㉑その歌声に恋をする
私が高校で合唱部に入ったのは、泣き虫の幼馴染が今にも泣きそうな顔で頼み込んできたせいだ。
なんでも入学式で合唱部の先輩達の歌声を聞き、感銘を受けたとか。ちなみに私はその時船を漕いでいた。
別に私は入りたい所も無かった為、幼馴染の充希について合唱部へと部活見学、そのまま入部。
総勢五十名以上からなる名門合唱部。有名なコンクールの常連で、顧問の先生も学生時代はフランスの有名な音楽学校に通っていたらしい。
右足が痛い。
ともあれ、私はこの高校生活、存分に青春を謳歌しよう。
勉強はそこそこにして、一生に一度の高校生活を楽しもう。
右足が痛い。
合唱なんて正直、微塵も興味無いけど、その内好きになるかもしれない。
右足が痛い。
大丈夫。もう、私は大丈夫。
右足が……痛い。
◇
全校生徒が五千人、と聞けば結構なマンモス高校だと想像できるだろう。
桜ヶ丘総合学園。大きく分けて十の学科が存在し、さらにそこから細かい専門分野の授業を自分で選択して学ぶことが出来る。しかし私は、別に学びたい専門分野など無い。この学校に入ったのは中学の担任が勧めてきたというだけの話だ。
「澪ちゃん、部活いこー」
放課後、幼馴染の充希が私に話しかけてきた。
私は鞄から超有名ロボットアニメのプラモデルキットを出し、制作に取り掛かる。
「澪ちゃん? 君は何をしているんだい?」
「見て分からない? 核搭載モビルスーツを作ってるの。これが完成したら……私はあの名台詞を言いながら弟にプレゼンツするの。芦田家よ、私は帰ってきた! って」
「そっか、じゃあ行こっか、部活」
完全にスルーして部活に私を連れて行こうとする幼馴染。
充希はせっせとキットを片付け始める。
「ちょ、充希ちゃんよ。待って、待って」
元通りにキットを箱へと収納する充希。そのまま私のサブバックへと押し込み、私の手を取って引っ張ってくる。
「ほら行くよ! 今日ちゃんと部活終えたらタイヤキ奢ってあげるから!」
「やだ、やだやだやだやだ! もう合唱部やめる!」
入部して三か月。私は既に合唱部が嫌になっていた。
もう一週間以上、顔を出していない。
「何言ってるの! 澪ちゃんの声、凄く綺麗なんだから! 先輩も褒めてくれたでしょ?」
「でも音痴だもん! 私、今まで合唱なんて口パクでやり過ごして来たから知らなかったんだ……自分があんな音痴だったなんて!」
「練習すればいいの! ほら立って!」
やだやだやだ、と駄々をこねる私。
その時、あの音が聞こえてきた。床を叩くボールの音。バスケットボールをドリブルする音が。
思わず窓から見える体育館の方へと視線を送る。
右足が痛い。
「……澪ちゃん、やっぱりバスケ……やりたい?」
「はっ? 別に……あんな玉入れ、もう飽きたの」
「またそんな事言って……いいんだよ、澪ちゃんがバスケ部に入りたいならそれでも……」
右足が……痛い。もう完治している筈なのに。
「そんなわけないじゃん……分かったよ、行けばいいんでしょ……タイヤキ奢ってよ」
席を立ち、充希と一緒に教室を出る。
廊下に出ると、吹奏楽部の微妙に合ってない演奏、野球部のランニングする掛け声、そして……あの音が響いてくる。乾いた風が廊下の開いた窓から流れ込んできて、私は咄嗟に充希のスカートを思い切り捲りあげた。
「ちょ、何してんの!」
「いや、なんか放課後って……ちょっと寂しくならない? なんかこの雰囲気が、私に充希のパンツを見たいという衝動を……」
「怒るよ」
「ごめんなさい……」
素直に謝りつつ、再び廊下を歩き始める。
するとどこぞの部のユニフォーム姿の男子が、私達とすれ違うように駆けていく。
そのユニフォームに思わず一瞬、目を奪われる。
右足が痛い。
「澪ちゃん、部活終わったらカラオケ行く? 遊びつつ自己練だよ」
「ぁ、ごめん。今日は弟の家庭教師なんだ。アイツ、今度の実力テストで平均点取れなかったら小遣い減らされるって泣き付いてきて……」
「そっか。澪ちゃんみたいなお姉ちゃんに教えてもらえるなんて、圭君は幸せ者だね」
「フッ、私は実力テストで学年総合……五位だからな! 伊達に中学時代引きこもって……」
まただ、また右足が痛い。
引きこもった理由は? それを考えると完治した筈の右足の中に、冷たい刃物が動いているかのような痛みが走る。
「澪ちゃん?」
充希が心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
ここぞと私は再び充希のスカートを捲りあげ、数秒間、充希の結構ガチな平手打ちが飛んでくるまで、そのピンク色の生地を見つめ続けた。
◇
一週間ぶりの合唱部。顧問に怒られるかと思いきや、別に何も言われなかった。顧問は基本クソ真面目で堅物。ガミガミ叱る雰囲気を纏っているが、別にお前なんてどうでもいい、という雰囲気。
しかし……
「芦田 澪、ちょっと来い」
合唱部の面々が集まる中、三年の男子生徒が私だけを別の個室へと呼び出した。
やばい、叱られる。待ってくれ、私のメンタルは豆腐以下だ。叱られたら、泣きながら先輩へとジャーマンスープレックスを仕掛けてしまうかもしれない。
呼び出された個室は楽譜やら何やらが収納された狭い資料室。古い紙の香りが私の鼻をくすぐる。
「座れ」
テーブルを挟んで向かい合うように座る。先輩は何かの書類を机の上に。
「ほら、これ書け」
渡されたのは退部届。来ないなら退部しろという事か。よし、じゃあ書こう。
胸ポケットからボールペンを取り、サラサラと自分の名前を書いていく私。
……充希は怒るかな。
「本当にいいんだな」
すべての項目を書き終えた後、先輩はそう言ってきた。
私は頷きつつ、退部届を手渡した。
放課後の、部活動の喧騒が聞こえてくる。
皆青春している。なんだか私だけ取り残されたような感覚。
「はい……私音痴なんで……皆に迷惑かけるし……」
「本当にそれだけが理由か?」
先輩は退部届を小さく折りたたみ、ポケットへと突っ込んだ。
おい、顧問に提出するんじゃ……
「あー……後輩にお前と同じ中学の奴がいてな。そいつに……悪いとは思ったんだがお前の事を聞いた」
「……はい?」
「お前、バスケの試合中に大怪我したそうだな。結構上手かったんだろ? 何校か、スポーツ推薦の話もあったらしいじゃないか」
右足が……痛い。
「いや、別に……それは関係ないですから……」
隣の合唱部の部室から、歌声が聞こえてきた。鳥になって飛びたい的な歌。
「そっか。じゃあ音痴だからって理由じゃダメだ。退部は認められない」
じゃあ何で書かせた。ジャーマンかけるぞ。
「音痴なら練習すればいい。ここはプロの合唱団じゃない。合唱部だ。音痴だろうがド下手くそだろうが、楽しめればそれでいいんだ。お前の事を迷惑だなんて誰も思ってねえよ」
そんなの……本心では邪魔臭いと思ってるに違いない。この人は思ってなくても、部員の中には絶対居る。
そう、例えば……
「私、二年の先輩……名前まだ覚えてないですけど、制服着崩してるクール女子いるじゃないですか。あの人に滅茶苦茶睨まれたんです……正直漏らしそうでした。絶対私の事、邪魔って思ってます……」
「あぁ、柊な。あいつに睨まれたのか。早速気に入られたんだな。アイツ、大好きな人間を睨んじまうんだよ。ちなみに俺にはいつも怖いくらいの笑顔を送ってくる」
それは大嫌いという事か?
何その設定……いや、でもまだ……
「あの悪役令嬢みたいな髪クルックルに巻いてる茶髪の先輩……! 私、あの人に滅茶苦茶皮肉言われたんです! とってもお上手ですわねって……生まれてくる時代間違えたみたいな口調で!」
「轟か。アイツはいつもあんな態度だけど、実はアホみたいに心配性でな。あぁ、ここ最近目の下にクマ作ってると思ったら……それでか。あいつ、後輩の事となると夜眠れなくなるくらい心配しまくるんだ。自分のせいでお前が来れなくなったって思ってるんじゃないか? 実際どうなんだ?」
そんな事無いですわよ!
でも他にも……はっ! あの先輩は絶対私の事邪魔だと思ってる!
「あの男子の先輩っ! ショタっぽくて最初萌えましたが、私あの人にこう言われたんです……。君、なんでここにいるの? って……」
「香江だな。っていうかその時俺も居たけど、お前ソプラノのくせにバスのパート分け練習に来てただろ。そりゃ言うだろ」
えっ? それでか、なんか妙にドスの利いた声で歌ってると思ってたけど……私が音痴だから気付かなかったのか……?
「他には?」
「ほ、他には……こ、顧問の先生! まだ一言も口聞いて貰ってない! 結構イケメンなのに寂しいなり!」
「滅茶苦茶シャイなんだよ、あの人。話かければマシンガントークしてくれるぞ」
弾を打ち尽くしてしまった私。
爽やか眼鏡先輩は、鼻で笑いながら
「個性的な奴等ばかりで楽しいだろ。でも合唱で表現出来るテーマは一つだけだ。それを目指して俺達は歌うんだ」
「一つ……だけ?」
「あぁ。いろんな奴等が集まって、一つの世界を表現する。これを完遂した時の達成感はヤミツキになる。今もそうだ。俺はお前が欲しい」
……はい?
「芦田 澪、俺にはお前が必要だ。一緒に世界を作り上げよう。俺達の歌声で、世界を作るんだ」
私の中で何かが弾けた。
右足の痛みは、少し和らいでいた。




