34 言葉への祈り
【八月一日九】
スグルくん、エル、助けてください。
ユカリちゃんと、廊下の端っこにて座り込みを開始してから、もう幾年になりますでせうか。
ぽつりぽつりと、降り始めの雨みたいな途切れ途切れのペースで、私とユカリちゃんはお話をしています。現在進行形です。
「大変なことになっちゃったね」とか。「スグルくんたち大丈夫かな」とか。「もう少しでパンツも乾くよ」とか。「夏休みだけど部活の調子どう?」とか(この辺からすでにかなり苦しい!)。「宿はどこを取ってるの?」とか。「ここらへん田舎だから虫が多くて嫌だよね」とか。「幽霊校舎と言えど、じっとしてると流石に湿度が高くてベタベタするね」とか。……。
助けてください。このままでは話題が尽きてしまいます。
私は普段はあんなですが、本当は、本当のところは人と関わるのがとても苦手なのです。だってそうではありませんか、そうでなければ、あんな風に人の話を聞かずに一方的に捲し立てるような空気の読めないコミュニケーション方法に頼るはずがないのです。私のあれは誤魔化しなのです。なんとなくデカい声で騒いでいれば、コミュ障だとバレないだろうという卑怯な打算による擬態なのです。ペルソナなのです。私のたくさんあるペルソナ、通称ペルソナシリーズのなかでも、あれはもっとも顔を出す機会の多いおちゃらけ者なのです。
だからだから、本当は本当は、こういう空き時間の、場を繋ぐ会話というのがとってもとっても苦手なのです。
スグルくんが好きだっていうから、私も彼と話を合わせたくてエロゲとかちょっとやってみたんですけど、そのエロゲに、よくこういう一文が出てきます。
『(なんらかのイベントが終わり)その後、俺は○○○(ヒロインの名前)と、とりとめもない会話をして過ごすのだった』
なんですか? とりとめもない会話ってなんなのですか! 実際にどんな話をしているのですか、見せてください! だってですよ、本当はそこに、人と人との関係の、いちばん大切なものが詰まっているのです! ですからちゃんとそこも書いてください、さらっと一文で流さないでください、どうせライター自身もコミュ障で「とりとめもない会話」を知らないから、書けないから、こういう「逃げ」の表現を使ってその場を凌いでいるんでしょう、知ってるんですからね、私、天才なんですから!
繰り返して言いますよ、物語って、人間が出てくる以上、人と人との関係を書くものじゃないですか。なら、対人関係で、実際、何が一番重要だと思いますか?
例えば、ヒロインが主人公に惚れるというのを書く場合です。
悲劇の運命にあるヒロインを、有能主人公が颯爽と助け出したら、それが惚れることの「説得力」になりますか?
なりません!
違います!
人間同士の関係で大事なのは、なんでもない時間の、なんでもない会話。たとえば授業と授業の間の五分休み……ですらない、チャイムが鳴ってから、先生が教室に来て授業が始まるまでの十数秒、その間に隣の席の友人と交わす二言三言、授業が始まったらすぐに忘れてしまうようなくだらない、ほんとうにくだらない呟き! そういうのが! そういうのが、この社会を生きる上で、重要なのです。
ピンチな人を助けるとか、人に優しくするとか、頭がいいとか、運動ができるとか、金を持ってるとか、そんなのは全部紛い物なんです。ここの、この機微なんです。他人の生活の無意識のなかに、すっと入ってゆける技術。本人たちすら気づかずに行っているがゆえに、誰も認識せず、世界すら記憶しない行為。それによって積み重なる、ごく微細な印象。こういうのなんです。人間という意識の或る過剰は、こういう意識と意識の間において、存在と無の境界線上という「瞬間」において、他者と関係をつくっているのです。
私はこれを〈さりげなさ〉と呼んでいますが、これには説明が要されます。他人に対してこの単語を使うと、どこか「さりげない気遣い」とか「さりげない優しさ」とか、そういうなんらかの行為に付随する無意識的な、しかし絶対に能動的なあの様態を想像してしまう人が多いと思われます。けど、違います。私のいう〈さりげなさ〉は、無属性なのです。それ自体ではなにも意味がないような〈さりげなさ〉なのです。けれどもそれがなくては関係が続いてはくれないような、最重要の付属品なのです。
私がなにか難しいことを言っているように聞こえますか? それとも、当たり前すぎることを言っていると呆れていますか?
なら、あなたは、大丈夫な人なんだと思いますよ。私のこの思考が、世界の誰かしらに覗かれていると仮定した、そのあなた。あなたは、根本的に、このことを理解できない。なぜなら、あなたは既にこれができているから。あるいはできずとも生きることができるから。人間の九割ができることですから、当然ですね。
困ったことにこの〈さりげなさ〉は、それを持つ者には不必要に思われるものであり、それとは逆に、これを持たない私のような存在にとっては、もはやそれが関係の核どころか、関係のすべてであると感じてしまうようなものなのです。
最近思うのですが、『言葉』というのは上手いことできています。『言葉』が万人に開かれているというのは無思慮な人々による誤解です。それを必要とする者にとってのみ意味作用でありうるもの、それが『言葉』なのです。そしてだから、反対に、それが不必要な人には、絶対に理解できないようになっている。理解する必要のない人には、私のこの『言葉』も、まるで無価値に感じられる。なぜなら、不必要なものには、価値を感じる必要がそもそもないからです。
私は違うんですよ。これが必要なんです、なのに理解が追いつかないのです。記号という情報読解のための表象としての理解にとどまっているのです、それではだめなのです。
私が考えるに、スグルくんは、この〈さりげなさ〉のバケモノです。〈顔〉のことはそれとして、この〈さりげなさ〉、これの方もちょっとおかしいレベルで極まっている。それはきっとレンゲちゃんすら気づいていない。あの子は賢いけど、美に憑かれているから。
まとめると、私には、〈関係〉のセンスがない。それを「会話」と括ってしまうのはあまりに無遠慮だ。相槌の自然さ、発言の間の取り方、発話の際の視線、身振り手振り、声の高低、会話の頻度、雰囲気を察する能力、メタ・メッセージを読み過ぎない鈍感さ、歩行の際の距離感、(きわめて現実的な意味における)存在感の操作、そういう、関係のセンスが壊滅的なんです、私。そのあらゆる根源であり、あらゆる関係を繋ぎとめる金具、すなわち〈さりげなさ〉が私には欠落しているのです。
だから多分、こういう多重人格的な振る舞いという仕方でしか、生きていけないんだと思います。
本当は、誰かに縛ってほしい。変わりたいから。逃げ出さないように、首根っこ掴んで押さえつけておいてほしい。それで、無理やり私の弱さと向き合うように躾けてほしい。じゃないともう無理なんです、私が私だけでこれ以上変わるってこと、できないんです。
今、私が何の話をしているか覚えていますか?
ユカリちゃんと話すにあたって、話題がないって話をしてます。
こういう考え方しかできないんです、私は。
「……あの、ユカリちゃん」
「……はい、なんですか、八月一日先輩」
「芝蘭堂くんのこと、好きなの?」
「へっ?」
「はい、私、いきなり何を聞いてるんですか」
「????」
消えたい。
さらさらと砂時計みたいに会話が流れていく。取り返しがつかない、という表現はおかしい。そもそも人生はすべて一回的だ。取り返しがつくことなんてない。
いやね、一応言い分はあるのですよ。
だってさ、分かるでしょ。
コイバナって、便利すぎです。
その話しとけば、会話してる感じが出ます。
ただ、普通、触れづらい。だから、今まで触れなかった。
それなのに!
私っていつも見切り発車なんですよね。
なんかなあ。なんでか自分でもよく分からないんですけど、さっきから、かなり虚無なんですよね、気持ち。
いつもみたいに騒いで踊ってうやむやにする気も起きない。
なんでかな、なんでかなあ。
や。まあ、ズミちゃん天才だから、考えたら分かるけどね。
ユカリちゃんが私と似てるから。
目の前に、私みたいな子がいるから。わざわざそんな子の前でまで、普段の醜態を晒そうとは流石に思えない。そんなところ。
「え、へ、好き? ユカリが……アキラくんを……」
「ユカリちゃん、女の子が話題に困ったら、どうする? そうですよ、恋バナです」
「えぇ……」
あぁあ、引かれちゃってますね。突然なにを言い出したんだろうって、この人は「普通」ができない人なんだ、ちょっと距離を置こうって、思われてますね。
ほら、「あはは……」って笑ってます。愛想たっぷりの笑いを見せてくれてます。心が痛い。本当に痛い!
あー、ヤバいな。どうしたらいいですか。なんか気まずくて、これ以上口を開けません。私の次の言葉が、更に空気を重くしたらどうしましょう。いえ、それよりも、次の次というのを考えるとそれがいちばん恐ろしい。今ここに訪れている沈黙は、私がなんらかのアクションを取ることで去るでしょう。しかしその次は? 次で私の弾は切れます。本当にでくの坊になってしまいます。今はまだ策らしい策があるから耐えられる。けれども、次の次! その時、私は無策で彼女との沈黙の空間に居合わせなければならない。それがいちばん恐ろしい……。
時間、過ぎてくれないかな。
もう全部全部、終わってくれないかな。
早く日が昇って、すべてが過去になって、会話とか、関係とか、しなくてよくならないかな。
消えたいなあ。死にたいわけじゃないよ。ただ、今この間だけ、旧校舎の暗闇が、私という器を満たして、私という存在の居場所をすべて奪い去ってくれないかなあ。そうすれば。私はいないことになれるのになあ。
私はいつもこんなことばかり考えながら生きています。ダメすぎですね。
「好き、ですよ」
「え?」
「だから、その……ユカリは! アキラくんのこと、好きです。異性として」
なんと! ユカリちゃんは外見だけでなく中身まで天使でした。
私のこんな行き当たりばったりの質問にも真摯に答えてくれるだなんて、なんと優しい子なのでしょうか。他者に対する向き合い方の真剣度が、私などとは比べるべくもありません。
「はい! ユカリは言いましたよ! こっちだけだと不公平です、八月一日先輩!」
「なんだい」
「更科先輩のこと好きなんですよね?」
「ん??」
「え、あれ? そうですよね……?」
いきなり何を言い出すのかと思えば!
「おかしいなー、困ったなー、どうしてバレたのかなー?」
「と、言いますか……更科先輩の女友達に彼が好きですかと聞くのは、『空って青いですよね』くらいの前提知識の確認みたいなものだと、ユカリは思ってましたよ……?」
いや、まあ。
それは一理、あります。
だって、そうだよ。
――惚れない方が、おかしいんですから。
「でも、ユカリちゃんはスグルくんじゃなくて芝蘭堂くんが好きなんだよね?」
スグルくんの女友達……とはいかないまでも、ユカリちゃんだって、彼の学校の後輩かつ、彼女の友達という強い結びつきを持っています。
なのに、惚れていない。スグルくんじゃなくて、芝蘭堂くんが好き。
これはけっこうおかしなことです! 私は前々から気になっていましたよ。
「それなんですけど……多分、ユカリ、先輩に少し避けられている、と言いますか。惚れさせないように……距離を、置いてくれてる?」
「ほー?」
それは、気づきませんでした。この天性の才をもってしても。
スグルくん、そういうところ本当に巧妙ですからね。きっと、本人もそれほど意識しての行動ではないんじゃないでしょうか。
でも、それならやっぱりスグルくんは《美少女》だけが好きなんだなあ。
《美少女》のことはよく見ているもんね。
「これは誇張とかではないと前置きして言いますけど……ユカリ、更科先輩と目が合ったことないんです。どころか、先輩は多分、ユカリを直視したことが一度もありません。出会ってから今日まで、たったの一度も」
ふーむ、ふーむ。私は頷く。得心する。実際に身振りとして頷く。
――スグルくん、臆病だなあ。
違うか。
――それだけ慎重にならないと、生きていけないのか。
《更科優》だから。
そうやって、女を惚れさせないように、常日頃から細心の注意を払ってないと、まともな人生も送れないんだ。あの人は。
「あ、いえ、そうじゃないですよ」
ユカリちゃんの物柔らかな素振りに、私は違和感を覚える。
今のユカリちゃんは普段とちょっと違います。
いつもより、ローテンション? ちょっと物静かすぎだね。
これが素なのかな? 普段の“作ってる”度合が高いの、ちょっと私と似ているのやも?
「それで、八月一日先輩」
「なんじゃいな」
「絶妙に話題逸らされましたけど、まだ答えてもらってませんよ」
「なにを?」
「更科先輩が好きなんですか?」
「うへー」
「どうなんですか?」
「どうなんでしょう? というか、そんなに気になりますのん? あんたにとっては私の恋路なんて、ホントはどうでもいいのよさ!」
あ、あ、あ、あ、あ。
気づけばまたいつものいい加減な私で対応してしまっている。
このキャラ、本当に寒いからやめたいです。
自分でやっていて、自分が嫌いになる。
面白くもないノリを、擦り続ける。
上滑りしたパロディで塗り固める。
自己防衛のための自傷行為。
すべて分かっているのだ。
でも、やめられない。
どうしても、こんな風になってしまう。
こんなのに頼ってしまう。
こういうところが、よくない。
真剣に、向き合おうとしない。
逃げてしまう。
他者から。
目の前の人間から。
会話から。
対話から。
言葉から。
逃げて。
隠れて。
自分を隠して。
やりすごそうとする。
頭を抱えてその場にうずくまるみたいに。
消えようとする。
自分を消そうとする。
相手に「八月一日九」を気取られないように。
いなくなろうとする。
そうすれば、とりあえず今は楽だから。
後のことなんか知らない。でも。
逃げれば、隠れれば、今は、楽だから。
だから……。
「うん」
時には、本性っぽいペルソナまで用意して、それでスグルくんまで騙して。
オドオド系陰キャ……それが私の素だと思わせることで、スグルくんの眼差しからも逃げて。
隠れてきたけど!
「私、スグルくんが大好きですよ」
目の前にいるのは、自分と似てるような気もする女の子。
まだいくらか、話しやすい。
本当の私……そんなものが、あるならどんなに良かったか分からない。
自分探し、なんて古い言葉がありますけど。私たちはそれで、うんと悩んでいるわけですけど。
結局のところ、これであると指し示すことのできる自分なんて、あるわけがなくて。
迷ってもいいから、苦しんでもいいから。
それでもなにかを選択するということでしか、自分は見えてこないのです。
あ、断っておきますが、他人の話はしていないのです。
これは、私の話、私の言葉。
選択するという方法は、私だけの問題です。
私は今、少しだけ選択します。
低いハードルを越えました。
「言葉は……言葉は傷つきやすくて……文章にはすぐ、ヒビが入ります。人間は、壊れものだから……脆くて。でも、でも、世界は、どこまでも、強固、だから……脆い私は、強固な世界に晒されて、いつも不安でいっぱいになります」
さて、私は何を言っているのでしょう?
自分でも分からない。
というよりかは、今、私の頭は真っ白です。
だから、絞り出ているのは、極限の言葉。
なんの極限? ――魂の、ではないでしょうか。
世界に対して、私というものの魂が、極限にまで近づいた、そこから誕生する言葉。
私はずっと、物語られたくなかったのです。
私の関心ごとは一貫して、物語られないこと、主題化されないこと、見られないこと、存在ではないかもしれないことというこれらなのです。
これらがために、私は八月一日九の仮面を形成しました。
なぜ私はこれらを恐れるのか? それは、物語られた八月一日九という人間は、言葉によって過去のものとなってしまうからなのです。
過去となった、言葉となった私はもはや私ではないのです。
物語られる私は、それによって人間存在の要件である「現在」を喪失した贋物なのです。
端的に、物語化は、現在の捨象なのです。
私は、現在を抱き留めていたかったので。
曖昧な、私の廃位による、現在へのしがみつき。
そういう仕方でしか、ここにあることは、できないと思っていました。
でも……そうじゃないのかもしれません。
私はそれに賭けてみる。
だからこそ、今、ここに、私を刻むということをしてみるのです。
世界――言葉――私です。
「でも、でも、それでも……! 私は、あたしは、わたしは――私は! 壊れものとしての人間、として! その不安を、否定してはだめなんです! むしろこの不安定から、出発するんです! 私は不安を抱きしめながら、歩かなければならないん、です……。それで、きっときっと、たくさん歩いた先で、何かに、何かに触れなければならない……! 今は……不安から出発して触れるその何かが、スグルくんだったら、いいなって……すごく、いいなって、私、思います……!」
「えっと……ごめんなさい……ユカリ、バカだからよく分からないです」
大丈夫ですよ、ユカリちゃん。
私だって、自分が何を言っているか、まだよく分かっていないのです。
「つまり?」
「私は、八月一日九は、スグルくんが好きなんです」
――そして、それを今、ここで言葉にできたということ。
それだけ理解してくれたら、もう私は嬉しくて泣いてしまうと思うのです。
彼女のセカイで、なにが起こっているのか。




