一人で地元の夏祭りに行ったら、知らない美少女に声をかけられた。
今年の春大学一年生になった長瀬壮真は、夏休みに暇を持て余して実家に帰省していた。
そんな彼は、朝のランニングの習慣を欠かさず行っていた。海沿いの道を走っていると、誰かの別荘らしき建物や釣り人たちの車をよく見かける。壮真にとっての田舎の夏というのは、そういうものだった。都会人が楽しむものは田舎人が楽しむまでもなく日常の一部になっているものだということは、よくある話だ。
それはともかく、彼は今日面白そうなものを見つけた。
「五瀧神社夏祭り・花火大会、か……」
道端の掲示板のような木の板に、そう書かれた紙が貼ってあった。
「久しぶりに中学高校の奴らにも会えるかも知れないし、行ってみるかあ」
花火大会はちょうど今日、八月十三日。なんと都合のいいことだ。
壮真は自販機で青地に白い文字の包装が特徴的なスポーツドリンクを買って飲んだ。自販機が手近なところにあったわけではなく、自販機を目的地として走ったのだった。これも、田舎ではよくある話だ。因みにコンビニはもっと希少な存在である。
海沿いの家に戻った壮真は真っ先に風呂場に駆け込んでシャワーを浴びた。居間に戻ると、既に朝食が出来ていた。
「はー、やっぱ自動で朝飯が出てくる実家は良いなあ」
「……あんたが作ってくれてもいいんだよ?」
「はいごめんなさい。ありがとうございます。感謝しております母上」
母には頭が上がらない壮真であった。
◆
「うわー、人多いなあ……」
壮真は感嘆の声を上げずにはいられなかった。それもそのはず、五瀧神社の夏祭りではこのあたりの数少ない祭りの中でも一番力を入れて行われる祭りだ。地元の家族連れや中高生はもちろん、多くはないが観光客もこの祭りは見逃さない。夕方五時頃とはいえ、既にたくさんの人が集まっていた。
「誰か知り合いいないかな。でないと一人で回ることになるぞ」
そうはいっても人が多いので誰が誰だか見分けもつかない。壮真はひとまず神社の入口の鳥居をくぐって屋台を見ながら歩くことにした。と、その時。
「あっ、そこのおにいさん!」
「ん?」
「こっちですよ、こっち」
声のする方を向くと、そこには。
「えへへ、お待たせしました」
紫を基調とした上品な浴衣を着た見目麗しい少女が立っていた。身長からして、中学生くらいだろうか。陶器のような美しく白い肌に、後ろで結ったつやのある黒髪。
壮真は思わず見惚れてしまった。
しかし、彼はふと思い直して尋ねた。
「えっと、待ち合わせ……してたっけ。俺、覚えがないんだけど……人違いじゃないかな」
すると、その少女は困ったような呆れたような、曖昧な表情を浮かべた。
「…………もう。忘れちゃったんですか? まあ、いいです。許してあげます。遅くなったのは私の方ですし」
彼女はにっこりと笑って壮真の隣に移動すると、彼の手をとって上目遣いで言った。
「早く、行きましょう。ずっと待ち侘びていたんです」
(待っていた? さっきはこの子がお待たせしましたって言ってたような……)
ちょっと頬を赤らめながら言う彼女の言葉には、有無を言わせぬ響きがあった。まだその美しさに見惚れている壮真は、半ば夢見心地のような気分で祭りの喧騒の中を進んだ。
彼女にはどこか行きたいところでもあるのか、壮真の手を引いてずんずん歩いていく。最初に彼女が立ち止まったのは、たくさんの白くてふわふわした砂糖菓子が飾られている店だった。
「あっ、綿あめですよ! 一度食べて見たかったんですよねー!」
「食べたこと、無いの?」
「実は、無いんです。人生初綿あめ、楽しみです!」
列に並びながら、その少女はずっと満面の笑みで喋っている。そんなに楽しいのかな、と思いつつも、壮真も彼女の楽しげな姿を見ているだけで幸せな気持ちになった。
「はいよ、お嬢ちゃん。気をつけて持ちな。カップルサービスで多めに巻いといたぞ!」
「あ、ありがとうございます!」
彼女は赤面しながらも、店主の言葉を否定するわけでもなく嬉しそうに綿あめの棒を受け取った。
「じゃ、そこに座っていっしょに食べましょう!」
「う、うん」
彼女は近くのベンチを指さした。壮真は言われるがままに少女の隣に腰掛ける。彼はこの謎多き少女についてもう少し探ってみようと思った。
「……今日は、一人で来たの?」
「何を言ってるんですか? 確かにここまで来たのは一人ですけど、今日はあなたとお祭りを楽しむために来たんですよっ……んむーっ」
彼女はおかしな唸り声を上げながら綿あめの糸束を口で引っ張っている。
「あの、名前を聞いても――」
「おにいさんも食べますか?」
「……じゃ、貰おうかな」
どこかはぐらかされたような気もしたが、壮真はもはや気にすまいと思った。こんなお嬢様のような見た目の子だから、いろいろあるのだろう。このくらいの子供は自由に憧れるものだ。
花火を見終わったら、家までしっかり送ろうと決めた。
「……甘いですね」
「そりゃ、砂糖だからな」
「夢の無い言い方ですね。ただの砂糖なのに、こんなにふわふわになるなんて、すごいと思いませんか?」
「ただの砂糖なのに、ね」
「あ、揚げ足とらないでくださいよ!」
「……っふふ」
「あ、笑いましたね!」
それから彼女もつられたように笑いだした。日は沈みかけていたが、彼女の笑顔はそんな薄暗さのなかでも眩しく見える程だった。ひとしきり笑ったあと、二人は次の屋台へと向かった。
「次はあれです!」
そう言って彼女が白い指をさしたのは、射的の屋台だった。
(ああいうのは大体とりにくいようになってるんだよな……底に重りがついてたりとか)
「百円で二回。五百円で十一回だよ」
店主のおじさんはそう言っておもちゃのコルク銃を見せてきた。
「面白そうですね!」
「やるのか?」
「もちろんです!」
彼女は五百円を取り出して渡し、コルク銃を受け取ると、景品のうちの一つの下の方を狙って撃った。
少し狙いがずれてしまい、コルクは景品の右端に当たって落ちた。
「むむ、案外難しいですね……」
「一回目であれはうまいと思うけどな」
「見ていてくださいね、次は絶対に当てますから!」
その言葉通り、今度はしっかりと狙いを定めて腕を固定し、引き金を引いた。
コルクは景品の上の方に当たり、その箱が少し後ろに下がった。
「むむむ……手強いです…………次こそは!」
そんなにあの景品が欲しいのかなと思い景品の箱を見てみるが、何が入っているのかは分からなかった。
彼女が放ったコルク弾は、今度は下の方に当たった。しかし、まだ後ろに倒れそうにない。
続けてニ発。一発目は大きく逸れてしまい、二発目は景品にあたったもののまだ落ちそうになかった。
「うう……無理かもしれません」
「でも、まだあと六発も残ってるぞ」
果たしてこの屋台は良心的なのか、それとも落ちるか落ちないかのギリギリで商売をしているのか。壮真はそんな俗なことばかり考えていた。
「……今度はおにいさんがやってみてください」
「そんなにあの景品が欲しいのか?」
「…………はい」
妙に真剣な表情で呟くように言う彼女に、壮真は俄然やる気が湧いてきた。
「わかった。絶対にとってやる」
コルク銃をとり、狙いを定めて撃つ。正確な射撃で少しずつ箱をずらしていくと、四発目で遂に後ろに倒れて落ちた。
「よっしゃ!」
「すごい、すごいですおにいさん! 流石です!」
彼女は壮真を手放しに褒め立てた。集中していた壮真は、柄にもなくガッツポーズをして叫んでしまったことに気付いて少し恥ずかしくなった。
「ありがとうございます。私のわがままに付き合ってもらっちゃって……」
「いいよ。俺も楽しかったし。こういうの久しぶりだったからな」
壮真はそう言ってニカッと笑うと、何を思ったのか少女の頭を優しく撫でた。数秒の間、二人の間に沈黙が流れる。
「……っごめん! つい、無意識で」
少女は真っ赤な顔で壮真を見上げると、言った。
「………あの、ちょっとこっちに来てください」
「え……うん」
往来の多い神社正面の道から外れ、少し林のようになっているところに、二人は移動した。
「あの、これを……」
少女はさきほど手に入れた景品の封を切り、丁寧に開けていく。
「髪飾り……?」
「ごめんなさい、私が欲しがったもののために」
「いいっていいって」
壮真は即座に首を振って彼女の謝罪を否定した。すると、彼女はどこか安心したような表情をした。
「優しいんですね」
そう言って微笑む彼女はとても美しく、それに、壮真は妙な懐かしさを覚えた。
「あのさ、どこかで会っ――」
「あの! よろしければこれを私の髪に付けていただきたいのですがっ!」
今度も遮られてしまった。彼女は忘れてしまったのか、と言っていたにも関わらず意図的に詮索を拒んでいるように見える。
壮真は内心気になって仕方がなかったが、嫌なら聞かないほうがいいだろうとそれ以上問うことはしなかった。
「俺、こんなのやったことないし下手だと思うけどいいの?」
「はい」
あまりに熱心な様子で頷くので、壮真はその雰囲気に流されるままに彼女の髪に白い花モチーフの髪飾りをつけた。髪飾りは祭屋台の景品とは思えないほどしっかりとした作りだった。
大学生になっても未だに女性経験が少ない壮真は内心かなり緊張しながら、彼女の柔らかい触り心地のよい髪の感触を感じていた。
「……どう、ですか?」
顔が熱くなってぼーっとしていた壮真はその言葉の意味をはっきりと理解するのに数秒かかったが、どう見えるか聞いているのだと悟り慌てて答える。
「すごく似合ってるよ。きれいだ」
本心から出た言葉だった。彼女の背丈は本当に中学生くらいに見えるのに、その髪飾りをつけた彼女には「綺麗」という言葉が最も相応しいような気がした。
「っ……ありがとうございます」
二人はそのあとも、いろいろな屋台を回って遊んだ。
「おっ、あれ壮真じゃね?」
「ほんとだ! 壮真だ! しかも彼女連れてやがる! あれ高校生か?」
「中学生にも見えるけどな」
「おいおい、なかなか攻めたことするなあ」
「おーい、壮真! デートかー?」
「ち、ちげえよ!」
高校時代の友人たちが通りかかって冷やかしていった。名前も知らない少女のことを彼女だと言われ、なんとも複雑な気持ちになる。
「そうまさん、というんですね。そうまさん、かあ……」
少女は冷やかしなどまったく気にする様子もなく、噛み締めるように彼の名前を呟いた。
花火大会の時間が近付くと、たこ焼きやら焼きそばやらを調達し、食べながら花火がよく見える場所へと向かった。
「こんなところ見られたらお父さんに叱られちゃいますね」
やはりどこかのお嬢様だったりするのだろうか。そして俺は怒られるだろうな、と彼は思った。こんな幼い女子を連れ回しているのだ。いや、連れ回されていると言うほうが正しいかもしれない。
二人が向かったのは神社の裏にある小高い丘のようになっている場所で、壮真は幼い頃よくそこで花火を見ていた。
「人が少ないし、街や祭りの灯りからも遠いからすごく見やすいんだ」
「よく知ってるんですね。来たことがあるんですか?」
「何回もな……あっ、おい! 走ると危ないぞ!」
彼女は丘へと上がる階段を駆け上がっていく。階段の途中で壮真の方を振り返ると、ふっと笑って言った。
「やっぱり、優しいんですね」
その構図。その笑顔。その声。
記憶の蓋が、ゆっくりと開かれていく。
「あー、あっちいなあー」
中学生の壮真は、夏休みの間体力づくりのために毎朝海沿いの道を走ることに決めていた。
今日も彼は同じ道を走る。早朝とはいえ太陽はもう顔を出し始めていて、焼かれる背中は段々と熱くなってくる。
そして、彼には別の目的もあった。
彼はどういうわけか何も無いところで立ち止まり、海の堤防に寄りかかって休み始めた。
すると、目の前にあるいかにも別荘らしい建物の二階の扉が開き、長い黒髪の少女が顔を出した。
「おはようございます!」
「……おはよう」
「今日も朝早くからお疲れ様です」
「ど、どうも」
そう、彼の目的はこの名前も知らない少女に会うことだった。
ランニングを続けていたある日、偶然この少女と目が合い、それからなんとなく挨拶やら他愛のない会話やらを交わすようになっていた。
その見目麗しい少女に淡い恋心を抱いていた壮真は長いこと一歩踏み出せずにいたが、その日はいつもとは違った。
「あの、明日近くの五瀧神社で夏祭りと花火大会があるんです」
「へえ、それは楽しそうですね。あなたは行くんですか?」
「っ……その、いっしょに……行きませんか。俺、あなたといっしょに花火を見たいんです」
それは、当時の壮真にとっては愛の告白と同等に重大なことだった。どもりながらも、しっかりと彼女に聞こえるように言えた。
「……ありがとうございます。嬉しいです。是非ご一緒させてください」
「あっ! 虫除けと、日焼け止めも持ってきたほうがいいと思います! 夕方とはいえ、日差しは強いので」
「……ふふっ、優しいんですね」
少女の浮かべた笑顔に、彼は思わず息を飲んだ。ずっと見ていたいと思うような美しい微笑だった。
「じゃ、じゃあ、明日の夕方五時頃に鳥居前で待ってるから」
そう言って、何気ない様子で立ち去った壮真だったが、家に帰ってからは喜びのあまり家中を飛び跳ね回った。
しかし、彼女は来なかった。
いつまで経っても、来なかったのだ。
最初は約束を破られたと思ったが、彼はすぐにその考えを否定した。
何か急な用事でも入ったのかもしれない。第一、彼女は約束を破るような人には見えなかった。それに、連絡先も何も聞かなかった自分にも落ち度はある。
そう思って割り切ろうとしたが、虚しさと後悔はなかなか消えなかった。
それ以来、あの道を通っても彼女が窓を開けて顔を出すことはなかった。
壮真はただただ、彼女に嫌われていないことを願った。
「ああ、君だったのか」
自分にしか聞こえない声で、壮真は呟く。なぜか分からないが、その言葉を伝えてはいけないような気がした。
「早く来てください! 始まっちゃいますよ!」
最初の花火が、打ち上げられる。
夜空を彩る大輪の花。
赤や緑の光が、夜空を滑っていく。
壮真はそんな美しい空よりも、傍らで花火を眺める少女をじっと見つめていた。
目を離せばまた消えてしまうような気がしたからだ。
どのくらいそうしていたのか、彼には分からなかった。このまま時が止まればいいと思っていたから、考えることを拒んでいたのかもしれない。
しかし、花火大会は着実に終わりに近づいていた。
そんな時、やっと少女が壮真の方を向いた。見つめられていた事には気付いていなかったようで、少し恥ずかしそうに顔を背けようとした。
だが、壮真の視線がそうはさせなかった。しっかりと見据える彼の目は、彼女を捉えて逃がすまいとしている。
どこから話すべきか迷って、まずもう一度名前を聞くことにした。
「君の名前を、教えてくれないか」
「私の名前は、ゆりかです。百合の花に、香ると書いて、百合香。あなたの名前は、どう書くんですか?」
「壮健の壮に、真」
ぴったりな名前だ、と壮真は思った。
その花のように可憐で美しい少女に。
百合香は一呼吸おくと、嬉しそうな声で言った。
「思い出して、くれたんですね」
「……うん」
「あの時は、ごめんなさい。約束を破ってしまって」
彼女は心底申し訳無さそうにしていた。
「仕方ないことだよ。それに、こうして約束を果たしに来てくれたじゃん」
そう、彼女は来なかったわけではなかった。来れなくなってしまったのだ。
幼い壮真は気付かなかったが、今の彼には分かる。
彼女の肌は病的なまでに白かった。それに、あの家から出ているところを一度も見たことがなかった。
そして今日会った彼女は、あのときのままの姿だった。
「……はい、そうですね。本当に、良かったです。もう一度、あなたに会えて」
そう、彼女はずっと待っていたのだ。あのときのまま。
花火はまだ続いている。
「あと一度だけ、私のわがままを許してください」
彼女はそう言うと、突然壮真に顔を近付けて唇を重ねた。
壮真は言葉を失って、呆然としていた。百合香は嬉しさと寂しさがないまぜになったような表情を浮かべた。
「私の、初めてのキスです」
「……俺も」
それ以上何も言葉は出てこなかった。理解していた。これ以上を求めることはできない。
名前以上のことを、聞く気にはならなかった。
ただ、今度は二人で肩を寄せ合って花火を眺めた。
『今年の花火大会も、終わりが近付きました。最後は、四尺玉枝垂れ柳の五連発です! どうぞお楽しみください!』
少し離れたところから、アナウンスが聞こえる。そんな時、百合香がおもむろに口を開いた。
「今日は、ありがとうございました」
「うん」
「私にとって、かけがえのない思い出になりました」
「……うん」
傍らの少女を見ると、涙を流していた。その雫は、きらきらと光になって消えていく。
壮真は思わず彼女を抱きしめていた。
「ありがとう。ずっと待っていてくれて」
壮真は自分の涙を見せまいとしてもっと強く百合香のからだを抱きしめた。
「壮真さん……さいごの、花火ですよ」
嗚咽混じりの彼女の声に、壮真はからだを離して花火の上がる方を見た。
その花火は一際大きな花を描くと、すぐに夜空に溶けるように消えていった。
壮真が横を見ると、彼女は既にそこにはいなかった。
花火が咲いたあとの空には美しい星々が見えた。地面には白百合の花の髪飾りが残っているばかりだった。
お読みくださりありがとうございます。