②放ったらかしの末娘
「う~ん……」
鞣した焦げ茶の編み上げ靴を履いたまま寝台に転がり、仰向けになって本を読んでいたエミリアは、白磁のごときすべらかな眉間に盛大に皺を寄せた。
我が家は王都に居を構えるとはいえ、商売を主とする、さる侯爵筋の傍系子爵家。ゆえに敷地も家屋敷もそう広くはない。だからこそわかる。
――屋敷中、浮き足立っている。
「集中できないわ」
ふうぅ、と大仰に嘆息。ひらいたままの書籍を胸の上に落とし、瞼を閉じた。大きいし、辞書並みに重い。じわじわとダメージを食らう。
まだ昼過ぎ。眠れるわけがなかったけれど。
◇◆◇
こちとら、馬車での長旅を経て久方ぶりに学園都市から帰省した六人兄妹の末娘。なのに、対応してくれたのは古参の召し使いが数名だけ。家族の出迎えはゼロ名。
ふて腐れ、文字通り転がっているのに誰も何も言ってくれない。放置の極み。
(やんなっちゃう。いくら到着が予定より早かったからって。いっつものほほんとしてる、甘々の母様まで留守なんて)
――――いや。よく考えると構い倒されても困るのだ。
こうして、学園の図書館長に頼み込んでようやく借りられた希少本の写しを読み耽り、遠い異国に伝わる古語の物語を噛みしめるほうが、家族にわやくちゃにされるよりは数倍の価値がある。
なのに。
「つまんない……。どうして姉様がたは会いに来てくださらないの? 私、ひょっとして嫌われてる?」
「まぁ! 嫌うだなんてとんでもない。執事から聞かされませんでしたか、エミリア様? 上のお嬢様がたは、今宵初めて『仮面夜会』に出席なさるのです。いまは、その準備を」
「仮面…………、夜会? 何それ」
「何って」
きょとん、と問われ、侍女のモルナはうっかりと仕事の手を止めた。
空や星のモチーフをことのほか好む末娘のため、子爵が取り寄せたこの部屋の絨毯は夜の紫紺色。壁は水色。雲母をちりばめた乳白色の天井からは、細い銀鎖で吊り下げられた玻璃の星細工がおとぎ話めいた煌めきを放っている。家具や調度品は白木。あるいは白く塗られて統一感を醸していた。
その中央奥に設えられた寝台で、少女がじぃっと自分を見上げている。
エミリア・アイザックは花も恥じらう十四歳。
本人のたっての希望で王都の貴族女学院ではなく、遠く離れた学園都市での就学を認められたのはちょうど一年前だった。
手荷物を改めたところ、制服を含めて若干ゆったりめに仕立てておいたはずの衣装は、すべて寸詰まり。
――つまり、予想以上に背が伸びている。早急に衣服を仕立て直す必要があった。
そのため「失礼します」と断った上で、勝手にあちこち採寸していたのだが。
巻き尺を手にしたモルナは、ふふっと笑った。
エミリアは弟を出産したばかりの母が乳母をつとめた娘。
なので、時おり実妹のように感じられて慕わしい。
「エミリア様は、学園では本当に勉学しかされていないのですね。近頃の王都の流行りについてはご存知ない?」
「知らないわよ。なぁに? 『仮面夜会』って」
「言葉通りですわ。元は隣国の王族のかたが考案されたのですって。いついかなる時も“王の子”として扱われるのを窮屈に感じられた尊き血筋のかたが、ある日、やり手と名高い宰相の君に一風変わった夜会を催させたとか」
「……出席者全員に素性を伏せさせて、仮面を付けさせたってこと?」
「えぇ」
「無茶苦茶ね。防犯とかどうなってるのかしら」
「そこは、招待状で徹底的に入場管理を」
「ふうん」
一言呟いたエミリアは、胸の上の本を脇に退かすと、スカートの裾をはだけさせながら足を振り上げた。反動を使い、一気に寝台から滑り降りて着地。くるり、と振り返る。
おとなしいモカ・ブラウンのプリーツが翻り、同色の上着の背をさらさらと黒髪が流れた。
ふだんは後頭部に結いあげてきつく纏めているのが、実にもったいない。彼女の揺るがぬ美点の一つだ。
いま一つは。
「大体わかった。つまり、我が国でも『誰でもない誰か』になりたがる貴族は多かった、ということね。姉様たちみたいな、社交界にぽっと出の若年層にも広がる程度には。一家総出で支援するのは、参加じたい、それなりに益があるから?」
「仰る通りです」
――この、打てば響く機転のよさ。
はきはきと明朗でありながらも可憐な声音。見るものをハッとさせる、涼やかな眉に強いまなざし。ほほえめば黒目がちに潤む魅惑的な瞳も。
色は、曙の紫を含む淡紅色。角度によって青紫にも見えるそれは神秘的でもある。
いまはまだ膨らみに欠ける胸も、ただ細いだけの腰も、やがて女性らしく変化してゆくだろう。二年後、学園を卒業する頃には求婚者の列が引きも切らないはずだ。絶対すばらしい美女になる。立派な語学者の肩書きも得て。
(楽しみなこと)
ほくほくと成人した少女の晴れ姿を夢想するモルナに構わず、「仮面……。そっか。夜会か」と独り言ちたエミリアは、両手に抱えた本をそっと窓際の机に置いた。
「ねぇ。姉様に会いたいわ。お支度中でもいいでしょ? さすがに『帰省するんじゃなかった』って、くよくよ思い始めたところだったの。私、とくにシュゼット姉様目当てで帰ってきたから」
「えぇ。よ~く、存じ上げておりますわ。いまなら大丈夫でしょう。きっと、お衣装選びが難航しておいでなんです。麗しいかたですが、とびきり気難しいかたでもありますからね。溺愛なさるエミリア様の見立てなら、案外すんなりとお決めになるかも……」
「行くわ」
言うなり、貴族令嬢にあるまじきスピードでさっと体の向きを変え、姿勢よく歩を進める。瞬く間に扉を開けられ、太鼓判は押したものの、モルナはさすがに慌てた。
「お、お待ちをエミリア様。さすがに先触れを」
「いやよ、このまま行く。ちんたらしてたら姉様のドレス選びに間に合わないじゃない」
「はぁ」
(しょうのない、お嬢様)
苦笑する乳姉妹には気づいているだろうに、さらっと無視。
エミリアは勝手知ったる通路を制服姿のまま、颯爽と歩いた。