9 生の八時間
ケーキを冷蔵庫に入れて、僕は自室に籠った。
椅子に座ると、ふっと全身から力が抜けるようだ。僕は緊張していたのだった。
カチコチと、時計の針が妙に響く。
「11時……」
普段ならば、躑躅はこの時間には来ているはずだが、寝坊でもしたのだろうか。
そんな風に考えてから、心のなかで自嘲する。来ないなら、それに越したことはないのだ。寝坊しているのなら、そのまま一生起きないでほしい。
ともかく時間をつぶそう。
僕は机に向かって……なにかをしようとして、なにもすることがなかった。
人間というのは……一人で、なにをすればいいんだろう。
もう一年以上、エルや野分たちと一緒に過ごしていたから……あまり一人の時間というものがなかった。彼女たちといる間は、その時々の見たもの聞いたものについて話しているだけで、時間がすぎていたからだ。僕自身になにか関心ごとがなくとも、彼女たちの方から話を振ってくれて、それを楽しむというようなことばかりしていた。
そして彼女たちと関係を絶ってからの一週間は、ずっと躑躅がここに来ていた。あいつと話したり、各々読書をしたり……。
「読書」
一人で過ごすならやはり、読書、アニメ、ゲーム。
僕だって、かつてはオタクだった。誰かといるより、一人でいる方が楽だったのは、アニメやゲームに無限に没頭して、それだけでもう楽しかったからだ。
家で一人で時間を潰す方法なんて、いくらでも知っていたはずだ。
……だと、いうのに……。
モチベーションがない。見たいアニメも、読みたいラノベもない……。
試しに積んであったエロゲを起動してみたが、コンフィグをいじっている間にやる気がなくなって、閉じてしまった。
「なにが“また会おうね、絶対だよ”だ、僕はお前なんか知らないぞ。……お前もネモなのか! エロゲヒロインは全員ネモなのだ!」
どうやら僕は自分でも気が付かないうちに、相当精神が参っているらしい。娯楽を素直に娯楽として享受できないのは、心の問題だ。
現実逃避のつもりはないが、対外的にはそうとしか思われない行動をしているから……やはり社会の目が気になって、罪悪感のようなものを抱いているのだろうか? 僕はそこを完全に割り切れるほど狂人ではないのだろう。そこまで狂っていたら、そもそもこれほど悩んでいない。
仕方ないので、適当にアニメを流し見して過ごす。
カチコチカチコチカチコチと、秒針がうるさい。
「……もう15時!?」
さっきまで11時だったはずだ。もうそんなに経っているのか。なにをして時間を潰そうかと考えている間に、四時間も経過してしまった。……これはいいことなのか? 時間を潰そうとしていたのだから、いいことなのだろうが……しかし。
この四時間で、僕はなにをした? なにも、していないのではないか? 今、僕はアニメを見ていたはずだ。なんのアニメを? どんな内容だった? ……何も覚えていない。そんなのは、何もしていないのと同じだった。
というか、躑躅は。いい加減、躑躅はどうしたのだ。まだ寝ているのか?
それとも、まさか本当に来ないつもりか? 昨日も、一昨日も来ていたのに? 僕をこれほど待たせておいて?
それはいささか非常識ではないか? いくらなにか約束を交わしているわけではないとはいえ、ああも連日の訪問を行ったのなら、それが途切れる時には一言あってもよいのではないか?
お前の方だぞ、躑躅? 僕がどれだけ来るな来るなと言っても、来続けていたのはお前のほうだ。なら一度言ったことは守れ。今は男女平等、ジェンダーレスの時代だぞ! 女にだって二言はないのだ。
ケーキは、ケーキはどうするのだ。お前のために買ってきたケーキが、このままでは腐るではないか。母さんも待っているのだぞ。母さんを待たせるつもりか? 母さんはな、フルーツタルトが大好きなんだ。本当なら、今すぐ食べたいはずなのだ。だが躑躅、きみのことを待っているんだよ。これ以上遅れるようならただじゃ置かないぞ。優しい母さんに代わって、僕が躑躅を怒らないといけない。これはとても悲しいことだ。
「いや、母さんにはひとこと言えばいいのか」
僕は気づいた。母さんの部屋に行き、躑躅は今日は遅くなるようだからケーキを先に食べてしまってほしいという旨を告げた。
「ホント? なら……」
と言って、リビングに出てきていそいそとフルーツタルトを食べ始めた。とてもかわいい。
僕はそれを見届けて、部屋へと戻り、再び十六夜躑躅だ。
家に電話しようか? 違う、まずはLINEだ。あいつにLINEをする。
【つつじ】
【いい加減、お前が来るか来ないかということで頭を悩ませるのはごめんだ】
【今日来ないなら、お前はもう来ないものとして処理する】
【明日からは家に鍵も掛けておくから、お前は入れない】
【分かったな?】
よし、これでいい。返信を待つ。
返信を待つ。
既読が付かない。
おかしい。どうなっている?
死んだか? あの女、ついにくたばったか? ならばせいせいするのだが。
電話をかけてみるか? ……いや、やめておこう。どうして僕の方から彼女に電話しなければならないのだ。理由がない。
だが、安否が分からないというのは不安だ。
そうなのだ。今、躑躅は、どういう状態だか分からない。
カチコチカチコチカチコチカチコチカチコチと、時計の、針が耳元で爆音を立てる! 鼓膜を劈く!
「もう19時だ! どうなってる! 今日はクリスマスイブだぞ!」
なぜだ? なぜ、よりにもよって、このような重要な日に来ないのだ?
あいつは今日が何の日か知らないのか? 12月24日だ。男女がセックスをする日だ。
お前は僕とセックスがしたいのではなかったのか?
躑躅、きみの《美》への執着はその程度のものだったのか?
あるいは――
男か?
躑躅、お前、男ができたのか? 僕以外に、彼氏がいたりするのか?
そうだよな、考えてみたら、お前なんかただの面食いだからな。
僕ではなくとも、イケメンなら誰にでも、簡単に股を開くような売女だものな、お前は!
「彼氏がいる女VTuberだって怪しまれないためにクリスマス配信はするんだぞ! おい! 十六夜躑躅! VTuberのなり損ないみたいな名前しやがって!」
これはまずい。念のため、警察に通報しておかなくてはならない。
僕は119に連絡する。
『火事ですか? 救急ですか?』
「おい。警察か!」
『こちら消防です』
「躑躅はどこにいる!」
『は?』
「答えろ。これは、〈命令〉なのだぞ。僕が〈命令〉する。躑躅はどこにいる」
『知りません』
「僕を案内しろ! 〈命令〉だ!」
『は』
消防車が僕の家まで来た。僕が乗車すると、消防は街中を案内したが、彼らは躑躅の居場所を知らなかった。雪景色のなかを代わる代わる照らしていく赤いサイレンの光を眺めているうちに、家の前まで戻ってきていた。僕は家の前で降ろされた。
雪だ、雪が降っている。寒い。住宅路が真っ白だ。夜の底が白くなった、とでも言いたげだ!
僕は夜の底に寝ころぶ。
「躑躅。お前、心移りしたのか。今頃、他の男に抱かれているのか? 処女は僕に捧げるのではなかったのか……」
そうだ、今日だって彼女は僕の家に行こうとしていたのだ。今日はクリスマスイブだから、普段より少しオシャレをして、きっと今夜処女を散らす覚悟だったに違いないのだ。
だというのに、僕の家に向かう途中で、イケメンにナンパされてしまった。いつもよりかわいい躑躅に目をつけたそこらへんの、筋肉と体格と経験人数だけは一丁前の金髪浅黒イケメンが!
大樹の幹のような屈強な腕を躑躅の肩に回し、彼女の胸をわしづかみにして、そのままラブホテルへ足を運んだのだ! 躑躅もまんざらではなかった、あいつは顔さえよければ僕みたいな奴でも好きになるようなチョロい女だからだ。自分の華奢な体をまるごと支配するみたいな大柄なイケメンに抱き寄せられて、下品な発情顔を曝して下着を洪水のように濡らしながら体を許したのだ、むしろ自ら進んで捧げたのだ! そしてもう八時間以上! 休みなしの汗だくセックスだ! 躑躅の体はすっかり精液と愛液まみれになって、イキ狂うあまり痙攣している。意識は朦朧として、彼女は完全にヤリチンの絶倫チ○ポに落ちてしまった。美だのなんだのと言っていたちっぽけなプライドもなにもかも、圧倒的な快楽によって上書きされてしまった! もうルッキズムなどどうでもよくなって、僕などには見向きもしない! 彼女は染められてしまった! 僕の知る十六夜躑躅は、いなくなってしまったのだ。僕が家で一人、アニメを見ている間に、既に……。
「……そんなのは嫌だ……嫌だぁ……!」
明日、顔を合わせた躑躅は、すでに他の誰かの者なのかもしれないのだ! 非処女かもしれないのだ!
非処女は……非処女は嫌だ!
「だって非処女は妊娠しているかもしれないだろ! 事実、野分は非処女になったせいで妊娠した! 処女は孕まない! 処女は孕まない! 処女でいてくれ、躑躅……!」
そうだ、たとえば、こんな感じなのだ。
『陳腐な童話がはじまる。
ある日、底の抜けた水瓶があった。底抜け瓶はたいへん美しい意匠が施されていたので、世界中の美少女たちがその水瓶に群がった。彼女らは手に手に高価な透明な水差しを持ってきて、水差しは深山幽谷の美味しい湧き水でなみなみと満ちていた。底の抜けた水瓶が、喉が渇いたとうるさいので、美少女たちはこの綺麗な水を一生懸命な手つきで、優しく、丹念に、ゆっくりと、労わるように、水瓶に注いでやった。水瓶の底は抜けていたので、美しい少女たちがどれだけ献身的に水差しを傾けようとも、純粋な水は音もなく瓶のなかを通り抜けていくだけだった。しかし瓶と、少女と、少女の注ぐ水はどれも至高の清淑と典雅を備えていたので、その姿は、日本庭園の滝のごとき乱脈な美しさで見る者を魅了した。美少女たちは、黙って水瓶を傾け続けていた。水瓶は乾いている。
《美少女》が現れた。
彼女の持つ水差しは透明なガラスではなくて、フランスのアンティークの豪華な陶器だった。彼女は水差しの水を、水瓶に注ぐのではなくて、自らの喉の渇きを潤すために使った。その代わりに彼女は水瓶を抱きしめた。』
ダメだ! これは違う。くだらない、文体が気に入らない。
こうでいい。
『たとえば底の抜けた美しい水甕があって、その水甕の美しさに引き寄せられたほとんどの美少女たちは「喉が渇いた」という水甕の小さなつぶやきを聞いて水を注いであげるのだとすれば、人の話を聞かない《美少女》は水甕を抱きしめる。その手に持つ水差しのなかの水を、《美少女》は絶対に水甕にはやらない。彼女は彼女自身に水を浴びせて、自らの渇きを癒す。その代わりに、めいっぱい水甕を抱きしめてやる。自分が欲しいのは抱擁ではなくて水だと水甕は主張するんだが、聞きやしない。美少女たちは水甕のいうとおりに水差しを傾け続け、《美少女》は水甕を抱きしめて離さない。そういう違いがあり、そのうちに水甕は気づくのだ。どれだけ水を注がれたって底の抜けた自分ではそれを感じられないが、《美少女》が自分を抱きしめてくれているその感触だけは、うんざりするほど伝わってきているということに。』
これだ! 躑躅、僕は今どんな感じだと思う? こんな感じの文体だ! 僕はこんな感じの文体なのだ!
「ウオー……」
躑躅が構ってくれない。現れてくれない。
愛想が尽きたからだ。
愛想が、尽きた……?
愛想が尽きたというのか?
………………人間だからな、お前。
躑躅は、人間だから。どれだけ、強固な理性で、《美》だの、僕だの言っていたって……
心が、なくなる、ということはあるのだ。
僕に……愛想を尽かした……のか。
「躑躅……」
躑躅も、普通の女の子だから。
だから、愛想が尽きる、ということがあるのか。
どれだけ拒絶しても……いつまでも無条件で傍にいてくれるわけでは、ない、のか……
恋愛関係とはもっとも高度な社会的関係だ。
自立した人間同士が、互いの持つものを絶えず与え合うことで、ようやく成り立つ関係だ。
一方的に性欲や独占欲を向けているだけで成り立つ関係は、人間と人間同士の関係ではないのだ……。
それは、肉バイブと肉オナホの戯れ、あるいは主人と奴隷の主従関係、あるいは共依存、あるいは、あるいは……。
それを嫌がったのが、躑躅……。
「躑躅、躑躅…………」
だから……来ないのか……
「………………」
もう僕が……どうでもよくなったから。
「………………」
もう会えないのか! 躑躅!
「――優? なんで、こんなところに座ってるんだわ……?」
「あああああああああああああああああああああああああああ!」




