2 聖と俗
エルノワが二階へ上がって3分もしないうちに、母さんは帰ってきた。
「さすがに12月の朝は寒いわねぇ……」
上下のヒートテックにハーフパンツと半袖という、まさに早朝の公園とかでよく見かけるウォーキングの装いの母さんが、白いタオルで汗を拭きながらそんなことをぼやく。
「いくら日課の散歩って言ったって、真夏と真冬くらいはやめたら? 逆に体に悪いんじゃないの」
「ん~……でもねぇ、ただでさえ運動不足だし」
普段はほとんど家の中にいるからな。
やっぱり、一人で外を歩きたいという思いもあるのだろうか?
「公園の椿がね、そろそろ開いてきたんだって。そういうのは毎日歩いてないと分からないことでしょ? 楽しみの一つなのよ。優も一緒にどう?」
それが伝聞の形なのは、ウォーキングで顔見知りになった近所の人たちから、この公園にはこの花が咲くとか、川辺にはよくあの鳥が歩いてるとか、いろいろ教えてもらっているからだと、以前母さんは得意そうに言っていた。
そうやって楽しそうにしている姿を見ると、僕がとやかく言うことではないような気もしてくるので、困りものだった。
「いや、僕はいいよ。野分を起こさないといけないし、近所に咲いてる花を愛でる年でもないし」
「はいはい、私はもうおばさんだものね~」
「あ、そうじゃなくて」
「ふふっ」
「…………」
ほんの少女みたいに笑うな、と僕はいつも思う。
僕には母さんは、あの時からずっと変わらないようにすら感じる。
なかなか老けないのは、ストレスとかも関係したりするのだろうか? あんまりそういうの知らないけど……。
「野分ちゃんはいないの? 今朝ね、私が起きた時にはもうここにいたから、ビックリしたのよ」
「僕もだよ。……もう朝食も済ませたから、二階に戻ったよ。エルも来てる」
「まあ。この時間だと、朝ごはんまだなんじゃない? なにか出してあげた方がいいかしら」
「大丈夫でしょ。多分食べてきてるよ」
僕は長いこと、エルの存在は母さんには隠していたんだけど。
一年前くらいに、きっかけも忘れたようなくだらないことでバレたんだよな。
バレたというか、ずっと前から知られてた。親というのは恐ろしい。
「それならいいけど。なにか用事だったの?」
「さあ。野分が呼んだんだって」
そうなの、と言いながら、母さんは目の前で部屋着に着替え始める。地味な色の下着が露わになった。
……僕はなんとなく母さんに背を向けた。
◇◆◇◆◇
エルは、二階から降りてくるなり、
「……先に学校行ってるね」
と言って、僕の返事も待たずに家を出ていってしまった。
ちなみに、母さんは二人と入れ違いで寝室へ向かったので、すでにこの場にはいない。
戻ってきた野分は、制服姿になっていた。水分のプリーツスカートを行儀よく押さえながら、僕の正面の席に腰掛ける。
「なにか話してたのか?」
「ええ。えっとね」
どういう風に言うべきか、言葉を探しているのだろう。野分の視線がだんだんと落ちていくのが分かった。
「……先に言っておくけど、これはエルが話していいって言ってたから、話すのよ」
「うん」
「まずね、わたしが、なにがあったの、って聞いたら、エルは……」
「うん」
「『なにもなかった』、って」
「そっか」
「なにもなかった。もうずっと、なにもなかったって。なにもしてくれなかったって」
「そっか」
「昨日の深夜、あなたに電話で『別れたかったらいつでも言ってね』って言ったって。ホント?」
「うん。ちゃんと聞いてたよ。その場で断ったけど」
「それで、エル、わたしに聞いてきたわ。『今朝の優くん、どんな様子だった?』って。『私のことを考えて眠れなくて、寝不足そうだったかな?』とか、『いくら話かけても上の空だった?』とか……」
「そっか」
「それでさっきは、あなたに、追いかけてきてほしかったって。彼女が目の前であんな風に逃げ出したら、普通は追いかけてきてくれるんじゃないかって」
「そっか。言われてみれば、それが普通だな」
「あと……、……」
こちらの様子を窺うように、いちど口を閉ざしてから、野分は、
「――私、まだ優くんの彼女? って」
「僕は、そのつもりだけどな」
「なら、それをあの子に直接言ってあげて」
言ったところで、意味はないかもしれないけど。
言っても意味がないから、じゃあ言わなくていい、ということではないのだ。
それくらいは理解できる。
「野分はどう思うんだ?」
「どうって、なにが?」
「だから、たとえば――」
僕は立ち上がって、野分のすぐ傍まで移動する。
そして彼女の頤に指をかけて、
「野分。愛してるよ」
唇を重ねる。
「…………っ」
彼女は反射のように、頬を赤らめる。
離れていく僕の顔を追うように、彼女が右手を伸ばす。僕はその手をそっと握りながら訊ねた。
「野分も、僕に愛されていないと思うか?」
もう少し言い方があった気がする。言い方というか、言葉足らずというか……。
「あなたのは……ちょっとだけ、伝わりにくいの。大丈夫よ」
「正直に言ってくれ。伝わってないんだろ。少なくとも、エルは、ずっと愛されてないと思ってたんだな」
「それは……」
言うべきか迷ったのだろうが、ここでそれを言わないことを、誰も望んでいない。
「……ええ」
「さざれや、ズミもか」
「無責任なことは言えないけど……多分」
「野分、僕はきみを愛してるよ」
「分かってるわ」
「愛してるよ。みんな愛してるんだよ。本当に」
「ええ、ええ」
「僕は、野分を愛してるよ!」
「大丈夫、分かってるわ。優、ね、わたしにはちゃんと分かってるから、大丈夫よ、優」
「ああああ、あ、あ、あ、あ。野分……」
いつの間にか膝立ちになって、野分に縋りついていた。
彼女は僕を優しく抱き留め、自分の膝に僕の頭を置いて、黙って撫でてくれる。
「……そういえば、エルになにか用があったんだよな。よかったのか……?」
「え? ああ、いいのよ。遊びにでも誘おうと思ってたんだけど、あの調子だものね」
◇◆◇◆◇
登校時間になったので、野分と共に外へ出ると、すでに彼女は家の前で待っていた。
高校の鞄を両手で前に提げて、玄関先の満天星の横に佇んでいる。紅に匂う葉越しに、満天星が季節外れの花を咲かせていた。彼女の髪留めである。
チェック柄のマフラーと紺のダッフルコートで身をつつみ、暖かそうであるのと対照的に、寒気に晒されて赤くなった鼻先がかわいらしい。
「おはようだわ、優、ノワ」
「ああ、おはよう」「おはよう」
冬の透明な陽射しを浴びて、艶やかな黒髪が、ちらちらと白く瞬いている。
躑躅が小さく頭を振ると、ワンサイドアップが嬉しがるように弾んだ。
「さっき、エルが出てきたわ。せっかく来てたのに、先に行っちゃうなんて……なにかあったの?」
「受験の面談があるんだってさ」
「まだ読めない漢字も多いからって、受験方式で、いろいろとね」
「大変なんだわ」
……ずっと一緒にいるとなかなか気づかないものだが、出会ってからの内面の変化がいちばん大きいのは、実は躑躅であるように思う。
この頃の躑躅は、不慮の事故で夫と子を失った未亡人のごとき、不思議な慎ましさを醸していた。
これに意識が向いた時、僕は狐につままれた心地だったのだが、真に驚くべきは、その一見気味の悪い清潔さが、いかにも躑躅にしっくりとくることであった。以前の彼女によく見られたような、所かまわず大声で喚き散らし、事あるごとに自らの美をひけらかす姿を、僕はもうずいぶんと目にしていない。あたかも、こちらの思慮深い性格の方が、躑躅の飾らない姿であったかのごとくである。
なにが彼女を変えてしまったのだろうか? あるいは、ずっとおかしかったのが正気に戻ったのだろうか?
僕は、出会った当初の彼女を思い出す。……もっとも古い記憶の彼女は、まだあれほど五月蠅くはなかったような気もした。
「……優? あんまり見られると、照れるんだわ」
「じろじろ見たくなるようなルックスしてるからな」
「痴漢は痴漢したくなるような体してる女の方が悪い理論ね」
今の躑躅からは、喪に伏すような不幸の雰囲気を感じる。
普通、不幸せを隠す気のない美人を、まともな男は煙たがる。美人にとって不幸というものが媚態の一形態にすぎないことを、男は経験的に知っており、ふたたびこれに騙されはしないかといつも怯えているため、われわれは薄幸美人を本能的に恐怖するのだ。
だというのに、最近の躑躅が僕は嫌いではなかった。彼女は《美少女》だった。
彼女の美しく繊細な面持ちは今にも日常の不幸せのなかに溶けて消え入るようであるが、その感傷を躑躅自身が良しとしていないことは、一目瞭然だった。彼女はいつも稚気を忘れなかった。他人に悪意を容認させる稚気の効用を器用に身に纏って、躑躅は不幸というカオスのなかから美しさのみを巧みに汲み出して、それを至って自然に着飾るという難しい作業を、自らの意識下で絶えず行っている。
この真摯な労働から生まれる優れた薄幸美人は、たいへん僕の気に入った。元より躑躅の容姿は僕の好みであったが、いちだんと気に入った。
「なあ躑躅」
「なに?」
「今更すぎる確認をしていいか」
「なに?」
「なんで毎日、僕の家に来るんだ?」
「あなたに会うためだわ」
相も変わらず間髪入れず、出会った頃から変わらない答えを口にする。
「あなたに好きになってもらうためだわ。そろそろ惚れてくれもいいんだけど」
「残念だったな」
豪胆さと、しおらしさを、上手く同居させるようになった少女。
いまの好ましい躑躅と接すれば接するほど、しかし、僕はこんな風に思うようになってしまった。
つまり――
(彼女は誰よりも懸命に生きようとしているのだ。それを僕が汚してはならない……。)
躑躅からは、距離を取るべきなんじゃないかと。
きっと手に入れたら色褪せてしまう、眩しすぎる光は、僕の体に毒なのではないかと……。
――たとえばそれは、発作みたいなもので。
精神的に追い詰められたものが、時々発狂するように。
僕はある時、躑躅にもう二度と近寄るな、と言ったことがあった。
『絶対に嫌だわ』
『簡単に“絶対”とか言うな。あああああ……犯すぞ!』
『いいんだわ。私のはじめてはあなたにあげるつもりだったから』
頭のなかが破裂した。
『死ね! 死ねよ!』
『なら殺して。どうせ死ぬなら、あなたに殺されて死にたいわ』
『ふざけるな! そうやって異常者アピールするのはやめろ! 割り切っているかのような素振りは滑稽なだけだ! なあ、躑躅、なにが『美がすべて』だ。お前な、そんなくだらない信条は、若いうちだけなんだ。今はそれでよくても、いつかきっと目が覚めて、後悔する日がやってくるに違いない。その時初めてお前は、これまで自分がどれだけしょーもない価値に縋っていたかを知るはずなんだ。だから躑躅、殺してとか言うな! 少しは抵抗しろ! 生きようとしろ!』
『してる。だって、あなたが私を殺したいほど憎んでくれてる、今ほど生きている瞬間もないから』
『なら嫌がれ! 首を絞められてるんだぞ! 本能的に嫌悪しろ!』
『無理。嫌じゃないし』
『なぜだ!』
『あなたがセカイでいちばん美しいから』
『あああああああああああああああ!!』
『あなたの美を乗り越えたいから! 所有したいから!』
『ああああああああああああああああああああああ!!』
『私は十六夜躑躅! ここで生きてる!』
『その通りだ!!!』
僕は躑躅をレイプしなかった。
――……そういうことを繰り返すうちに、今度はこんな風に思うようになった。
躑躅はもしかしたら、本当に僕の「顔」にしか興味がないんじゃないか。
その興味は、僕自身には微塵も注がれていないのではないか。
彼女にとって、僕の元に足繫く通うという行為は、男に会いに来ているのではなく、お気に入りの名画を鑑賞するために、美術館に通うようなものなのではないか。
もしそうだとすれば、それは僕にとって――
ズミの時にも同じことをしようとして、失敗に終わった。彼女は僕を愛してくれたから。
けれど、躑躅ならあるいは……。
「ねえ、優?」
「――、ぁ」
……隣を歩いていた少女が、僕の手をやわらかく握ってくれる。
「野分?」
なぜだろう。
彼女は憔悴ともとれるような、力のない笑みを浮かべていた。
「どうしたんだ?」
「……ううん。……ただ……」
「うん」
「わたしは、ここにいるから」
「うん? うん」
意味の通った言葉ではない、と思った。前後の文脈から意味が読み取れる言葉ではない言葉が、交わされている。それを会話とは呼ばないことを、以前の僕らは知らなかった。最近はこういう意味不明な眠くなるやり取りも減ったように感じていたのだが。
「…………」
目を転じれば、躑躅がじっとこちらを見つめている。その双眸からは一切の光と感情が剥がれ落ちていて、二つの暗い穴が開いているようだった。
なんだか今朝は、あの夏までの出来事を、いやに思い出す朝である。……。




