30 格
【芝蘭堂陽】
スグルが、あの幽霊女を連れて教室に入ってから、30分……下手すると一時間か?
ともかく、二人が教室のドアを開けて出てきたのは、そこそこの時間が経ってからのことだった。
「ヨウ、お待たせ。なんともなかった?」
そのイケメンは、なんでもなさそうな顔でオレにそんな言葉を寄越す。
「お、おぉ……そっちこそ……」
などと、心配するのも馬鹿らしい。
スグルの横にいる、この幽霊女を……一目見ただけで、何が起こったかはおおかた察せられる。
『スグル……』
指と指を絡ませた恋人つなぎで、上目遣いでスグルにべっとりと身体を寄せる、幽霊女。
「菊子、この男は僕の親友だ。手を出すんじゃないぞ」
『……はい……』
「ズミや狭衣も無事なんだよな? もうこれ以上、彼女たちに危害を加えるなよ」
『……はい、全部あなたの言う通りにするわ、スグル……』
あの『ひたひた』足音を鳴らしてた怪異が、この有様だ。
ぐっと肩を抱かれ、完全に女の顔でスグルを見上げるそいつからは……もはや、先刻に覚えたような脅威は、微塵も感じられない。
流石、世界一のイケメン様はスケールが違う。
幽霊である前に、女ってか。
いまやあの女は、スグルの言いなりだ。オレはああなった女を、高校だけでも何人も見てきた。
一年の初めには、オレらの学年にもいたんだぜ、奇跡の美少女だの、高嶺の花だの言われてた女が数人。だが、三日と持たずスグルに堕とされた。本人は彼女たちの顔すら覚えてねえんだろうが。
そんななかで唯一、源さんだけは靡かなかった――と噂されてたんだがな……。真相はあんなだ。
ともかくだ。スグルに目を付けられ、ああなったら、お終いだ。もう二度と戻ってこられはしない。その心は、一生スグルに囚われたまま。親友ながら、末恐ろしいヤツだ。
「菊子。まず、僕たちが置かれている状況を説明しろ。分かってるな、すべて包み隠さずだ」
『はい……』
そうして、恍惚とした表情で、どこまでも従順な女に成り下がった彼女は、《累ヶ淵》という怪異についての話を始めた――
☽
【不知森野分】
「ぜぇ……はぁ…………はぁ……」
「もっ……もう……追って、来て、ない……かな……?」
ツツジの偽物と、顔が崩れて力が出ないアンパンマンみたいな少女から、やっとの思いで逃れたわたしたちは……
恐らく、二階と三階を繋ぐ階段の踊り場で、一旦立ち止まった。
心臓がバクバクと拍動して、体の震えが止まらない。
なに? あれはなに?
まさか、本物の幽霊?
「…………」
「わわっ、ノワキ……くっつかないでってば……」
わたしはエーデルワイスの胸のなかで大きく深呼吸をする。
汗の臭いに混じって、なんだか柑橘系のいい香りがする。
ムカついたので、ぎゅっぎゅ。
「いたたたたっ……ちょっ、やめてよノワキ!」
どんっ。
エーデルワイスに突き飛ばされる。
「今ちょうど張ってるんだから、あんまり強く揉まないでよ」
「だから一昨日あんなびゅーびゅー中に出させてたの……よくやるわね……」
「だって仕方ないじゃん、優くん中に出すときじゃないと本気で好きって言ってくれないし……………………………………は?
なんでノワキが一昨日のこと知ってんの? え、隠れて見てたの……?」
「み、見てないわよ。あなたが渚で放尿させられてたところなんて、ぜんぜん知らないわ」
「なんで見てたの!? え、そういう性癖……? 疑似NTR?」
「違うわよ! だいたい、あんなところでいきなりおっぱじめるあなたたちが悪いんでしょ。盛りのついた雌猫みたいに……下品だわ」
「自分だって似たようなものじゃん。最近、優くんのベッドによく銀の髪の毛が落ちてるの、なんか見つけるたびにイラっとするんだけど?」
「心が狭いのね。ハーレム容認してるとか言いながら、だいぶ無理してるんじゃないかしら」
「…………」
ピキ……とエーデルワイスが青筋を立てる光景が目に浮かぶようだった。ざまあないわ。
「……ノワキさ、さっきの言い草だと、優くんに中出し許してあげたことないんだ?」
「え……当たり前でしょ。わたしたち、まだ学生なんだから、ちゃんとゴムはつけないと……」
「えぇ、外に出すどころかゴムありなの? へぇ、そうなんだ~、優くんかわいそ~」
「は、はあ?」
「というか、一回も彼氏に生ハメされたことないのに彼女名乗ってたの? それもう、付き合ってるって言えなくない?」
「そ、そんなこと……」
こんなことでまでマウントを取ってくるエーデルワイスに、さすがに呆れ果ててしまう。
平気、平気……イラつく必要はない。正しいのは絶対にわたしの方だもの。
そう、わたしが正しい……
(でも……)
正しいだけで、スグルが振り向いてくれるとは限らないのも、また事実。
考えてみれば――生ハメ中出しさせてくれる彼女(巨乳)と、させてくれない彼女(貧乳)。
そんなの、勝てっこない。
どちらをより好きになるかなんて、明白だ。
「なんちゃって。さすがにそこまで幼稚じゃないんだよ、私。ちょっと苛立ったはずみの言葉だから、ごめんね……、……ノワキ?」
そうよ。ただでさえわたし、二番目なのに。
それなのに、エーデルワイスがしてあげてたことを、わたしはしてあげないなんて……それこそありえないでしょ。
「ノワキ? 黙り込んじゃってどうしちゃったの? 不知森さ~ん? もしかして、私の煽りを本気にしちゃった……? いやね、あのね、いくら私でも無責任膣内射精させてることを誇ったりはしないからね? そんなので誇るようになったら、人として終わりだからね?」
無責任膣内射精。
スグルにもっと夢中になってもらうには、わたしも、わたしだって……。
「おい? おーい? 聞こえてる? 聞いてんのか、B29?」
「誰のバストサイズが戦略爆撃機よ」
「あ、よかった。意識あった」
「大丈夫よ、ちょっとスグルに孕ませられる覚悟を決めてただけだから」
「キマッてるのは精神状態だよ……」
なぜかエーデルワイスが同情的な目を向けてきた。
なにからなにまで失礼な女で――、
「――」
わたしはエーデルワイスを全力で突き飛ばす。
「きゃっ!?」
彼女はごろごろときりもみ回転で床を転がり……壁に強く体を打ちつけて止まった。
いい気味だわ。
「はぁ!? ノワキ! 意味わかんないんだけ――……ど…………」
わたしの突然の暴力を糾弾するはずだったエーデルワイスの言葉が、途切れる。
「…………え…………ノワキ……」
よろよろと、頼りない動作で立ち上がる彼女は、わたしの方を見て愕然とした表情を浮かべる。
「……そ、それ……大丈夫、なの……?」
ぽた、ぽた。
腐りかけの木板の床に、赤黒い血が垂れる。
ぽた、ぽた、と。
その出どころは、わたし。
……ツツジに扮した少女の腕が、わたしの腹を貫通していた。
その血は、彼女の貫くわたしの腹部から、零れ出ているもの。
――なんとなく、勘のようなもの。
どうしてか、彼女たちの気配が分かった。
「……ふふ……これが、大丈夫に見える、かしら……?」
いえ……どうしてか、じゃないわね。
だって、わたしはつらら女。
この身の半分には、恐ろしい妖の血が流れている。
その自覚がなかったから、今まで見えなかったし、分からなかったけど……
さっきの彼女たちとの邂逅で、魂の奥底に眠っていたものが目覚めた感覚がある。
――大丈夫、目の前の怪異は、もはや怪異ではない。
――視えもし、触われもする、ただの少女たちだ。
どうやら先に無力なエーデルワイスの方から始末しようとしたみたいだけど、全力でその場から突き飛ばしたので間一髪間に合ったらしい。彼女は無事。
わたしは自分の腹部を貫く彼女の腕を、両手で掴む。
『――っ、触るな!』
そのまま全身を凍らせてやろうと思ったけれど、そう上手くはいかない。
ツツジの姿をした彼女は、わたしのお腹から腕を引き抜く。
「お゛ぐっ――」
ぼたぼたぼたぼたぼた、と腹部から滝のように血を流し、辺りを昏い紅色で染め上げてしまう。
物凄い勢いで上がってきた体内の衝動が、口からも血を吐かせてしまった。
「かはっ……ごほ……ごっ……お……」
この身が溶けてしまいそうな熱さと激痛で、瞬間的に全身から力が抜け、その場に膝をついてしまう。
もう、なにやってるのかしら、わたし。
「ノワキ……!?」
こんな姿見せたら、彼女が心配するのに。
あいつに心配されるのなんて、気持ち悪いだけだもの。
ただでさえ対等ですらない関係に、明確に上下が生まれるなんて、考えたくもない。
「安心しなさい、エーデルワイス」
だから、わたしは彼女に心配をかけたくない。
「あなたを守るくらいの力は、どうやらあるみたいだから」
――パキ――パキパキパキ――
わたしは自らの魂に呼びかけ、その銀色の力を行使する。
粉雪のように周囲を漂うのは、白銀の粒子。カネコリサマの魔力。
わたしは意識を集中させる。
すると、ピキ、パキパキ――ひんやりと心地よい氷が、腹部にぽっかりと開いた穴を端から塞いでいく。
凍てつく氷の魔力が、十秒もしないうちに腹部を覆い尽くす。血も止まった。痛みはまだ少し残ってるけど、これくらい我慢できる。
「…………」
エーデルワイスが、困ったような顔で固まっている。
その顔を引き出せただけで、わたしにはもう十分だった。
『きみ……ただの人間じゃないよね? さっきまではなんの力も感じなかったのに、ヘンなの』
『オ姉チゃンも、僕タチと同ジ……?』
ツツジの姿のまま、口調だけ別のものになった少女と、カタコトの少女。
二人とも、わたしの力に驚いてるみたい。
「同じ? そんなわけないわ」
わたしの息吹は吹雪となって、廊下をびゅうびゅう震わせる。
嗚呼、心地いい。気持ちいい。この雪と氷を、わたしは全身で受け止める。体の隅々にまでエネルギーが漲るようだ。
ここはわたしのセカイ。カネコリサマのセカイ。ここでなら、なんでもできる。
「わたしはカネコリサマ、そして――……ノワキ……」
――――カキンッ。
呟けば、瞬きのうちに、氷のセカイ。
――《金氷》――
血まみれの床も、シミだらけの壁も、少女たちも――……わたしの両足から伸びた氷床が、すべてを覆い凍てつかせる。
「わたしたちは、数百年の時と想いを受け継ぐ雪の妖――……あなたたちみたいな木っ端妖怪とは、格が違うもの」
氷のなかに閉ざされたツツジが、わたしをギロリと睨んでいた――




