26 ひたひた
【白恋】
ツツジに、旧校舎の3-6でお札を持って待機していろと言われたので、その通りにしているのですが。
いつまで経っても、誰も来ません。
これはどういうことなのでしょうか。
もしや、これがいわゆる“いじめ”なのでしょうか?
私は、ハブられてしまったのでしょうか?
今頃、おにーちゃんたちは、旅館の一室で集まって、楽しくトランプでもして遊んでいるのでしょうか?
私は、騙されて、こんな腐りかけの木造校舎の一室に置いてけぼりにされてしまったのでしょうか?
今頃、みんなで私のことを笑っているのでしょうか? あいつ、神のくせに、人間様にすり寄ってくるのが前から鬱陶しかったんだよな、ちょっとは痛い目を見ないと分かんねえんだよ、ああいう手合いは、などと、神様差別をされているのでしょうか?
ぐすん。
『……おにーちゃん』
――俯きかけていた顔を、上げます。
『そんなわけがないのです、なぜなら、おにーちゃんが私にそんな非道な真似をするはずがないからです。おにーちゃんは私を大好きなのですから、むしろ私がこんなところに一人でいたら、真っ先にやってきて私の冷えた体を心配してくれるはずなのです、大丈夫か、風邪ひくぞ、お前は身体が弱いんだからあまり外に出るな、と……』
こんな独り言は空しいだけです。
『しかし』
本当に、どうしたのでしょうか。
私は試しに、神通力の及ぶ範囲を広げ、校舎内の魔力を探知してみます――
『誰もいません』
校舎内に魔力の反応はありませんでした。魔力、すなわち御魂は、この世に生きるものならば誰でも有しているはずのものです。校舎内の魔力がゼロということは、この校舎に、みんなはおろか、ネズミ一匹存在しないということでした。
それは妙なことでしょう。このような廃校舎に、野良の動物や虫の一匹も住んでいないなど、ありえないことです。
なにか、生物の嫌う電波でも出ているのでしょうか。
『電波』
私は一つの仮説を元に、周囲をぐるりと見渡してみました。
『いやな。まあほんのちょっとしたことなんだが。……この近くに、悪霊が棲み着いてるで有名な心霊スポットがあるだろ?』
『ええ、なんでも、夜の廃校舎に女の霊が出て、肝試しに来たバカな陽キャたちを祟り殺すのだとか……それがどうかしましたの?』
『あそこ、“本物”だぞ。昨日、近くを通りかかった時に感じた。マジで“いる”』
…………あ。
『もしや、その校舎とはここのことではないのでしょうか?』
と、私が思考をまとめかけた、そのときです。
「スグルーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!! 聞こえてるんだわーーーーーーーーーーーーーーーー!?」
外から、喧しくも愛らしい少女の声が響きます。
ツツジのものです。やはり、彼女らの方でもなんらかのトラブルが起きていたようです。
私は身体を浮かせ、三階廊下の割れた窓から外に出ます。
そうして、校舎の前で佇んでいるツツジとさざれの元に降ります。
『何が起きたのですか』
「シラガミ様! 出てきちゃだめなんだわ! お札を渡す人がいなくなっちゃう!」
ツツジは私を認識するなり、そう言いました。
『校舎内には誰もいません。魔力を探りましたが、人間どころか、あの校舎には生物が存在していませんでした』
「御魂の反応がなかったってことですの……!?」
『そういうことです』
「よく分からないけど、シラガミ様! 校舎の扉、急に閉まって開かなくなったんだわ! みんなが閉じ込められちゃった!」
言われて、私は魔力を込めた神眼で、その扉を注視します。
『特に魔力反応はありません。かといって、鍵がかかっているわけでもないようです。どうやら物理法則ではない力によって閉じられているようです』
「魔術じゃないってことですの!? それって……」
『さざれ。――この場所は《累》です。この校舎の影は、世界から、わずかに位相がズレています』
「…………!!」
この世界は、魔力によってたもたれています。人も、物も、時も空間も、万物は魔力であり、魔力によって回りまわるのが、世界です。
――そして、その世界の理を外側から囲繞するような理外の力が、二つほど存在します。
一つは、この私がまさにそうであるような、神の操る《神通力》です。神にも御魂があり、それが魔力の塊であることには違いないのですが、人間のそれと比べて、神の操る魔力の総量は桁外れなのです。その結果、ただの魔力のはずだったものが、魔力ではありえないような現象を引き起こす……それが我々《神》であり、神の操る《神通力》です。
もう一つが――《霊力》。
人でも、神でもない、第三の存在。否、それは存在ではなく、存在の影のような形で、かろうじてこの世界のふちに朧気に現れる、なにものか。
――《妖》。存在するとは別の仕方で、この世界に影を落とし、私たちに不安と恐怖だけを残していく――……
《累》とは、そんな妖の持つ霊力が、魔力で構成された現実の世界に重なり合うように憑依することで現れる、世界の淵のようなものです。ゆえに《累》は、《累ヶ淵》とも呼ばれます。
先程私は電波と言いましたが、あれは当たらずも遠からず、校舎内に生物の反応がなかったのは、《累》の発する霊的磁場を、鳥獣虫魚が本能的に避けていたことによるものだったのでした。
「話が難しくてよく分からないんだわ、要するにどういうことなんだわ!?」
「どうすることもできないということですわ」
さざれが苦い表情を浮かべて言います。
霊力は、魔力とも神通力とも異なる、この世のものではあらぬ力。あるものはあり、あらぬものはあらぬこの世において唯一、あらぬものがある、という現象の象徴なのです。しかしそれは、破綻です。ようするに、霊力は、破綻しているのです、不完全なのです。ゆえに、完全な世界の我々は、不完全な彼らを理解することができず、無限の無理解につねに阻まれるため、手出しすることができないのでした。
「ほんとうに? なにか方法があるはずだわ」
霊力の存在――正確には、存在ではないのですが――を知らされたツツジは、折れるどころかやる気十分、むしろ異変の正体が分かったのだから重畳といった様子で張り切っています。
「……あなたには敵いませんわ、ツツジさん」
腰に手を当てるさざれは、どこか感心するように呟くのでした。
私としても、このままおにーちゃんを放っておくわけにはいきません。
☽
【芝蘭堂陽】
なにかがおかしい。
といっても、八月がエンドレスするほどの違和じゃねえ。だが、さっきからなんとなく、この場所は変だった。
「あの、アキラくん……」
「……ああ」
オレの手を握るユカリの力が、ぎゅっと強まった。
こいつの言いたいことは分かる。
――さっきから、同じ場所を回っている。
もう15分は廊下を歩いてるってのに、一向に壁が見えて来ねえ。階段もなければ、終わりもない。永遠に続く牢獄のような回廊だ。
外から見たときゃあ、こんな大迷宮みたいな規模はしてなかったはずだがな。せめて階段の一つでも顔を出してくれたら、進んでる感が得られるんだが。
オレたちは未だ一階を彷徨い続けている。あまりに代わり映えしないんで、そこそこのペースで進んでいるんだが、先発ともぶつからねえ。後発の気配もない。
進むも暗闇、退くも暗闇の漆黒世界。もし一人だったら、とっくに自分の存在すらこの闇のなかに溶け込んで、芝蘭堂陽を見失っていたかもわからねえ。
……このまま進んでいても、ユカリの足に疲労が溜まるだけだ。
「ユカリ」
「はい」
「戻るぜ」
「……はい」
ユカリは、気味が悪いくらいに従順だった。
こんな意味の分からない状況だってのに、泣き言一つ漏らさず、オレについてきてくれる。
こいつの、この存在が、オレを前に進ませる。ユカリの、その信頼が、オレに立ち止まることを許さない。
こんなにも嬉しいことはない。好きな女に見栄を張る、それが男の最も幸せな瞬間だ。そうした機会を与えてくれる女に愛された男こそ、幸せなのだ。
オレとユカリは強く手を繋いだまま、小走りで来た道を戻る。
「………………」
とはいえ一本道だ、迷うわけがない。
「………………」
行きの序盤でちんたらしてたのを加味しても、10分……
「………………」
それだけありゃあ、昇降口まで戻れるはずだ。
「………………」
そう信じて、それを頼みに、オレたちは歩き続ける――
「………………」
――………………、…………
「………………?」
――…………、……、…………
「………………あの、アキラくん」
オレたちは、歩みを止めない――
「…………ああ」
はずだったんだが。
――…………ひ…………
――…………ひた、…………
――…………ひた、ひた…………ひた……
……と。
先の見えない、暗闇の向こうから。
――……ひた、ひた、ひた……
……と。
オレ達の、進行方向から。
――ひた、ひた、ひた……
――……ひた、ひた……ひた、ひた、ひた……!
……と。
素足を、一足一足、床に擦りつけるような……不気味な足音が、こちらに向かって、近づいてきてやがる。
オレたちは、やむを得ず、足を止める。
この音の正体がなにか分からない以上、このまま進むのは危険だ。
八月一日あたりがいたずらでやりそうなことではあるが、確証はない。
己の浅慮が原因で、万一のことがあったら、オレはどんなに後悔するか分からない。
「隠れるぞ、ユカリ」
「はい、アキラくん」
お互いの顔の輪郭がぼんやりと見える距離まで近づいて、言葉を交わす。
「オレの顔が見えるか、ユカリ」
「見えます。ユカリがいつも見ている、アキラくんの顔です」
オレの顔に手を伸ばして、言い切ってくれる。頬が熱くなってるの、バレちまったかな。
なんとなく、暗闇の向こう側で、ユカリが微笑んでくれたような気がした。
ホラーでありがちな、知らないうちに相方が幽霊に成り替わってる、なんてこともなさそうだ。
ならいい。この手は絶対に離すわけにはいかないのだ。気づいたら幽霊の手を握ってました、なぞ死んでも御免だね。
「あの音から、少し離れる」
「分かりました」
オレはユカリと共に、数十メートルほど後退する。
こちらへ近寄る音が幾分か遠ざかったのを確認してから、オレたちはすぐ傍の教室へと入る。
そうして――……
少し考えてから、古くなってガタがきている机の後ろに身を潜めることにした。
これがもし昼間なら、バレバレだろう。机一つで、高校生二人の体を隠せるわけがない。廊下からいくらでも見放題だ。
だが今は、草木も眠る丑三つ時。この常闇が、オレらの姿を隠してくれる。これで十分なのだ。
むしろ、下手に教卓やロッカーのなかに隠れようものなら、もし見つかった時、身動きが取れなくて詰む可能性がある。
視認性が悪いのも問題だ。あちら側が一方的にオレたちを探せるというのは、いい気分じゃねえ。
ここならば、最悪見つかっても、ユカリ一人を逃がす時間くらいは稼げるだろう。
そんなことを考えての、この選択だ。
「…………」
オレとユカリは、机を背もたれにして並んでしゃがみ込む。
つないだ手から、ユカリの緊迫した状態が伝わってくる。
かくいうオレも、情けないことに、さっきから心臓がバクバク鳴りっぱなしだ。
「暗くなるが、声出すなよ」
「……はい」
オレは懐中電灯の明かりを消す。世界が闇に包まれる。
「……っ……」
そして、大切な彼女を見失わないように、懐へ引き寄せる。
ユカリの肩を抱いて、なるべく一つになるように努める。
ユカリのやわらかな肩の、とても小さいのが、よく分かる。
懐にすっぽりと収まった彼女の肩幅は、オレの体の半分もなさそうだった。
普段、こんなちっこい体で元気にはしゃいでいるのかと思うと、思わず顔が綻んでしまいそうだ。
恥ずかしがってる場合じゃねえ――……なんてことは、言えそうもない。どれだけ危険な状況下だろうが、惚れた女の傍に寄って、平気なわけがない。あの憎たらしい男なら、こんなとき、涼しい顔して頬にキスの一つでもするんだろうが。生憎こちとら童貞なもんでね。抱きしめるので精一杯だぜ。
――ひた、ひた、ひた……
そんな余裕も、例の不気味な足音が接近してきたことで、霧消する。
――…………ひた、ひた…………ひた、ひた……
オレたちは、ただ身を縮めて、二つのものが一つになろうとするように、その場でじっとしている。
――……ひた、ひた、ひた……ひた……
だんだんと、音が近づいてきて。
――ひた、ひたひた……ひた、ひた、ひた……
どんどん、オレたちの教室に迫ってきて――
――……ひたひたひた、ひたひた……ひたひた……ひた……
そして。
――……ひた……
……ひた……
ひた
ひた
ひた
………………ひた……
……………………………………。
ようやく、ようやくの無音が、訪れた。
「…………」
「…………」
オレとユカリは、なんとなくの感覚で顔を見合わせる。
やり過ごした、か?
――………………。
――………………。
音は……しない。
「…………」
「…………」
まるで、何ごともなかったみたいに、静寂が教室を支配している。
「……ユカリ」
「……はい」
小声で合図をして、ゆっくりゆっくりと、立ち上がる。
「……ふぅ」
肩の力が抜け、静かに息を吐く。
どうやら、窮地は乗り越えたらしい。
だが、まだ油断は禁物だ。この場所から出て、誰か尋常の存在と合流するまで、安心することはできない。
「……寿命が十年くらい縮んだ気がします」
「……女の方が長生きだって言うからな、ちょうどいいんじゃねえの」
「……もしかしてアキラくん、余裕ですか?」
「……見ろ、武者震いが止まらねえ」
腕を上げて見せると、ユカリはくすりと笑ってくれた。
――そして、脱力したように、ユカリが机に手をついた。
机は恐らくガタがきていて、ちょっとの重さでも壊れる寸前だった。
――ガタンッ
――ひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひた
――いた。




