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12 十六夜日記 三

 こうして私は《十六夜躑躅》という幻想を肉付けしていった

 特殊な口調と、極端に誇張した発声、騒がしい身振り、圧倒的な自信、ナルシシズム……

 私は人類にとって理想の《美少女》を研究することに決めた


 ここで参照したのが、いわゆる「おたく」の歴史、サブカルチャー史であった


 現代思想の文脈でたまに触れる程度だったので、新鮮だった


 おたくの《美少女》に対する信仰は根強い

 おたくは《美少女》を性欲によって鑑賞し信仰することで、現実の女性の存在や未熟な自己から目を逸らして生きているというのだ

 現代のおたくたちが《美少女》に対して「真実のお嫁さん」という表現を冗談半分で用いている(少し気持ち悪い……)例も散見し、これは『ファウスト』における「永遠に女性的なるもの」の類型かと思われる


 この逃避の仕方はよく理解できたが、どうやらおたくはこの信仰に無自覚的であるために、しばしば抑圧され続けた肉欲が現実の女性へと向けられたり、自己顕示欲が膨れ上がるあまり暴走してしまうことがあるのだという


 どうやら《美少女》はこれまで時代を隔てて二度ほど敗退しているようだ


 ・一度目は2007年に誕生したVOCALOID「初音ミク」であり、彼女はとある曲によってショック死してしまった

 ・二度目は2017年末に流行を始めた「バーチャルYouTuber」というコンテンツの腐敗がこれを象徴している


 これらについて詳しく述べると長くなってしまうので、ここでは省く


 ともかくこれらの偉大な先人たちから学び、《十六夜躑躅》は死を回避しなければならないのだ

 おたくは、《美少女》という共同幻想を夢見ることで自己充足を果たしながらも、結局は《美少女》の「虚構」性に耐えられず、押しつぶされ、自らの手で《美少女》を殺してしまう


 それではいけないのだ!


 私はなんとしてでも、共同幻想としての《美少女》という「虚構」を、死守しなければならない!


 思うに、現代には《美少女》が溢れすぎている

 アニメ・漫画・ライトノベル・美少女ゲーム・ソーシャルゲーム・バーチャルYouTuber……あらゆる場所で《美少女》が生まれ、そして滅びている


 現代では《美少女》が飽和している

 《美少女》を求める者たちによって《美少女》が量産され、増えすぎた《美少女》たちは互いを殺し合う

 そうして勝ち残った《美少女》たちは、おたくから注がれる金銭と性欲の量だけ輝くという構造である


 令和の現代において、《美少女》はまったく希少な存在などではなく、その価値の暴落はとどまるところを知らない


 《美少女》など無数に存在するのであり、《美少女》であることはもはや「当たり前」なのだ

 それゆえおたくは、数多の属性を付与することで《美少女》の「差異化」を目論む

 宇宙人、未来人、異世界人、超能力者、外国人、アイドル、異種族、アンドロイド、ロリ…… ツンデレ、クーデレ、ヤンデレ、メンヘラ、のじゃロリ、ダウナー、アッパー、オタク……

 かつて論じられた〈萌え〉の〈データベース消費〉である


 これらの属性は市場に競合を産み出し、それを勝ち抜くためにおたくは《美少女》を再差異化する 

 そして再差異化された《美少女》同士が、さらに競い合うなかで再再差異化をはかる……

 俗にいう差異化ゲームであるが、この「差異化ゲーム」なる用語ももはや使い古され、今ではむしろ冷笑(!)の対象となっているのが現状であるらしい


 このような事情によって、現代では純粋な《美少女》の誕生などもはや望むべくもなくなってしまった


 《美少女》は、いなくなってしまった

 ニーチェではないが、言うなればおたくと、そして私たちが、《美少女》の魂を殺したのだ


 それでも私は諦めるわけにはいかない

 おのれの《美少女》性に縋るしかない私のような女には、《美少女》が必要である


 しかるに私は、ただの《美少女》である

 《十六夜躑躅》は、何者でもない


 人間で、高校生で、黒髪で、生徒会にも部活にも所属しておらず、天才もなく、現代人で、超能力も使えず、社会的な肩書を持つ有名人でもない


 私はただの現実の女だ


 私がこれまで自身の《美少女》性を周囲にアピールしてやまなかったのには、こういう事情もあるのだ

 ナルシストとして自画自賛を繰り返し、《美少女》信仰とルッキズムによって周囲を嘲り、尊大に振舞い、それによって社会通念をも超えて行動を起こす《十六夜躑躅》という虚構の構築――

 

 私は、世界で最後の《美少女》になろうとしていたのだ


(そこまで苦労せずとも、現代なら《美少女》性をひさぐことで、かりそめの自己愛を獲得する道も可能である{私にはいかにも娼婦の性向があるではないか} この仕方も何度か考えるだけは考えたのだが、性の対象となった《美少女》にどうやっても主体性は生まれ得ない気がしたので、断念した)


 そのような仕方で、《十六夜躑躅》という仕方で私は、自己愛を回復し社会と関わる道を――それが無秩序の隘路であったにしても――開いたつもりだった

 《十六夜躑躅》とは、私の困難な自助、セルフケアリングとしての表象である 


 ここで、私は虚構、虚構と繰り返しているが、では《美少女》としての《十六夜躑躅》の言動はすべて嘘っぱちで、それはなんでもない私という一個の人間とは無関係の、どこかの知らない《美少女》のしたことであるから責任は取らないという気かというと、そうではないつもりで私はやっている


 少なくとも私ははじめ、どうにか他者と関わろうとして《十六夜躑躅》を作り上げた、そのときの〈他者〉への熱意と激しい倫理観を忘れた覚えはないのだ

 本当なら、《美少女》《十六夜躑躅》なんて仮面は被らずに社会に認められるなら、それが一番いいに決まっている 現代思想は「複数性・多数性」で括るとクリアになると思うけれども、現代の社会はあらゆる方面に無限に開かれており、その無数の居場所のなかから各々がどうにかこうにかして自分を慰める手段を(ある程度は)獲得できるような社会に、一応はなったのだと私は感じている それはコロナ禍以降の「令和」時代の一つの特徴であり、またインターネットという仮象の世界が今や現実と同じ強度を持ってわれわれの人生に影響を及ぼすようになったことによる功罪のうちの、もしかすると唯一の功績ではないかとさえ私は思う われわれは、(一般的な意味での)外部を失った代わりに、無限にも等しい内部を手に入れたのだ この広大な内部世界において、われわれは半世紀前と比較してきわめてスムーズに自分の居場所を見つけることができるようになった


 しかるにただの私の言葉というのは、社会に対してあまり有効ではないらしい たとえばこの〈顔〉を駆使してインターネット上で有名になろうと思えば、できなくはないだろうがそれがこの虚しい生の渇きを潤してくれるとは思えないし、誰もネットの向こうにいる私の言葉に本心から耳を傾け、それによって心を動かし、「私と共に」あろうとしてくれはしないだろう

 だから私はもう仕方ないので、《十六夜躑躅》という「実体のある虚構」としてこうして世界と関わることに決めたのだ

 無理をしていないかと言われたら否定はできないし、〈他者〉の希求から出発した私が自己愛の確保に躍起になって〈他者〉をないがしろにするようでは本末転倒ではないかという矛盾は、今でも私の頭を悩ませている問題である 


 しかしこれはもう私の意気地の問題であって、今更《美少女》《十六夜躑躅》の言動が倫理的に目に余るからと、これまでのすべてを反省して尼削ぎして出家しますなどと言ったらそれこそ仏教の無我じゃないが、私が死んでしまうというところにまで私の自己同一性というものは歪んでしまっている

 もはや私は、九鬼周造が〈いき〉な女の特徴に「意気地」を挙げたのをバカみたいに信じて、《十六夜躑躅》こそ〈いき〉な女だと考えることでなんとか自分を納得させながら突き進んでいくよりほかに仕方がない

 

 上記で述べたような、令和時代における「内部」と「外部」という伝統的な二項対立の急速な解消という事態の下で、私はそれでも《美少女》に光を見いだしたいと思うのだ


 また、私がその存在のうちに孕むいくつもの自己矛盾についても、サブカルチャー史を学ぶなかで、事後的に一応の説明がつけられるまでには考えを深めることができた その一つが、私が倫理を標榜しながら、その実、相対的な価値である自らの〈美〉を絶対のものとして主体生成していること、看過しえない私のエゴイズムについてである


 私はここで、『苺ましまろ』という漫画のキャッチコピー、「かわいいは正義」というあの言葉を想起する

 ところで、レヴィナスにとって自と他の関係とは、〈他者〉から私への責任という一方的な、非対称的な関係であり、それこそが「第一哲学としての〈倫理〉」なのであるが、そこに「第三者」が現れる時、この倫理性は一変する 

 すなわち、これまで私は眼前の〈他者〉、特に〈他者〉の他性の象徴である〈顔〉に対して無限の責任を感じ、一切の理性的・道徳的価値判断に先立って、自己犠牲すら厭わない滅私奉公を〈他者〉へと差し向けることによって倫理的な主体たりえてきたのだが、ここに今までの〈他者〉ではないもう一人の〈他者〉が現れる その時、私には両者を価値判断の俎上に載せる必要が生じるのだ 極端な例であるが、二人の〈他者〉が今まさに私の目の前で、学校の屋上から飛び降りようとしている 私が手を伸ばせば一人は助けられるが、時間的にもう一人は助けられない そうして私は、両者に優先順位を定め、その命の重さを比較しなければならない事態へと必然的に迫られる レヴィナスによれば、これを可能にするのが、すなわち私と〈他者〉とを「非対称な関係」から解放し、「対称的な関係」へと推し進めるものが〈正義〉の次元であるという

 〈正義〉は私も含めた〈他者〉同士の比較を可能とし、国家と法律を要請し、あまりに厳格であったこれまでの倫理を一部緩和する しかしそれゆえに、私は〈正義〉が〈正義〉の名の下に暴力性へと転化し、それが非倫理へと堕することを防ぐべく、〈他者〉の〈顔〉によって自己内省的に震えていなければならないのだ


 そうして私が自と他を、そして他と他を〈顔〉の美醜によって比較し、そこに優劣を見いだすのは、「かわいいは正義」という原則に拠る

 〈正義〉すなわち〈美〉が、われわれを対称的な関係へと切り開くのだ


 〈正義〉=〈美〉の下で、《十六夜躑躅》は多くの醜き〈他者〉に優先し、そのような《美少女》として倫理的主体たりえるのだ 


 私は〈美〉によって〈他者〉を判断し、それを〈感受〉する そうして私は存立するだろう


 このようにして、私は両義的な存在、《十六夜躑躅》としてなんとか社会で生きられるようになっていたのだった


(追記:私の正気を疑う 自己弁護もたいがいにしろ 2024年12月23日)


 ……というところで十日前、大問題が発生したのだ!



 《更科優》!



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