1 わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
2024年12月3日
……――あれからそれなりにいろいろあって、なにもなかった。
なにかきっかけがあれば、と思うのは欺瞞だ。「きっかけ」なんてものが虚構にすぎないことを、特に僕たちの世代は知り尽くしているだろう!
僕たちは不満足な平和な日常のうちに、ある衝撃を期待する。それは己さえ半信半疑な未来への信仰であり、この信仰によって、僕たちは、それが到来するまでの己のあらゆる怠惰をなにか意味ありげに着飾って、目を逸らすどころか自慢げに周囲へ見せびらかしてしまう。もういちど言うが、僕たちの「何か」を変えてくれる衝撃なんて存在しないことを、もはや誰もが知っているというのに!
……だいたいそんなことを考えながら、僕はベッドから起き上がった。今日も学校だ。あの夏から一年半が経っても、僕はまだギリギリ高校生だった。
制服に着替えてリビングへ出ると、そこにはもう先に野分がいる。
……驚いたな。あの朝に弱い野分が、僕より先に起き出ているなんて。珍しいこともあるものだ。
キッチンの窓から差し込む陽光が、食卓の一角に伸びている。彼女は日向ぼっこでもするかのように、四つの椅子のうちで唯一の日の光のあたる席に座っていた。彼女の銀色は自然に流れている。十八の誕生日から、野分は髪を結わなくなった。本人いわく、十八歳にもなってさすがに恥ずかしいからとのことだったが、僕が頼めば嫌々ながらもその日はツインテールにしてくれる。野分の恥じらう姿がかわいいので、僕は定期的に彼女をツインテールにさせていた。
「おはよ」
野分が僕を見つけて、挨拶をしてくれる。素っ気なさのなかにも親愛の含まれた声色だ。彼女はテーブルで頬杖をつきながら、冬の湖のような瞳をぼんやりとこちらへ向けている。食卓の上に置かれた赤塗りのトースターの表面に、彼女の白絹の人差し指が面白げもなく掛かっていた。トースターには二枚のトーストがセットされており、こんがりと焼きあがったまま放置されている。
「おはよう。今日は早いんだな」
まさか朝食の準備までしてくれてるなんてな。なにかいいことでもあったんだろうか?
「変な時間に目が覚めちゃって、そのまま」
「そっか」
そんなものだ。僕はキッチンで手早くコーヒーを二杯だけ淹れて、一つを野分の前に差し出した。
「ん。ありがと」
「……?」
僕は首をひねった。
この野分は、どこか不思議な雰囲気があった。僕の知っている野分であって、実はそうではないような気がしたのだ。
しかしこれは雰囲気の問題であるので、どれだけ彼女の綺麗な顔立ちや髪型や指先や肩を眺めたところで、なにかおかしいところがあるわけではない。
「なに?」
と、あまりにじろじろと見すぎた僕に問いかけるその一連の仕草、目つき、声色も、どこか気だるげというか、物憂げというか、上の空な気がした。気がしただけかもしれない。
「僕の彼女は今日もかわいいなってさ」
「ばか」
照れたのを隠すように、野分は僕から視線を逸らしてコーヒーカップを傾けた。
もう付き合って一年半になるというのに、彼女たちは未だにこんな言葉一つで処女のように赤くなったり、狼狽えたり、喜んだりしてくれる。これは僕がそうなるように半ば仕向けたことで、女は上手くやればいつまでも処女の恥じらいを忘れない。男の前に裸で立って平気な女を、僕は愛せなかった。以前僕はそれで一度失敗してから、気を付けるようになったのだ。
「母さんは?」
「お散歩。10分前くらいに出てったから、まだまだよ」
野分は去年の夏休み初日から更科家に居候している。母さんともずいぶん親しくなり、リビングのソファに二人して腰掛けて歓談したりしている光景は、もはや見慣れたものだった。たわいない話で肩を揺らし合う二人を見るのが、僕は好きだった。
「はい。こっち、あなたの」
「ありがとう」
二枚のトーストのうち、一枚にはすでにバターが塗ってある。こちらが僕のだ。僕は焼く前と後とで二度バターを塗って食べるのが習慣だった。
「やっぱりそれ、体に悪いわ」
「マーガリンじゃないから平気だ」
「バターだって同じよ」
「そんなこと言ったら、そもそもパンは身体に悪いんだよ。そんなこと気にするな」
「もう……」
不服そうに溜息をついて、トーストにバターを塗る野分。彼女は焼いた後に塗る派だが、以前焼く前に塗ったのをそれと知らせず出した時、何も言わずもぐもぐ食べていたのでこだわりがないだけかもしれない。
「……ねえ、優」
「ん?」
バターナイフを動かす手を止め、野分が改まって話しかけてくる。
「なんだ?」
「その、なんでもないことなのよ。えっとね……」
「うん?」
「あの、ね……」
彼女はわずかにうつむき加減で、僕を下から盗み見るように見つめている。
期待するような、不安がるような、曖昧な目つきである。
口のなかにこもるような声だ。
あまり普段の冗談っ気が感じられない。
いきなり、どうしたのだろうか。
それほど切り出しにくい話なのだろうか?
……言いようのない冷気が、僕の背中にまとわりつくようだった。
なにか、予感のようなものが胸のうちを通り過ぎていく。女のこういう秘密めいた眼差しに、いつの世も男は無抵抗で打ち負かされてきたのではなかったか? 僕は知識が経験によって裏付けられる瞬間のあの興奮が、すぐそこまで迫ってきているのを幻視した。
「やっぱり、なんでもない」
「は?」
しかるに野分の思わせぶりな態度で、僕の心理の冒険は突如として座礁してしまった。
「いや、そういうのやめろよ。『やっぱりなんでもない』がなんでもなかった例を、僕は知らないぞ」
「別にいいでしょ」
「歯切れのよさがお前の取り柄だろ」
「しつこいわ。なんでもいいでしょ」
「……なんだよ」
僕は自棄になって、トーストに齧りつく。すっかり冷めてしまっている上に、バターのせいでふやけていて、甘くないフレンチトーストみたいだ。
「口元にパンくずついてるわ」
「誤魔化すなよ」
僕が構わず食べ続けるので、野分は前のめりになって、親指で僕の口元を拭ってくれた。その親指の押し込むような感触は、僕にはどこか、彼女の密かな仕返しであるように感じられた。仕返し? なにへの……?
考えようとして、僕は思考を放棄した。こんな些細なことでいちいち頭を悩ませていたら、気疲れしてしまう。
僕はかつて論理を愛したが、それは己の女々しい情緒的な気質から目を背けるためのカモフラージュにすぎなかった。今の僕はあんまり力みすぎて筋肉痛を起こすのを避けられるくらいには、力のほどよさということを知っている。この力と脱力の調和はエルと付き合ううちに、自然と身についたものだった。
「拗ねちゃって、子供みたい」
「あのな……」
と、言い返そうとして野分を見たのだが。
(……あれ?)
またしても、彼女に違和感を覚えた。今朝はこんなのばかりだ。もしかすると、おかしいのは僕の方なのかもしれない。
「……なに? あんまり見られると、食べづらいわ」
トーストを齧ろうとしていた野分が、その動作をキャンセルして、苦言を呈する。
確かめてみたくなった。
集中からか、緊張からか、火で炙られでもしたかのように全身が熱で犯される。
僕はあくまで言うべきではないと理解しつつも、我慢できなかった。
「野風」
野分が、怪訝な表情をする。当然だ。
「……お母さんが、どうかしたの?」
「いや、なんか」
君があの頃みたいだったから。などと。
言えるわけがない。
「わたしは野分よ」
「久しぶりに聞いたね、それ」
「そりゃね。『わたしは野分』だなんて、わざとらしくて、今思えばバカみたい。わざわざ言葉にしなくたって、わたしはわたしだもの」
カネコリサマが、どうとか。最近はもう話題にすら上がらなくなった。
確認の必要が、なくなったのだ。
「あなたのおかげよ」
「だったらいいけどな」
「相変わらず思春期ね」と、野分は目を細めてトーストを口にする。
――今日の野分は、なんだかいつもより綺麗だな。
僕は彼女が、水分高校の生徒の間では百合の花に喩えられていることを思い出していた。
「さっさと食べちゃいましょ。そろそろエルが来るわ」
「……エル? 躑躅じゃなくて?」
学校のある日は毎朝、躑躅が僕の家までやってきて一緒に登校するのが通例になっているので、そっちなら分かるのだが。
僕が不思議がっていると、ちょうど玄関のドアが開く音がした。
母さんが朝の散歩から帰ってきたのかとも思ったが、そうではない。
彼女が廊下から姿を現したとき、最初に目に入ったのは腰のあたりで揺れる、春の雲のような金髪だった。
ね、と野分は僕に目配せしてから、「おはよ、エル」と呼びかける。
「……うん。おはよう、ノワ」
僕が首を傾げているのを見かねてか、
「わたしが呼んだの」と、野分が言った。
「ふぅん」
仲の良いことだ、と思う。二人はすっかり親友である。
「エル、こっちが呼んだのにごめんなさい。すぐに朝ごはん、すませちゃうから……」
「……うん」
消え入るような返事だった。
「……エル? どうしたの?」
野分の問いかけには答えず、こちらへゆっくりと歩いてきた彼女は……
用事があるはずの野分ではなく、僕の前で立ち止まる。
主の急ブレーキに、制服のスカートが彼女の腿を優しく叩いた。
「優くん」
「なんだ?」
応答しつつ、僕はコーヒーを啜る。すっかりぬるくなっている。
小さな拳をもう片方の掌でつつむように胸の前に置いて、彼女が口を開いた。
「私のこと嫌いになったなら、言ってくれていいからね」
野分が、ぎょっとしてエルに目を向けた。
朝の挨拶もなしで、随分といきなりである。
コーヒーカップを置いて、僕は訊ねる。
「急になんだよ」
エルがわずかに肩を揺らした。
「……急じゃないよ……」
「え?」
「ぜんぜん、急じゃないよ……?」
悲哀を煮詰めたような痛々しい小声は、しかし、僕の耳元で囁かれているのではないかと思われるほど、はっきりと聞こえる。
「急じゃないのか」
「自覚なかったの……?」
「どうだろう」
宙を彷徨う僕の視線は、自然と野分を捉えていた。こういうとき、第三者はきまって当人たちのあいだのなにもない空間に焦点を定めて、まるでそこに問題の核心が眼に見える物質として漂っているかのごとく、その一点を深刻そうに凝視するものである。彼女もその慣例に倣っていた。お節介から口出しをしたりしないところは、近頃の彼女にある種の大人の落ち着きが備わってきたことのあらわれであり、これは美徳であろうと思う。以前の彼女ならば、どうだったか分からない。
「ねえ……。……どこ見てるの?」
「ん? ああ」
「今、私と話してるんだよ……。なんで、目を合わせてくれないの……?」
言われたので、僕はエルの顔に視線を向けた。
光を失った目。なぜか僕ではなく、自分を責めるようにふさぎ込んだ、意志の薄弱な沈んだ眼差しだ。
どうせこういう目つきをしていると思ったから、見なかったというのに。
「ねえ、優くん、私に飽きちゃった? 私、なにか足りなかったかな……?」
「足りなかった、とか。すでに終わったみたいな言い方はやめろよ」
「……だって……!」
だって、なんだ。僕はその先が気になる。その先こそ、僕が聞きたい言葉なのだ。
だが、かならずみんなそこで止める。その先は言いたくない、言わなくても分かるでしょ。そういう声が聞こえてくる。
分からないから、こうなっているんだよ。否、恐らくこれだろうという一応の予想は持っているのだが、僕は確信が欲しいんだ。
僕も僕で、それを直接相手に要求したらいいのだが、そうしない。
そんなことを聞こうものなら、女は怒鳴るか、泣くかして、取り返しがつかなくなるのが目に見えている。
人間関係の衝突を避けるあまり、却って取り返しのつかない事態を招いてしまうのは、自覚していながらどうしても直すことのできない僕の悪癖だった。
「私まだ優くんが好きだよ」
「ありがとう」
「多分これからもずっと好きなままだよ?」
「うん」
「私は優くんが好き」
「うん、ありがとう」
「……優くんはいつか、私のこと愛してくれる……?」
奇妙なことを聞くものだ……とは、さすがに思わなかった。
やはり、そうなのだろうか、という思いの方が強い。
「いつかもなにも、僕はきみをずっと愛してるよ」
「――――」
エルが、ゆっくりと、目を見開いていく。
そうして一歩後退る。
「…………うん……そうだよね…………」
精一杯の笑顔だったのだろう。しかし、それは微苦笑だった。
エルは踵を返して去っていく。だが玄関からは音がしない。二階に上がったのだ。野分の部屋がある。
「優……、……っ」
野分は僕の方を気遣わし気に一顧してから、すぐにエルを追いかけていった。
あっという間に、リビングには僕一人だけになってしまった。
「愛されてないように感じてたなら、もっと早く言ってほしかったよ、僕は」
詮ないことを呟いて、なんとなくコーヒーを口にする。
さっきより冷めているということもなく、同じぬるさのままである。
ふと、僕は玄関の方へ意識を向けた。物音はしない。
母さんはまだ帰っていないのだ。
このやりとりが、母さんが戻る前に終わってよかった。今のような話は聞かせたくないからな。




