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16 十六夜日記 七


『令和六年(2024)



 正月



 十日



 冬休み 優とみんなと水上温泉へ行く ほぼ廃墟であったが、仲の良い友人たちと巡る色褪せた「歴史」の跡地は微妙な哀愁と行き過ぎない悲劇の上に広がっており、これを優と眺めるだけでも存外楽しい旅行となった



 十五日



 《瀬能千代子》 余計なことを考えさせるな 出ていけ いや、やっぱり皐月のためにいてくれ



 二十一日



 このごろの私を、ミイラ取りがミイラになりかけている、と言い表すことは容易である この事実は、かつての私が、簡単に説明できる関係をわざわざ衒学趣味で難しい論理を持ち出して語っていたということを意味しない そうではなくて、それだけ私と優との関係が、この半年以上のあいだに単純な構造の下へと堕してしまったということなのだ ミイラ取りがミイラになった、と一口に言い表せてしまえるほどに、私たちは他のどんな面倒で複雑な手続きを要する心の動きも剥奪されて、もっとも単純な関係になり果ててしまった


 複雑化した情報化社会による困惑を跳ね除ける方法の一つは、情報を拒絶することなのだろうが


 でもそれって、「成熟」を拒んだおたくが二次元の女の子に逃げ続ける(大塚英志)のとなにが違うだろう?



 二十七日



 このごろ、私はなんとか《十六夜躑躅》を維持しようと努めている その分、余裕がなくなっている……



 二十八日



 このごろ、とはいつだ いつからだ 



 二月



 十三日



 はじめ、更科優がニヒリズムの手前において、私に向かって笑いかけた それが私の原初の法悦であった



 十四日



 私は痙攣している この苦痛から逃れるために、優を惚れさせなければいけない!



 十五日



 同じことばかり繰り返す もう私はダメなのだ 言葉が力を失うところにまで来ているのか、悔しい、惨め



 十九日



 自己矛盾や自己否定が高じると、この構造を内面化しようとして新たな理論をどこからか引っ張ってくる 現代思想には、そのような便利なガジェットがそこら中に転がっている

 こういう不誠実な思弁的議論を否定するためにも、レヴィナスは第一哲学に「倫理」を配置したのだろう 知性を先鋭化させるだけで世の中を善くできるほど、世界は偏っていないということだ



 三月



 十七日



 私が正月のある晩、「私たちの関係が単純化した」と浮薄に言い放ったものの正体は、今ではむしろ一個の複雑な総体ではなかったかと感じている 今、私と彼との小さな肩には、さまざまな社会的な雑多な要素が積み重なったまま、それらがこの身と一体化して、もう自由に空を羽ばたくための翼を広げることもできなくなってしまった 肩の感覚はすっかり麻痺して、もはやその重さを感じることさえ困難だ それだというのに、互いはまったく身軽な状態で、むしろなんだか自立した一個の人間同士として、安らかな関係を築けているのだと錯覚してしまっている 感性が摩耗している 鈍化している こんな状態はそう長くは続かない 一年持てばよくやったと言えるだろう


 「悪しき個人主義」なんてのは九〇年代から言われていることで、コロナ禍以降の議論はすべて周回遅れだ



 二十四日



 マニキュアをしてみる 優が褒めてくれなかったのでやめた



 二十六日



 私はこのごろ、痙攣とともに吐き気を催すようになった このごろ! 



 四月



 十一日



 優かっこいい 



 十五日



 気持ち悪い 重い ひどい 死ね

 


 二十七日



 ↑本当は消したいのだが、



 五月



 十一日



 優と出会ってから一年が経った 私と優との間には、なにもない 耳がそれを覚えるほどに「かわいい」と言われて、心がその動きに慣れ親しむほどに私は嬉しがった



 十二日



 優が一年前の話をしてくれた、覚えてくれてた



 十五日



 母親が帰ってくる 皐月も、そろそろ彼女のなかの神さまを自覚しただろうと言っていた それは私もそう思う



 二十二日



 相も変わらず、《十六夜躑躅》は《更科優》を超越しようと懸命になっている 



 二十九日



 優が振り向いてくれない 私の痙攣は度を越していく



 六月



 三日



 球技大会 今年も優を応援する 私は無双、優も無双 大勝利



 四日



 幸福の持続とは、退屈以外のなにものでもないのだ! 「あらぬものはあらぬ」ならば、ここにあるものはなにか? それは、幸福なる退屈である

 恋の成就ののち、英雄的な物語が悲劇へと転ずる古典主義は、このことをいちばんよく知っていた 



 十六日



 天地が翻る光景を前にした私に、周囲の人間は皆こう言うのだ「最近の十六夜さん、すごく話しやすいよ」 名もなき人間の言葉が私の胸を通り抜けていく


 

 十八日



 《更科優》に殺される



 二十三日


 

 皐月の初聖体 今日だけは私も久々にミサへ 白のブラウスとスカート、とてもかわいらしい 

 皐月、私のかわいい妹、あなたもイエスさまの棘の冠の痛みを共に分かち合い、こころ安らかでありますように 



 二十四日



 文化祭準備 去年まで入場制限などあったが、今年からようやくコロナ禍以前通りの形式に

 優と一緒に回りたい



 二十七日



 文化祭準備 夜の九時まで残る 優は頼りになる



 二十八日


 

 文化祭当日 私のクラスはメイド喫茶 優に紅茶とクッキーを運ぶ

 その後、優と文化祭をまわる ホットドッグ、からあげ、タコ焼き、きなこ餅、アイス……お腹いっぱいになったところで、お化け屋敷に行こうとすると、エルノワに優を持って行かれる


 不覚



 二十九日


 今日こそ優と回る! と今朝の私は意気込んでいた

 ホズミックちゃんとさざれに優を取られる



 三十日



 一日中クラスで仕事!

 高校最後の文化祭終わった……と落胆しかけたところ、後夜祭で優がなんだか優しくしてくれたので、よかった

 様々なトラブルがあったが、十年後も記憶に残る文化祭になっただろうと思う


 

 七月



 一日

 


 ……私のなかに諦めが芽生えつつあることから、目を逸らすことはできない

 こんなにも いろいろなことをして、近づこうと努力し、もはや半身をそれへ浸からせるほど私は叫んでいるのに、《更科優》は捉えがたい〈他者〉として《十六夜躑躅》を否定し、《十六夜躑躅》のセカイを脅かす 


 

 三日



 溜息をつくことが増えた 心の本当の底から流れ出てくる類の、地面に沈殿する悪性の溜息……



 十二日



 髪型を少し変えた 気づいてくれた



 十五日



 美を前にした魂の震えと、優のまなざしを受ける皮膚の熱 私はいつも内外の両側から優に焦がれている 頭が熱くなって、どうしようもない現実に、咽び泣いてしまう



 二十九日



 優に「もう僕と関わるな」と言われる 断った



 八月



 七日



 夏休み、キャンプに行きたいと言ったら、御簾納家だか源家だかが上高地に別荘を所有しているというので、みんなとそこへ泊まることとなった とにかく体を動かしたい気分だったので、優と他数人とで、徳沢まで歩いたりした 夜、BBQ、優に「あーん」したら、応じてくれた なんで



 十日



 皆は私のことを、まともになった、良識を身に着けた、優しい、かわいい、などと評する……

 今の私はどうやら人生が充実していて悩みなどなさそうに見えるらしい 他人とは複雑怪奇である



 十三日



 優に首を絞められた、苦しくて涙が出た、頭がふわふわした 「殺すぞ」と血走った眼で私を睨んでいた 首に、優の手の感触がまだ残っている 優に包まれているよう あんなの初めてだった  



 三十日

 


 私が《十六夜躑躅》が消えてしまう、崩れてしまう、死んでしまう 

 


 九月



 十六日



 その気がないのに優しくしないで



 二十八日



 『全体性と無限』から引用


 「処女は、つかみえないものであり続け、殺されることなく死に、恍惚として、予期に対して約束されるあらゆる可能性の彼方で、自分自身の未来のうちに身を退いていく。」

 私の理想の《美少女》像? ファムファタ的な ちょっと違うかも 分かんない




 十月



 六日



 秋雨 優が服を貸してくれた 洗濯



 十四日



 ●登場人物 『更科優さらしな すぐる』 主人公 私のことが好き 



 二十三日



 皐月が 優が



 二十四日



 《十六夜躑躅》でなくなっていく 無理やりつなぎとめようとする 《十六夜躑躅》でなくなっていく



 二十五日



 皐月 私の妹になってくれてありがとう これからも



 二十六日



 もうよく分からない 私にはなにもない 言葉がない



 二十九日



 だが それでも なのだ! 


 分からないなどと遠ざけてはならないのだ

 レヴィナスだって、分からないにもほどがある だが、分かろうとしなければならない 分からないと言い放つことの、なんとも手軽な暴力性であることか!

 


 三十日



 震え、おののき、痙攣



 十一月

 


 五日



 皐月とご飯 おいしい



 九日 



 なんとなく「二ーバーの祈り」を音読 



 二十日



  me voici 



 二十九日



 あるいは、というのは、これまでのあらゆる言述にかかる「あるいは」であるが、私は優に、近すぎるのかもしれない


 近すぎる、理解できすぎる、似すぎているから、これまでずっと


 もしかしたら、優なら私のことを分かっ  違う 別に私は誰かに分 否定できない だって〈他者〉とか〈社会〉とかって結局そのためで 分かんない マズローの とかじゃなくて そうじゃない 今の私の精神状態がマズローの欲求五段階説でいうところのここに位置していてだから私の優に対する目線があーだこーだで私の《十六夜躑躅》に込められた本意はレヴィナス哲学ではあーだこーだとか そうじゃなくて、本当はそんなことじゃなくて私は 私はただ 


 どうしようもなくて どうしようもなさをどうにかしたくて  でも無理で


 私なんてなんでもない 優も惚れさせられないけどなにかしら

 なにもできることがないけどでもなにかをしなくてはならない なにか! 


 そして、やっぱり、文学とか哲学を突き放してもいけない 


 私よ、私のなかの私よ、聞け 分かるか、私よ 

 私はずっと生きるためのなにかを探して、それをわれわれは「倫理」と呼んでいるはずだった それは、「教科書的」かもしれない しかしながら、誤解を恐れず言えば、私はそもそも倫理の教科書通りに生きたいのだ


 人間たれ


 私は《十六夜躑躅》として《更科優》を同化し斥けなければならない

 しかし同時に

 私は〈他者〉のために、でありたい

 優という〈他者〉のために、でありたい 


 という思いがもっとも強いのだ


 ――人間は、なんのために生まれるのか? なんのために生きるのか?

 ――善く生きるためだ 世界を少しでも〈善〉で満たすためだ われわれは、この世に善意を知らしめるために生まれくる


 ならばどうすればいい? 

 倫理を捨てて、倫理を捨てず、自分のためであり、他者のためであり、暴力であり、救済であるような……



 《十六夜躑躅》という一個の巨大な自己矛盾は、どうすればよいのだろう


 

 優のことを単に乗り越えるべき障害としか見做していなかった以前の私と、今とでは事情が違う

 かつて私にとって、《更科優》は美しく善く〈他者〉へと開かれるために邪魔な存在でしかなかった

 今は違う

 もう私は優じゃないといけないのだ 優以外は考えられないと、魂の最も深いところで考えてしまっている あまりに長いこと、優のことばかり考えすぎていたから

 だから、私はただ《更科優》という〈他者〉にとってのかけがえのない存在になりたい 否「なりたい」というのは違う 見返りを求めたら終わりだ 私はただ、

 しかし、だというなら、どうして私は自己放棄をしない? 〈他者〉のためということならそれで済むはずだ


 初めから私に選ぶことなどできず 私は優に選ばれたのだから この、選ばれたことによる責任を引き受けなければならない自由のもとで

 私が《更科優》の〈身代わり〉となって、彼の〈苦痛〉を、その〈顔〉の負う無限の〈責任〉を、〈善〉なるもののうちに引き受ける

 そうすることで、私は優にとっての唯一の者になれるのだと、せっかくレヴィナスが〈教え〉てくれているのに


 なぜ私はそうしないのだろう?



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