18 あこがれ
「……なんだこれは」
深い深い海の底から、体を急速に浮上させるように意識を現実へ引き戻す。
日記を閉じた僕は、未だ固まった感想が思い浮かばない心のなかで、強く叫んだ。
こんなことがあるのか。
この日記を読めば、少しは躑躅のことが理解できるかもしれないと期待した。彼女が普段、何を考えて話しているのか……
だが実際は、全くの逆だ。日記を読めば読むほど、彼女の思考を知れば知るほど、十六夜躑躅という少女が、分からなくなっていった。
それは、書いてあることの意味が分からないということではなくて。いや、長々と書き連ねてあった哲学的な話がまったく意味分からなかったのは、もちろんなのだが。
そうではなくて、彼女がどこまで考えていて、どこまで考えていないのか。どこまで本気なのか。意識的なのか、無意識的なのか。
まるで、霧か靄のように、掴もうとして、掴めない。
笑ってしまう。
例えばこの日記には、学校のことなど一度も触れられていない。今日はこういう授業があったとか、クラスメイトとこういう話をしたとか、なんだとか……
他のあらゆる日常生活の話も。洋服を買いに行ったとか、知人と遊びに行ったとか、近くのこういう店に寄ったとか、そういうことが、一切。
何も書かれていない。家族のことと、親しい友人のことしか書かれていない。なんなら、野分やさざれのことすら、必要最低限の記述だ。ほとんど、自分と、僕と、皐月と、本の名前しか見えない。
笑ってしまう。
こんなのは。日常生活に心から絶望し、あらゆる物事に無関心になってしまった人間でなければ、こんな日記は書けないだろう。
だからこそ分からない。普段の彼女と、日記の彼女と、実在する彼女と、僕が見る彼女と……どこにどれだけの比重が置かれていて、なにが嘘で誠なのか。
なんだこれは。躑躅が多すぎるではないか。
この分からなさ、これはなんだ。僕はどうして、こんなにも彼女に惹きつけられる。僕は……
「どうしてくれるんだ、躑躅」
「……もう読み終わったの?」
日記を読み終えた僕は、もう無我夢中で。
とにかく今すぐ彼女に会いたくなって、家を出たのだが。
「ああ。ちゃんと全部読んだよ」
深夜の底冷えする大気が、一瞬にして僕の首元へ潜り込んでくる。
「早いんだわ」
玄関のドアを開けたら、すぐ正面に十六夜躑躅が佇んでいた。
しんしんと雪の降る静寂の夜。
真っ赤な傘をくるくると回して、笠の雪を落としている黒髪の少女。
もう、あれから数時間は経っている。時刻はとっくに零時を回り、今日はクリスマスだ。
……ずっと、ここで待ってたのか。『十六夜日記』を渡された僕が、すぐにそれを読み、そして読み終えたら自分のところに駆けつけてくるだろうと、信じて。
「私の一年と八か月、あっという間に読まれちゃった。人生って儚いんだわ」
慈しむような眼差しを傘の露先に向けて、躑躅は恬然とした調子で呟く。
彼女は、待っている。自分の問いに、僕が答えてくれるのか否か、期待する素振りすら見せずに、待っているのだ。
「少し歩こうか。歩きながら話したい気分だ」
僕はそれに答えるべく、玄関から傘を持ってこようとして、踵を返したのだが……
「…………」
「……ん?」
なにか後ろから引っ張られる感触を覚えて振り返る。
彼女の冷えた指先が、僕の上着の裾をひかえめにつまんでいたのだ。
「二つもいらないから」
くるくると赤い傘が回り、雪を弾いていく。
◇◆◇◆◇
僕と躑躅はクリスマスの夜を歩く。地面に、ブロック塀に、小枝に、家々の屋根に、雪が積もりつつあった。
彼女が人差し指で、歩道にせり出した枯れ木の枝先をはじくと、はらはらと雪がしずれていく。それらの舞い散った一部は彼女のショートブーツの先端に落ち着いて、見る間に露となった。
「朝まであそこで待つつもりだったのに。読むの早すぎなんだわ」
「逆だ。僕は普段、どんな本でも5分あれば読めるんだよ。でも、あれは……文字を追って、情報を読み取るだけじゃ、意味がない気がして」
「…………」
「一行一行、一言一言、なるべく躑躅の言葉にそのまま触れるみたいに読んでたら、とんでもない時間がかかって――わっ」
話してる途中で、横を歩く躑躅に力なく押されて、傘の下からはじき出されてしまった。急に何ごとかと思って視線を向けると、両手をこちらに突き出した躑躅は俯いている。
「もう、黙って」
「え?」
彼女はゆっくりと顔を上げる。
傘の落とす影に覆われてほんのりと薄暗い顔が、淡々と、しかしはっきりと呟いた。
「……女泣かせ」
彼女の目の横には、たしかに光の粒が煌いている。僕はそれを、雪の溶けたものだと思うことにして、言われたとおりこの話は取り止めた。
僕は先程から、彼女のイメージに対する実際の言動の、この定まらなさはなんだろうと考えていた。僕のなかの十六夜躑躅と、目の前の少女の態度が、どうしても噛み合わず、歯がゆい感じがする。と同時に、それは、そういうものなのだ、とも思いかけていた。僕のなかの彼女と、実際の彼女とがぴったり一致する必要なんて、どこにもないのかもしれないと、あの日記を読んだ僕は感じ始めていたのだった。
「僕は、きみのことを誤解していたんだな」
「うん。誤解させてたから」
「僕は、きみが自己愛に溢れた人間だと思ってた」
僕は躑躅の美しい笑顔に、真夏の太陽を重ねていた。彼女が太陽だと考えていた。しかし、彼女も僕と同じで、太陽の光を浴びる者の一人にすぎなかったのだ。
「《十六夜躑躅》は、そういう《美少女》だから」
一歩、一歩、互いの歩幅を合わせるみたいに確認を重ねていく。僕たちは一つの傘を二人で握っていた。僕が右手で、彼女が左手で傘の柄を握っている。この赤い傘が僕らの目印だった。僕と躑躅は、この傘の柄をなるべく自然に握ろうとし続けている。
「僕は、そんな君の自己愛が、とても羨ましかったよ。まあ、薄々気づいていたんだろうけど。日記にも、そんなこと書いてたよな」
「あくまで、想像だから。優が本当のところでは何を考えてるのかなんて、私には分からないんだわ」
街灯の明かりは、雪の上に小さな円を落としている。暗闇のなかに等間隔で点々と続く光の円を次々に渡りながら、僕たちはゆっくりと言葉を探していく。
「いつか、ズミに言われたんだ。僕はルッキストだって。その時は、躑躅と一緒にするなって怒って終わったんだけど……」
今ならその意味が分かる。彼女のあの言葉の意味が、ようやく僕にも理解できたよ。
「きみが日記で予想していたように、僕は、自分が大嫌いなんだ。自分が、この〈顔〉が愛せない。――だから、自分の中途半端な外見に愛を持つ人間を見ると、反吐が出る」
視界の端に、躑躅の吐いた白い息が頼りなく溶けていくのが映る。
「“わたしかわいすぎ”だの、“俺のビジュ良すぎ”だの、なんだの……所詮、僕以下のくせに。よくもまあ、そんな醜い顔を、愛せるよな。僕が、あの《更科優》が、この〈顔〉をどうしても愛せないでいるってのに。それを差し置いて、お前らごときが――ってさ。僕はナルシストが大嫌いなんだ。それは僕からしたら、なんらの根拠のない自己愛だからだ。自分の容姿を好きになるという心理が、まず僕には理解できない。低俗な、唾棄すべき、勘違い野郎としか僕には思えない」
「…………」
躑躅が、無言のまま、僕を上目遣いで眼差した。その瞳の奥には、かすかに不安が揺籃しているように見える。昨日までの僕には、どうしてこの彼女の愛しい揺らめきが、見えなかったのだろう? 僕のほんの些細な一言で、こんなにも感情を乱してしまう弱い少女だということを、どうして気づいてやれなかったのだろう?
「僕は、躑躅をかわいいと思う」
「本当に?」
緊張と焦りと不安で硬くなった声。
「躑躅は僕にとって、世界でいちばんかわいい女の子だよ」
「いちばん? ノワよりも、更科雅よりも、私の方がかわいいって思ってくれるの?」
まったく。誰だこいつは、と思う。
こんなにも自信のない躑躅を、僕は知らなかった。
「ああ。僕は……普段は絶対にこんなことは言わないようにしてるけど……出会った女の子たちに、明確に優劣をつけている。その上で、僕にとっては、出会ったあの日からずっと、躑躅がいちばんの美少女だ」
「…………」
「そして、笑っちゃうだろ? そんな世界一の美少女は、ナルシストだったんだよ。勘違いした有象無象たちではない、僕が心からそう思ってしまった美少女が、自分の容姿を好きだと言って、自分こそが世界一の《美少女》なんだって、信じてたんだ。――はじめて、受け入れることができた。許せた。イラつかなかった。きみは、僕が他人のナルシシズムを許してしまえるくらいの、《美少女》だった」
「…………」
「それくらい、かわいいと思った。正直、めちゃくちゃタイプだよ」
「……もういいから、黙って……」
こんな消え入りそうなしおらしい声も、聞いたことがなかった。
「これってルッキズムだろ? 僕は、躑躅、きみくらい美しい少女でなければ、他人の自己愛を許せない」
ズミはそれを見抜いていたんだ。あいつはどこまでも直感に優れた天才だから、いろいろの理屈とかすっ飛ばして、一足で答えに辿り着いてしまう。彼女はずっと以前から、僕のなかにあったこの無意識の構造を理解して、その上で僕に助言をくれていた。絶賛迷子中だった僕には、それを正しく受け取ることなんて到底できっこなかったわけだが。
「躑躅の自己愛は、見ていて気持ちよかった。自分のかわいい容姿が大好きな美少女、それを信じるだけでなんでもできてしまう美少女――僕には、死ぬほど羨ましかったよ。僕も、きみみたいになりたいと思った。どうしたら躑躅みたいになれるかって、聞いたこともあっただろ?」
「あの時は、勘弁してって思った。それは私の方だって」
「お互い様だな。僕だってそうだ。――目の前で、美少女が、こんなにも眩い輝きを放っている。だというのに、美少年は、どうして自分を愛せないのだろう」
どうして、などと言ったのは逃避に他ならない。
理由なんて、はじめから分かっている。
『……優は、どうして自分を愛してあげられないの?』
躑躅にだって話したはずだ。僕にはそれしかないじゃないか。
「母親を犯したからだ」
彼女の歩みが止まった。傘の柄から僕の手が離れて、僕一人が雪を降らす曇天の下に姿を晒した。




