青菫 06
仄かに青みがかって見えるほど真っ白なシルクをふんだんに使ったドレスは、厳かな大聖堂でひと際輝いて見えた。
自分が寝る間も惜しんで一人で作り上げた、たった一人の愛しい女の子に着てもらう為の、一生に一度だけの純白のウェディングドレス。
少ないながらに取り寄せた真珠は粒の揃った一級品で、彼女の青黒髪を覆うヴェールや滑らかなデコルテや可愛らしい耳を清楚に飾る。本音を言えばドレスにも縫い付けたかったのだが、流石にそれだけの真珠を買い求められるだけの財をレナートは持ち得なかった。勘当同然に家出した時に財産放棄をしているレナートは、正真正銘、デザイナーとしての稼ぎで得た蓄えしかないので。
しかし、ドレスに真珠を縫い付けずとも、充分に輝く裾の半分以上を占める銀糸の刺繍はレナートの技術の総結集とも言える出来栄えで、ステンドグラスから突き刺さる虹色の光を弾いて淡く照り返るのが堪らなく美しい。
大聖堂での結婚式。普通の貴族ならまず参列の機会はあったとしても主役にはなれない場所である。全く予想もしていなかった教会で挙げる式に、レナートもキュカも仰天して「畏れ多いです」と辞退する構えだったのだが、何せ見事に大聖堂を抑えた二人の女傑――弟嫁のロザンナと王太子妃となられるクローネはそれはもう良い笑顔で押し切ってきて、彼女達がどれほど骨を折ったのかを想像すると、その厚意に頭が下がる思いしかなく、頷かざるを得なかった。
よくよく考えてみれば、大聖堂で挙げる結婚式なんてそれこそ普通の貴族でしかない二人にとっては貴重な体験である。寧ろ一生経験しないものと思っていた。好きな人と結婚するのだからどんな結婚式であっても一生の思い出になる事は間違いないが、それが王族と公爵クラスの一部の貴族のみしか使用出来ない由緒正しい教会での結婚式ともなれば、当日の主役たる花嫁のキュカにも箔が付く。勿論、デザイナーでしかない自分にも。
ロザンナの結婚式以来挙げられていなかった大聖堂の結婚式に、こうして主役の片割れのレナートは銀髪をピオニーピンクのリボンで結い、ドレスと揃いの刺繍を施したモーニングコートを身に着けて、緋色の長い絨毯を歩いてくる小柄な想い人を待っている。
普段は軽く流しただけの青黒髪をいつもと違ってきっちりオールバックにした父親と腕を組み、清楚にこちらへ一歩一歩近付いてくる女の子。あのほっそりとした指に、用意した指輪を嵌める日が来るのを、レナートは婚約してから一日千秋の思いで待ちわびて来た。
柔らかなランプの照明が、寝室を優しく照らす。
結婚式は壮大で、そしてキュカの魅力を存分に引き出す為に仕立てたウェディングドレスも参列者からの評判も良く、新郎としてもメゾンのデザイナーとしても、レナートは充分な成果を上げた。
今まではメゾンの三階を自宅として使っていたレナートだが、伯爵令嬢のキュカを妻に迎える為、流石にあの狭い部屋で新婚生活を送るのは忍びない。レナートは婚約してから、メゾンに歩いて行ける距離で貴族が暮らせる程度に設備が整った手頃な邸を探し、希望に叶う物件が見付かったその日の内に買った。
日頃は領地に住んでいる男爵が王都に滞在する時だけ使用していた邸は広過ぎず小ぢんまりとしており、夫婦と数人の使用人が暮らすには丁度良い大きさで、家具なども殆どがそのままの状態で残してあった。簡単なリノベーションと掃除だけすればすぐに住めそうな邸は、男爵が息子に家督を譲って隠居したのを機に手放した空き家となっていて、レナートは三階の家具はそのままに、必要なものだけ荷造りしてさっさと移り住んだ。
空き室になった三階は仕事の休憩やメゾンに寝泊まりする時に使おうと思っていたのだが、自分の結婚に伴い、針子達の負担が増えるので急遽新しい針子を募集したところ、無事入店希望の針子が見付かり、現在は彼女が住んでいる。
表向き、家賃は給料から天引きというかたちにしているが、レナートは家賃を値下げして、かなり安値で彼女を住まわせている。
「はぁ~~~…、結婚式って、疲れるのねぇ…」
クタクタになってベッドに伏す。清潔なシーツの匂いとひんやりした触感が心地好い。
風呂も入ってシルクの寝間着姿になったレナートは程好い疲労感に包まれていて、このまま夢の世界に旅立ってしまいたいくらいだったが、何故か眠気は一向に来ない。それどころか目はギンギンだ。ちっとも眠れる気がしない。何故なのか。
何故なら……今から……待ちに待った新妻とのめくるめく初夜なので。初夜なので。大事な事だから二回言うわよウフフ。
「レナちゃ、…レナ」
水色のガウンを羽織った湯上がりのキュカがおずおずと扉を開けた。瑞々しい頬を染めて睫毛を伏せ気味にしながらそろりと寝室に入ってきたので、もうその表情と仕草だけで暫く困らないな、と思ったほどである。何に困らないのかは言わない。言えない。
「あの…、ロ、ロザンナさんが」
「?」
「この下の寝間着……初夜ならここのブランドが良いって聞いて…、ヴァージニア以外のメゾンの服だけど、着ても良かった…?」
「!」
レナートは言葉にするのは難しい複雑な気持ちになった。
初夜に新妻が着るに相応しい寝間着…。それは勿論、そういうデザインの寝間着というか、ぶっちゃけ言うと魅せる為の華やかかつ繊細なランジェリーだろう。そうであってほしい。そうであれよ!
可愛い可愛い、何年もずっと密かに想い続けてきた女の子が妻になったという事実だけでも未だに夢見心地なのに、更に初夜に相応しいランジェリーを身に纏ってレナートと一緒のベッドで寝ようとしているのだから、興奮するなと言う方が無理な話だ。
嬉しい、喜ばしい、すぐにガウンを脱いでほしいような、否でも勿体ないから焦らしてほしいような、何なら自分が脱がしたいような、もじもじしながら自らの手で脱いでほしいような、そういう昂りの他に、確かに「ヴァージニア以外の店で作った服をキュカが着る」という事実に悔しさとか面白くない拗ねた気持ちもちゃんとある。
しかし、レナートのメゾンはほぼ女性服専門ではあるものの、オーナー兼デザイナーの自分が男性という事もあり、ドレスはともかく、下着は客の方も注文し辛いかと思ってそういう類は未着手なので、ランジェリーは他のメゾンで買うしかないのは道理である。
「……どこの?」
「ハニーリトルっていうお店。ロザンナさんも嫁いだ従姉のお姉さんに教わったって」
「あぁー…。確かに、評判良いわよね。ランジェリーだけなくて、ドレスや普段着のワンピースも作ってるし、ファッションプレートにも載ってるから、見た事はあるけど…」
チラ、と視線をキュカの顔からガウンの胸元に移すと、気付いたキュカが慌ててガウンの前を隠すようにギュッと握る。昼間は真珠を着けていた耳が仄かに赤くて、寝香水も少しだけ着けているのだろう、ふぅわりと花――この爽やかな甘い香りはスミレ――の匂いが立ち昇る。
レナートにとって、菫は特別だ。菫みたいな女の子から、菫を髪に挿されたあの日から。
そんな特別な花の匂いを纏わせた特別な女の子が、初夜に臨んで相応しいランジェリーを着用して寝室に来ている。……考えるだけで脳が沸騰しそう。
「……レナ、あの」
「取り敢えず、温かいものでも飲みましょ。用意してあるの」
スパイスと一緒に温めた赤ワイン。アルコールが程好く飛んでいるから、飲み易くなっているはずだ。キュカも卒業してから酒を少しずつ嗜むようになっているので、これくらいなら酔わないだろう。
チリン、とベッドテーブルの呼び鈴を鳴らすと、隣室で待機していたメイドが銀盆を手に入っていた。湯気の立つホットワインが入ったカップの他、簡単につまめるチーズやナッツの器も添えられている。
キュカに長年仕えてきているメイドだ。キュカが幼い頃から就いており、もはや姉同然の存在である。もう寝る時間帯なのに、お団子に結われたほつれのない髪から真面目な気性が窺える。キュカを見る眼差しには慈愛が籠もっていた。
「有難う。貴女達も、もう今夜は休んでちょうだい」
「畏まりました。…お嬢様、ファイト!」
「ふぁ、ふぁいと、うん、ふぁいと…」
「応援されちゃったわね~。でももう、キュカは「お嬢様」じゃないのよね~」
「アラそうでした。失礼しました、旦那様、奥様」
「お、奥様!? ……そっか、私、奥様になっちゃった…」
一々反応が初々しくて可愛いったらない。このまま何もせず、抱き締めて眠るだけでも満たされる気がしてきた。……本当に? 待ちに待っためくるめく初夜なのに?
キュカを微笑ましく見つめたメイドが退室して二人きりになったが、ホットワインをちびちび飲みながらつまみを食べ、昔の思い出話をしている内に少しずつキュカの緊張もほどけていく。
「……レナちゃん」
気を抜くと「レナちゃん」と呼んでしまうところも、早く直そうとしているのは判るが、別に急いで直そうとしなくても良いと思っている。レナートを「レナちゃん」と呼ぶようにしたのは、再会したレナートがオネェになっていた事による、キュカの気遣いだと理解しているから。
「お手洗いに行ってきても良い?」
「良いわよ。もうこの邸の間取りは覚えたかしら?」
「うん、大丈夫」
長年仕えてくれているメイドの励ましとほんの少しのアルコールが、良い具合に緊張し過ぎた精神を解きほぐしてくれたようだ。緊張感が全くなくなるよりは、多少残っていた方がこちらとしても都合が良い。暴走し過ぎないように歯止めが利くから。
キュカが部屋を出るのを見届けて、レナートもすぐさま鈴を鳴らして空になったカップと器を回収してもらい、メイドには従者部屋に移るよう頼んだ。隣室だと声とか音とか……どうしても聴こえてしまうだろう。閨事の音を聴かれるのはやっぱり恥ずかしいので。
手洗いから戻ってきたキュカは、レナートを見て緊張に身を固くするより、淡くはにかんだ。照れくさそうに視線を落とし、けれど最初にこの部屋に入って来た時ほどのガチガチ加減ではなくなっている。
……キシ…、
既にレナートが座っていたベッドの隣に、そっと小さく丸みを帯びた尻が腰掛ける。もうキュカは、男の寝室のベッドに腰掛ける行為がどれだけ男を惑わすのか、その意味を知っている。知っていて、腰掛けた。レナートが待つ寝台の縁に。
「……レナ」
睫毛が僅かに震えている。蒼い双眸は仄かに潤んで煌めいている。薄暗いランプの明かりだけでも、新妻の可憐さが暗がりに負ける事はない。
「キュカ。…幸せにする」
教会の中でしたように、今度は二人きりの寝室で彼女だけに聴こえるよう静かな声で厳かに宣言すると、キュカは小さく頷いた。
頤に指を掛ければ、力を入れなくても自然と仰き、瞼が閉じられる。随分と慣れてきた仕草。レナートが教え込んだキスの作法。キュカは勉強熱心で覚えが良いと、王太子妃教育の自主勉強の指導を買って出たらしいロザンナも褒めていた。全くその通り。
今からする事も少しずつ覚えていって、やがてはなまめかしく夫を誘う貴婦人に成長していくのだろうか。まだ少女のあどけなさを全身に纏っている花嫁にそんな事を思いながら、レナートはゆっくり彼女のガウンを開いた。
……凄く…、凄く幸せな夜だった…。
昨夜迎えためくるめく新婚初夜を思い返す度、陶酔のため息が漏れそうになる。
「ちょっとそこの色ボケ店長、また手が止まってんじゃないの。さっさと仕事してよね」
「痛っ。…んもう、判ってるわよ、ゴメンってば。……でも、思い出しちゃうんだからしょうがないじゃない…」
エリザベスに軽く肘鉄でドツかれて、途中で止まっていたデザイン画を進める。
さっきからずっとこんな調子なのは我ながら反省するしかないが、新婚初夜明けなのに、普通に仕事している自分のタイトなスケジュールが恨めしい…。かつての依頼件数を思えば、仕事があるのは嬉しいけれど!
昨日の結婚式に引き続き、本日もヴァージニアは臨時休業しているが接客営業してないだけで、実は結婚の準備で遅れ気味になってしまった仕事が溜まっている。一着でも早く仕上げるべく、裏方はいつも通り稼働しているのだった。
「でも昨日の結婚式、素晴らしかったですよね。キュカさんもウェディングドレス、本当によく似合ってましたし」
「王都の大聖堂で貴族が挙げる結婚式に参列なんて、このメゾンで働いてなかったら一生縁がなかっただろうなぁ…。良い思い出が出来ました」
「それな」
「あははっ。シャノンさん、すぐ「それな」って言う」
庶民の彼女達にとっては、確かに大聖堂の結婚式に参列する機会なんて普通なら一生縁がないものだっただろう。しかしレナートが招待したので、彼女達は仕事の傍ら、自分用の一張羅をそれぞれ自主的に制作し、オーナーの晴れの日に臨んでくれたのである。
レナートは金銭的な負担も考慮し、「ちょっと良い外出着くらいでも構わないわよ」と言ったのだが、流石に煌びやかに着飾った貴族だらけの中に参列するのに、メゾンで働く針子の晴れ着が「ちょっと良い外出着」程度だとヴァージニアの評判にも関わる! と危機感を覚えたらしく。
特に針子の中では容姿の優れたシャノンは広告塔としても打って付けなので、エリザベスとノーラとミリー、そして婚約が決まってから新しく募集採用して入ってきた新入りの針子ナンナは、自分達のワンピースは必要最低限に流行りを押さえたデザインと刺繍で見栄え良く整えた後、シャノンの一張羅に全力で当たったらしい。
化粧をしなくても充分に美しい顔立ちのシャノンは、ともすれば地味で時々存在感がないキュカよりも目立ってしまう恐れがある。その為、ワンピースは色こそ花嫁より目立たないよう淑やかなスレートグレーと地味ではあるものの、袖口や裾には細やかな同色のレースを二段重ねに、例の様々な色艶を持つ黒糸で蔦を刺繍し、出来映えも「流石有名メゾンの針子」と言わんばかりの意匠であった。シャノンのくすんだ金髪や健康的な肌に品良くも適度な濃度のスレートグレーはよく似合い、美貌の針子は一部の参列者から注目を浴びていた。――主に男性の。
薬指に指輪はしているが、安物と一目で判る。夫のダニエルが苦み走った迫力ある色男なので滅多な事にはならないと思うが、暫く用心するに越した事はない。
シャノンは「私の一張羅に皆さんが気合いを入れてくれたお陰で、過去最高に美人になれた気分だった」と呑気な感想を告げているが、着飾らずとも素で美少女なシャノンなので、ダニエルにも念の為懸念を伝えておくべきか。
「ナンナも時間ない中、綺麗な服作ったじゃん。あのデザイン、良かったよね」
「そうそう。ナンナちゃん、クリーム色のワンピース似合ってたわねぇ。ワンピース全体を逆さまにした花束に見立てて、色とりどりのいろんな花が裾に元気いっぱい咲いてて、大人の女性よりもお子さんや十代の娘さんに流行りそう」
「それを狙いました。花が嫌いな女の子はあまり居ないでしょ。結婚式のお祝いのモチーフとして、花束は鉄板ですし」
クリーム色のスカートを大きな花束に見立て、腰は花束を纏めるように大きなサッシュリボンを大げさに際立たせ可愛らしく。裾にたくさんいろんな種類の花を配した大胆なデザインに、レナートも式場で初めて目にして、そのダイナミックさに少々驚きと新鮮味を覚えて見入ってしまった。
ナンナは雇ってまだ一ヶ月半くらいだが、発想がデザイナー寄りの針子で、レナートとしても大変刺激を受けた。
「ナンナさんは、以前どこに勤めてたの?」
「私はそもそもルジュン出身なので、縫い物より蚕の世話や機織りを長くやってたんですけど、布織ってばかりじゃつまんないな、って縫い物にも手を出してみたら、そっちの方が楽しくて。でもルジュンって布を生産する地域だから、縫い物を本格的にやりたくても、誰もあまりやらないんですよね。商品を作るのに手いっぱいで、後は家事やるのが関の山で、他の事をする暇がないというか。お陰でルジュンの収益は良いし、街は比較的豊かなんですけど…」
「ルジュン! シルクの名産地ね」
「あそこのシルク、糸も布も凄く質が高くて評判良いものね。染めも綺麗で柄物もセンスが良くて…、納得だわ」
「でも、本当に蚕の世話と糸紡ぎと染めと機織りだけで充分街が潤ってるからって、それしかやってないんですよ。少しは農業とかもした方が良いんじゃないかと思うんだけど、素材しか作ってないというか。だから縫い物もだけど、他の道楽や趣味をする習慣も暇もないんですよね。メゾンが一軒だけあるんですけど、近くに住んでる人はそこに好きな布持ってって依頼して作って貰うんです。その方が早いし安いから。隣町にも同じようなサービスで服作ってくれるメゾンがありますしね。ルジュン出身だと、女性でも縫い物出来ないって人、多いんですよ。布は大量にあるのに」
「え、そうなんだ…」
「意外…。あれだけ質の良い糸と布を作ってるなら、縫い物も盛んだとばかり…」
「ルジュンって、確かに裕福な街って印象はあるけど…」
「裕福は裕福ですけど、結局朝から晩まで働き詰めで、綺麗な素材を大量生産してるから領主の懐は潤うけど、それだけって感じかなぁ。確かに皆、普段着がシルクか上質な木綿だから動き易いし、暑さ寒さにも左右されず生活出来るし、家の修繕費すら困らないくらい稼げてるけど、仕事終わりにパブや食堂行ってちょっと贅沢にご飯食べるか酒引っかけるくらいしか楽しみがない街で一生過ごすの、私は嫌」
「う、うわぉ…」
「ルジュンの闇を知ってしまった…」
「蚕って凄く繊細だし餌すら自力で食べられないくらいか弱い虫で、世話が超面倒なんです。機織りもずっと座って織機を動かしてるだけって思われるでしょうけど、結構体力使うし、目も耳も駄目になるの早くて…」
それを言うなら縫い物だって結構体力使うし耳はともかく目が疲れ易いのはどっこいどっこいだと思うが。
「私、縫い物を本格的にやりたくて、でもルジュンに居ると独学でやるにも限度があるし、街のメゾンで働こうと思ったんだけど、そこの娘と私、折り合いが悪いんですよ。幼馴染を挟んで長く三角関係やってたもんだから…。素材作るだけで充分儲かってるのも事実だから、家がメゾンでもないのに縫い物を一生の仕事にしてみたい私の方が変人扱いされちゃって。だったらいっそ修行のつもりでルジュンを出てみるか、と思って…」
婚約が決まってから、レナートが殆ど婚礼衣装や結婚準備に掛かりきりにならざるを得ず、普段の仕事のドレス制作は針子達だけで回していたのもあり、あまりにも忙しい数ヶ月だった。こうしてゆっくりと手を動かしながら他愛ない世間話に興じる心と時間のゆとりがなかった故に、今更ながら新入りの生い立ちを知る同僚達。
ナンナはさっぱりした焦げ茶のショートヘアが快活な雰囲気によく似合っていて、年齢はミリーより下でシャノンよりは上。ルジュンに居た頃に幼馴染と婚約していたが、色々あって結婚する前に別れてからは、恋人も居ないらしい。本人に結婚願望が微塵もないのも理由かも知れない。
「思い切って故郷を出たは良いけど、当てがある訳でもなかったし、王都まで行けば取り敢えず食いつなげるかと楽観的な考えでここまで来ちゃったけど、ヴァージニアに拾ってもらえたのは運が良かったなー。住むところも格安で提供してくれて、こうして素敵な裁縫箱も仕事道具だからって買ってもらちゃったし」
あっけらかんと宣うナンナは確かに無鉄砲で楽観的かもしれないが、一念発起しての旅立ちの末に、ここに辿り着いてくれたのはレナートとしても有難いタイミングだった。三階も若い女性だが店員が住み込みで使ってくれるなら、防犯という意味でも安心感が違う。
ミリーやシャノンにしたように、ナンナにもオーナーとして裁縫道具一式を買い与えた。忙しいさなかだったが、適当に選ぶのは失礼なので、ちゃんと彼女が気に入って長く手元に置いてくれるような素敵なものを。
シックな深緑に塗った木箱に描かれた色鮮やかなマカロンやクッキーの絵柄は、大人可愛いデザインで人気が高いらしく、偶々最後の一つだった。
「んふふ。そういう事だったの…。――ナンナ、雇って早々、ずっと多忙を理由にロクに仕事も教えてやれず放っておいててゴメンなさいね。裁縫道具も気に入ってくれたなら嬉しいわ。改めて宜しくお願いします」
「お願いしまーす! ――早速なんですが私、三面図の描き方を教えて欲しいです!」
物怖じしないところは好ましい。バイタリティもあるし、発想も柔軟で面白い。何より行動力がある。
「いいわよ。でも覚えるのはゆっくりで良いからね。ミリーとシャノンは三面図、だいぶ描けるようになったわね」
「お陰様で。ちゃんとしたメゾンで働かなかったら、三面図の重要さを一生理解出来ないままでした…」
「それな」
「シャノンさん、本当にすぐ「それな」って言う~」
「私とノーラさんは元々それなりの裁縫道具持ってるからって買ってもらえなかったけど、最近の裁縫箱ってオシャレで気分上がるねぇ。ノーラさん、私らも自腹で新しいの、買いに行きません?」
「そうねぇ。ミリーちゃんやシャノンちゃんの時も思ったけど、ナンナちゃんの裁縫箱も見た目だけじゃなく、中も機能的で使い易そうで羨ましいって、ちょっと思ってたのよね」
「じゃあ今日の帰り、一緒に行きません? ついでに夕飯の買い物もしちゃいたい」
「ベスちゃんは持ち合わせあるの? 私、今日そんなつもりなかったから、持ち合わせがあまりないのよ…。これだけ素敵なら中身なしの箱だけでも結構なお値段するでしょうし、食材は昨日買い溜めしちゃったし。明日でも良いかしら?」
「ベス、今日は行っても店が定休日のはずよ。最近、あそこの裁縫箱の人気が高くてすぐ売り切れちゃうから、受注注文に切り替えたって聞いたし。欲しいデザインの在庫があればともかく、必ず手に入るとは限らないから、店舗のカタログ見て時間掛けて決めたら良いんじゃない?」
「えっ、そうなの? 受注性かぁ…。まぁでもその分、後悔のないようにじっくり選べると思えば…」
レナートが行き着けにしている、手芸用の道具全般を扱っている大きな手芸店。裁縫箱もそうだが、他の商品もセンスの良いデザイナーを雇ったのだろう、一気に洗練されてきて、売上を大きく伸ばしている。客層も職人だけではなく、貴族の顧客が増えたとか。
針を持つ手を一旦止め、エリザベスとノーラが額をくっ付けるくらい近付けて一冊のカタログをパラリとめくる。
「へぇ~。この裁縫箱の美しさを見れば納得だわ」
「こんなに素敵な裁縫箱、これから刺繍を習うような幼いご令嬢にプレゼントしたらきっと喜ばれるでしょうからね」
「刺繍が苦手っていう令嬢にもやる気を促せそうですし」
「それな」
「出た、「それな」!」




