には、客への貸し出し用の番傘――当然布傘だ――が、何本も用意されていた。
「ありがとうございます、女将さん」
すると彼女は、はにかんだように目を細めて、僕を見送ってくれる。この旅館にしてよかったと、心から思った。
◇◆◇◆◇
外へ出ると、灰色の空から雪が降りつけてくる。女将さんはちらほらなんて言っていたけど、体感的にはもう少し強め。これからもっと激しくなるだろう。
……そういえば、躑躅に毛布かけてやればよかったな。今頃寒がってるだろう。
以前は無意識にそういう気遣いができていたのだが、今はいろいろと休暇中なので、後になってからあれをしてやればよかったと思うことが増えている。不思議なことに、躑躅にはその方がうれしいようだ。
僕が引き籠って、通い妻状態だった頃から躑躅はずっと少し変だったが、ここへ来てから、その振る舞いはより深刻化……という言い方だと「悪化」のように受け取られてしまうかもしれないが、そんなことはなく、まあ、なんというか、基本的には静かだけど、喋るときにはガーっと喋る、そんな普通の女の子になった。
……あの日。
あのクリスマスの夜に、躑躅が口にした願い。
『私を連れ出して』
ある意味ありきたりで、ある意味ではすべてのような願いを、躑躅はまっすぐ告げてくれたのだ。
驚きはなかった。この時の僕には、彼女の心の動きが自分ごとのように感得された。躑躅の言葉は僕の言葉のようだった。
『どこから? どこへ?』
『この街から。行き先はどこでもいい』
『駆け落ち願望でもあったのか?』
『あるって言われたら失望するくせに』
だから「ない」と言い張ってくれる。それが僕には嬉しかった。
『分かった。いいよ』
『……いいの? 逃げるなとか、言われると思った』
『もう、そういうのいいだろ。勝つとか負けるとか、向き合うとか逃げるとか、そういう考えはやめろ。僕たちはただ、別のところへ行くだけだ』
『……うんっ』
躑躅の笑顔を見て、決心は一瞬にして凝固した。
特有の全能感と、衝動と、冷静さとが、僕を彼女を連れて今すぐにでもここを発つようにと急き立てた。
『どこに行く?』
『どこでもいいって言ってる』
『なおさら自分で決めろ』
躑躅の喜びそうなところは、実のところ、いくつか思い浮かんだ。しかし、僕がそれを提案するのではだめな気がした。僕の〈顔〉は、僕のあらゆる選択を無理くりに「正解」へと書き換えてしまうだろう。僕の選択は正解へと通じている。その先で僕は躑躅を攻略するだろう。この〈顔〉の前では誰もかれもが物語の類型化から逃れることができずに、更科優と十六夜躑躅は流れる水のごとく、自然の摂理として、結ばれてしまう。それが僕には嫌だった。なるべく、上手くいってほしくない。僕と躑躅が歩むのは、不格好で、不慣れな、つまらない隘路であってほしかった。だからこそ、彼女には行き先を自分で決めてほしかったのだ。
『大まかでいいからさ』
躑躅は、顎に手を当ててしばし黙考、
『……温泉地、とか?』
遠慮がちに、提案してくれた。
『温泉?』
『水上温泉、行ったでしょ。……あれ、楽しかったから』
数日前にそんな話をしたな。
『温泉地か……それこそ無数にあるけど、今度はもっと栄えてるところがいいか?』
『ううん。なるべく人が少なくて、温泉郷ではあるけど、観光地化はされてないところがいい。っていっても、水上みたいに、バブルがはじけて廃れたとかじゃなくて、ずっと一定くらいの人気度の……』
気恥ずかしそうにしてたくせに、一度提案したら、次はどんどん条件を出してくる。
『それで、自然が多くて、静かで、風情があって……』
すると、草津とか箱根とか別府とか、メジャーなところはダメか。
『あと、贅沢を言えば、温泉街に娯楽施設がないのがいい。温泉に入るのと、風景を眺める以外に、なにもすることがない湯治場。そういうのがいい』
こういうのは受け手からすると、具体的であればあるほど助かるものだ。
具体像さえ決まれば、あとはネットで検索するだけ。
行き先はすぐに定まり、僕と躑躅はその日のうちに支度を済ませて長野から飛び立った。
電車から新幹線、そしてまたローカル線、最後にバスといった工程で、思ったよりは時間もかからずに到着。
思い立ったが吉日もいいところなので、当然宿の予約などしていない。そこはこの〈顔〉で無茶をした。〈顔〉のおかげで金銭の心配は無用である。
だいたいそんな経緯で、現在僕たちが逗留しているのが。
――山形県・大蔵村にひっそりと広がる湯治場、膝折温泉郷である。
蔵王でもかみのやまでもない。出羽三山の一角、月山に近く、山間いにたたずむ歴史ある温泉地だ。その立地からしてアクセスが死ぬほど悪く、有名な温泉街でバカ騒ぎしているような若者はあまり近寄らない。レトロな街並みと、物静かな雰囲気。そして四方を山に囲まれた大自然の眺めと、三拍子揃っている素敵な温泉街なのだが、そういうのを求める客はみんな、いろいろ要素が似ていて比較的アクセスの容易な上に、朝ドラの舞台となったことから全国的な知名度も高いお隣さん、銀山温泉の方へと吸い込まれていく。強いてこちらを選択する理由もないのだ。
膝折の方がいいと言ったのは、僕だった。
いかにも浪漫溢れる煌びやかな街並みを歩くよりも、音もない雪のなか、山々を越えて空へと漂う湯煙をゆったり眺める時間の方が、躑躅の求めるものに近いように感じたからだ。
最後の最後で僕が決めてくれたのが嬉しかったのか、躑躅は笑顔で了承してくれた。
新幹線内で話し合って決めた宿泊先は、入口のカンテラがレトロモダンな情緒を醸している、木造二階建て旅館「照月」――天然かけ流しの露天風呂や檜を使用した内湯、季節の山菜や川魚などの手料理が評判だ。僕たちはそのなかでも、貸し切り温泉付きの「月下美人」という客室に宿泊している。この「月下美人」の広縁の窓からは、膝折温泉郷を南から北に流れる銅山川が望めるというので、躑躅の気に入ったのだった。
そうして現在、宿泊6日目。膝折での生活? もだんだん慣れてきて、朝のルーティンなんかも出来つつある。というより、そういうのを意識的に作ろうとしている。じゃないと本当になにもしなくなりそうだからだ。……などと言うといかにもネガティブなニュアンスが強めに出てしまうが、今の僕はそれほど悲観的でもない。膝折での日々を、僕はほどよくリラックスして送ることができていた。
願ったのは躑躅だが、僕にもちょうどよかった。
いろいろな物事から距離を置いて、休む時間が欲しかったから。
エルとの不仲(だなんて本人が言うのは滑稽で笑ってしまうけど)も、野分の妊娠も、母さんとの間のことも。いったんぜんぶ先延ばしにして。
……あと、受験があったか。
受験は、べつに嫌ではないのだが。ただ、このまま安定した人生を歩むことへの不満という、若者特有の衝動がいたずら心をはたらかせてはいる。
分かり切った未来へ、順当に邁進しているというあの感覚。このまま受験して、高校卒業して、大学に入学して……。なんだか脱力してしまう。
もっとも、この手の感慨は、僕のセカイの主題とは関係がないので、それほど強く声を上げる気にはならないけれど。
「……やめよう」
起きたばかりで、何を考えているのだろう。思考をリセットするべく深呼吸する。豪雪地帯として名高い寒山の大気を吸い込んで、僕は温泉街をゆるりと歩いていく。




